出逢い
「母さん……」
暗い部屋だった。
枕元に置かれている小さな電灯だけが、寝台に横たわる女性の姿をうっすらと浮かび上がらせている。
か細く、弱々しい感じの女性だ。しかしその見目は麗しく、肌は新雪のように白い。
「母さん。ぼくが大きくなったら、かならず……かならず『じゅんませき』で、母さんのびょうきを治してあげるからね」
その横で心配そうな顔をしているのは、8歳ほどの少年である。
あどけない顔立ちだが、女性の透き通るような金色の瞳や、すこし垂れ下がった目尻などは、この少年にも共通していた。
女性は咳き込みながらも、少しかさついた、しかし温かい手で、少年の柔らかな茶色の髪をそっと撫でる。
「ありがとう、ルーク……。お前が勇敢な子で、母さんは嬉しいよ。でもね、母さんはルークが元気なら、それでいいの。どうか私のために、無理はしないでおくれ」
そうして、少し身体を起こして、優しく抱きしめてくれる。
母の温もりと匂いを感じるこの時間が、ルークはたまらなく好きだった。
「おやすみ、私の可愛いルーク……」
ルークが目を覚ますと、目の前には緑が広がっていた。
(今のは……夢か)
まだ半分寝ている頭で、ここはどこだろう、などと考えていると、朝露が木の葉を伝い、彼の鼻先に落ちてくる。
その冷たさに、思わず勢いよく身体を起こした。その身体は、夢の中の小さな身体とは違い、大人のものだ。
透き通るような金色の瞳をきょろきょろと動かし、ルークは辺りを見回した。
視界を埋め尽くすのは、高く低くそびえ立つ木々。太陽の位置からすると、現在は卯の刻。
だんだんと冷めてきた頭で、辺りの景色を認識し、ふと思い出す。
(ああ、昨日は森で野宿をしたんだっけ……)
彼が旅に出てから、もう丸一日が経とうとしていた。
先日、18歳になったルークは、母に見送られながら、生まれ故郷のモークルの町を旅立った。
旅の目的は、『純魔石』と呼ばれる石を探すためである。
この石は、手にしたものの願いをひとつだけ叶えてくれるという奇跡の石だ。
亡くなった父の書斎に置かれていた書物で、この石のことを知ったルークは、そのときからずっと心に決めていたのだ。
自分が大きくなったら、病に臥せっている母を治すため、『純魔石』を探す旅に出るのだ、と。
そしてルークは大人になり、勇んで家を出て行ったはいいものの、町外れの森で道に迷ってしまったのである。
二日目の朝を迎えた彼は、鞄に詰めてきた食料で簡単に朝食を済ませた。
そして、そばに置かれていた鋼鉄の剣を佩く。
繊細な装飾が施されたその剣は、剣術を嗜んでいたルークが旅立つ際、彼の師から譲り受けたものである。
鋼でできている割に軽く、切れ味も鋭い優れ物だ。
ルークが荷物袋を背負うと、腰の剣が澄んだ音を立てた。
(とりあえず、西の方に歩いてみよう。道も開けているし)
きっと、しばらく歩けば森を出られるだろう。ルークはそう気楽に考え、太陽の位置からおおよその方角を推測し、歩き始める。
心地よい小鳥のさえずりを聞いていると、ふと母の声を思い出した。
『母さんはルークが元気なら、それでいいの。どうか私のために、無理はしないでおくれ』
ルークが、旅に出たいと言うたびに、彼の母はこう言った。
(大丈夫だよ、母さん。必ず……)
僕が、『純魔石』を。
そうして胸を熱くした瞬間、彼の視界の端を、どんな木の葉よりも深い緑色が掠めた。
それは、がさがさと音を立てて近づいてくる。
(なんだ?)
ルークは思わず、剣の柄に手をかける。
がさがさ、がさがさ。
止むことなく聞こえているその音が緊張をもたらし、ルークの額に脂汗が滲む。
と、突然、それは木の上から落下してきた。
「‼︎」
真下にいたルークは、避けることができなかった。
瞬間、胸に感じる衝撃。
肺の空気が押し出され、かはっ、とルークは息を吐いた。
「いって……」
絞り出すように発された声は、まるで老爺のようである。
あまりに突然の出来事で、目を白黒させたルークだったが、全身に重みを感じ、恐る恐る視線を下に向けた。
そこにいたのは、獣。
いや、よく見ると、深緑の髪をした少女である。
(お、女の子⁉︎)
やがてその少女は、ゆっくりと顔を上げる。
外見こそ年頃の少女と変わらないが、白い肌には所々に鱗のようなものがある。
ぎらついた光をたたえた紅玉のような瞳の中、その瞳孔は縦に長い。
さらに、額に伸びるのは、硬く短い角。
こんな姿の生き物は、初めて見た。
「な……な……」
ルークは驚きのあまり、声にならない声を発する。
と、少女が、八重歯が覗く口を、小さく開いた。
「にん……げん……。たべ、もの……」
ルークの背筋は、凍りつく。
「う、うわあああ! 僕、僕なんか、食べても美味しくないぞっ!」
彼は手足をばたつかせ、逃げようと必死でもがく。
ところが。
「たべもの……を、ちょう、だい……」
少女は、弱々しい声でそう言ったのだった。
(明日から、節約生活かな)
ルークがそんな心配をするほどに荷物袋の中の食料が減った頃、少女はごちそうさま、と笑顔で言った。
先ほどとは打って変わって、生気に満ち溢れた彼女の顔を改めてみてみると、それなりに可愛らしい顔立ちをしている。
「人間って初めて見たけど、優しいんだね。ありがとう、あんたのおかげで助かったよ」
つり上がった目をにっこりと細めて笑うその少女は、自らをリラと名乗った。
「それにしても、『龍族』ねえ……。そんな種族、僕も初めて見たよ」
「私たちは森の奥深くに住んでいるからね。人間には見つからないように暮らしてるの」
リラの住む「龍族の里」は、この森の奥、今ふたりがいる場所よりもずっと東方にあるらしい。
人口が1000人ほどの小さな村で、住人の全員が、鱗や角を持つ龍族だ。
もちろん、リラ自身も龍族のひとりである。
「それで、どうしてリラは、こんなところにいるんだ。君が住む里は、ここよりもずっと向こうなんだろ?」
「ん、家出」
「家出って」
あっさりと答える少女に、ルークは苦笑する。
そんな彼を気にもとめず、リラはニヤリと笑う。
「あたし、人間になるんだ。『純魔石』を手に入れてね」
「なんだって⁉︎」
「なによ、そんな大声出して」
「……あ、いや」
奇跡の石の名を口にしたリラに、ルークの心臓が大きく跳ねた。
まさか、自分以外にも『純魔石』を探している人がいたなんて。
『純魔石』が叶えてくれる願いは、ただひとつだけ。
自分の目的を言おうか言うまいか逡巡している彼に、何を勘違いしたのか、リラは目尻をつり上げる。
「あーっ。あんた、『そんなおとぎ話を信じてるなんて馬鹿じゃねえの』、とか思ってるんでしょう! 悪いけど、こっちは本気なんだからね!」
「そういうわけじゃ」
むきになるリラを宥めようとした、その時。
ぐるるるる……。
低く、唸るような声が聞こえた。
ルークもリラも、弾かれたように顔を上げる。
そのまま身体を反転させ、互いに背中合わせになった。
「家出少女がもうひとり、来たってわけか」
鋼の剣を抜き、目の前に構えながらルークが言う。
「ふふっ、あんな格好悪い声を出すやつなんて、うちの里にはいないよ」
そう言いながら、リラも腰の短剣を抜く。
軽口を叩いてはいるものの、その頰には冷や汗が伝う。
ルークが思わず、ごくっ、と生唾を飲み込んだ瞬間。
その音を合図にしたかのように、銀色の毛皮がふたつ、踊った。
茂みから飛び出してきたそいつは、狼の形をした魔物だった。
真正面から向かってくる相手に、ルークは身構える。
数は、二匹。
「はっ!」
ルークは、白銀の刀身を、真一文字に薙いだ。
その鋭い刃先は、二匹の魔物のうち一匹をとらえ、その肉をやすやすと引き裂く。
真っ赤な鮮血を撒き散らしながら、狼の魔物は息絶えた。
しかし、別の一匹がリラの方へと回り込む。
「リラ!」
「任せてっ」
腕に噛みつこうと飛びかかってくる魔物を、リラは肘で打ち倒す。
そうして怯んだ相手の頸動脈に、彼女は短剣をねじ込んだ。
聞き苦しい悲鳴をあげたのはほんの一瞬。ぷつりと糸が切れたように、魔物は動かなくなった。
「やるじゃん。リラ、強いんだな」
口元に飛び散った魔物の血をぬぐいながら、ルークは言った。
その言葉に、へへっ、とリラは照れたように頬を掻く。
ルークは、魔物の毛皮で剣に付着した血をぬぐう。
そして、その剣をそのまま鞘に収めようとした、その瞬間だった。
「なっ」
「ルーク‼︎」
彼の背後から、もう一匹近づいていたのだ。
思い切り背中に体当たりをされ、ルークは大きくよろめく。
顔面から倒れるのはなんとか避けたが、受身を取って仰向けになったところで、相手に押し倒されてしまった。
「このっ……!」
剣で振り払おうとするが、彼の右手にあるのは、空虚な感触のみ。
押し倒され、背中を強く打ち付けた衝撃で、手放してしまったのだ。
(しまった……!)
慌てて剣のありかを確認しようとするが、魔物はそれを邪魔するように牙を剥く。
その鋭い先端が目指すのは、彼の喉笛。
目の前に迫る死の恐怖に、動かない身体。
自身の喉を食い破ろうとする魔物の動きが、やけにゆっくりと目に焼きついた。
もはや、悲鳴をあげることすらできなかった。
牙が食い込む瞬間に感じたのは__
紅い、閃光。
(……え?)
「熱っ……⁉︎」
遅れて、灼熱がやってくる。
(炎……?)
それは、目の前の魔物を包み込んだ。
おぞましい断末魔をあげながら、魔物が灼かれていく様を、ルークはぼんやりと見ていた。
やがて、肉の焦げる臭いが辺りを埋め尽くす頃。
リラの深緑の髪が目の前で踊り、そこでようやく、彼は我に返った。
「大丈夫? よかった、間に合って」
「い、今のは……」
「短剣を抜いてたんじゃ間に合わなかったから、炎を吐いたの。ちょっと火傷しちゃったね、ごめん」
リラは申し訳なさそうにそう言うと、ルークの頬へと手を滑らせた。
その場所に、じんじんとした痛みが走る。
リラはちょっと待ってて、と言うと、腰につけた皮の小袋から塗り薬を取り出し、それをルークの患部に丁寧に塗り込んだ。
(炎を吐いた、だって?)
白い手の柔らかさを、自身の頬に感じながら、ルークはリラの言葉を反芻する。
にわかには、信じがたいことだ。
「ん、これでよしっ」
紅玉の光が宿る目をきゅっと細め、微笑むリラ。
(どうやら、僕は……)
とんでもない奴に、出会ってしまったらしい。
恐怖の残滓で動かせない身体を、リラに助け起こしてもらいながら、ルークはそう思った。
「じゃあ、ルークも『純魔石』を探しているんだ」
結局ルークは、ためらいながらも、自分の旅の目的をリラに伝えた。
同じ石を探しているとなれば、この少女は自分の敵になってしまうかもしれない。
彼女はどんな反応をするだろうか、と不安になった。
だが。
「じゃああたし、ルークと一緒に行く」
「……は?」
「目的は一緒なんでしょう? ふたりのほうが危険も少ないし、なにより楽しいじゃないのさ」
リラは、至極あっさりと言ってのけた。
「でも、もし『純魔石』を見つけたらどうするんだよ。叶えられる願いは、ひとつだけなんだぞ」
「そのときは……ひょっとしたら、あんたとやりあうことになるかもしれないね」
声音を変えないまま恐ろしいことを言う少女に、ルークの心臓が跳ねる。
しかしリラは、八重歯を覗かせ、にかっと笑う。
「でも、あたしはあんたと旅がしたい。それだけだよ」
出会ったばかりだというのに、ずいぶんと思わせぶりなことを言う少女である。
「……なんだよ、それ」
思わず朱く染まる頬を隠すように、ルークはうつむいた。
豊かな緑の中、ざくざくと草を踏みしめる音が響き渡る。
その足音は、ふたつ。
「ここをまっすぐ行けば、じきに森を出られるよ。最初はどこに行くつもりなの?」
「……」
「もーっ、信じられない! あてもないまま旅をする気だったわけ⁉︎」
ついでに、うるさい口がひとつ。
__あたしはあんたと旅がしたい。それだけだよ。
彼女がどんな意味で、その言葉を言ったのかはわからない。
けれど、彼女と共に行くことを選んだのは、この言葉が自分の胸に、確かに響いたからだ。
そう、思う。
やがて、そびえ立っていた木々が途切れ、青空が見え始めた。
初めて目にする外の世界に、リラは歓喜の声をあげ、走り出す。
そんな彼女の背中を見つめながら、ルークは微笑んだ。