人形師「緋衣草」
「先生、いただいてまいりました」
少女は、師とする中年の男に木箱を渡した。
「ご苦労」
皺が目立ち始めた男は、丁寧に箱を受け取り、作業台の上に置く。
「では、始めるか」
「はい」
間接照明の薄暗い部屋である。さほど広くもない室内の中央に、大人の腰ほどの高さの木製テーブルが設置されていた。
その上に横たえられたものを何と見るかによって、工作台、または、手術台と呼び名が変わる。
それは、人形なのか。はたまた、人間であるのか。
「まずは、清めだ」
男は冷水に浸した布を軽く絞った。香気が立ち上る。セージの葉を煮たエキスが含まれている。部屋の隅の燭台では、乾燥させたセージそのものが焚かれていた。
「お前もやるのだ」
少女は頷き、布を絞ると、男の向かい側に立った。
「壊すなよ」
「わかりました」
つややかな表面に布を乗せる。薄い布を通して、固い「皮膚」を感じた。
「陶器のようだろう。だが、違う」
少女は一心に手を動かしながら、師の言葉に耳を傾けた。
「プラスチックでも、もちろん無粋な金属でもない」
自分と同じような曲線を持つ腕と脚を、少女は慎重に拭う。少しだけ膨らんだ胸に触れたとき、妙な恥ずかしさを感じた。
「この人形は、いったい何でできているのですか?」
「それを教えるのは、まだ先のことだな」
人型の造形物を清め終わると、男は水桶を片付けた。
「清めが、第一工程。いろはの「い」にあたる」
「いろはとは、なんですか?」
「知らんのか。まあ、無理もない。いろはというのは、物事の順序を表す。いろは坂、いろは歌などというものもある。始まりは「い」、次が「ろ」、そして「は」と続く」
「始めの「い」は、清め。その次は「ろ」。どんな内容ですか?」
男は木箱の蓋を開けた。
「お前に持ってきてもらったものを使う」
一房の毛髪が取り出された。
「あの子の髪ですね」
少女は、人形の頭に目を向けた。彼女と同じ年頃の人形には、すでに人工の髪が植えられている。
「移しだ」
男が人形の頭部に髪を近づけると、黒髪がざわりと蠢いた。まるで生きているように、髪の毛が人形の頭に生え移っていく。
「すごい。自分の居場所を見つけたみたい」
「人形でありながら、人形でない。人間ではないが、それに近いものなのだ。だから、髪も持ち主と思い込み、帰るのだ」
「あの子とよく似ています」
少女は、無表情に目を閉じる人形の顔と、今し方会ってきた娘の面影を重ねた。
「似ていなくては、人形師としての私の腕が悪いことになる」
男は、少女の横顔を一瞥した。真摯に人形を見つめる彼女が可愛らしくもあり、誇らしくもあった。
「でも」
「なんだ」
男はテーブルに両手をついた。少女の言葉を待った。
「少し、違いませんか。指が……いえ、爪が長いような」
男の手が震えた。満足感と、空恐ろしさが同居していた。
「よくわかったな」
褒められたとわかった少女は、頬を朱に染めた。
「完璧ではいかんのだ。完全な人形は、狂いをもたらす。同じものが、ふたつあってはならない」
どうして、という疑問を少女は飲み込んだ。師の目が遠くを見ていた。問いかけても、耳に入らない気がした。
「さあ、次の工程だ。依頼人の家に向かうぞ」
「わかりました」
問いを飲み込み、少女は師の指示で人形に衣服を着せ始めた。
「これは、なんと」
「そっくり」
師弟を迎えた夫婦は驚きに目を見張った。愛娘と瓜二つの人形が、布団の上で並んでいるのだ。指先の些細な違いに、実の親も気づかなかった。観察力が乏しいというより、驚きがすべてを上書きしていた。
「それでは、さっそく取りかかります」
両親を部屋の端に下がらせ、師弟二人は、娘と人形を挟む位置に場所を得た。
人間の娘は、荒い息を吐き、ぎらついた目をしていた。口元は涎で濡れ、めくれた唇から鋭い牙が覗いている。荒い縄が、いたいけな少女の身体を拘束していなければ、彼らは怪我をしていたかもしれない。
彼女は、明らかに憑かれていた。狐憑きとも、狼憑きとも見受けられた。
娘の異様な状態を前にして、両親は医者に診せることを避けた。正しい判断だ。真っ当な医師の診察を受けていたら、彼女は隔離され、検査という名の実験にさらされていたはずだ。
何かの伝手で、彼らは人形師である男のことを知り、助けを求めた。この手の事象に詳しい人間は、そうはいない。安全で、適切な対処方法を知っている数少ない人材に巡り会ったのは、幸運に違いない。
「物の怪の仕業です。こいつは、清らかなるものを求める。娘さんに似せた人形は、すでに清めてあります。そちらに、移し替える」
「お、お願いします」
唾を飲み込んだ父親が頭を下げると、人形師は香を焚き始めた。部屋の空気が清浄に洗われていく。娘の外に出しやすくするためである。
男は、セージの葉を憑かれた娘の口にねじ込んだ。噛みつかれそうになったが、間一髪で手を引っ込める。
「呪水を」
呪われた水だ。溺死者の肺の中から抽出した呪物であった。
少女は、あらかじめ師に言われていたとおり、指先に浸した呪水を娘に振りかけた。
悶える娘の身体から、じゅわっと音がして煙が立った。衣服が焦げていそうだが、炎はない。物の怪が、穢れた呪物に反応しているのだ。
「控えてください」
身を乗り出した父と母を制した。彼らは泣きそうな顔で膝を落とした。
「ついてこい」
男は、頃合いを見計らい、娘の口を塞いでいたセージを掴み取った。
「ひっ」
夫婦のかすれた悲鳴は、セージに食らいついた黒く禍々しい姿を見たからである。自分たちの娘の身体から、溶け崩れた獣が出てくるというおぞましい光景だった。
弟子の少女も、口をぽかんと開けて驚いたが、好奇心に溢れた目をしていた。
「入れ!」
男は、セージを人形の口に突っ込んだ。呪水で穢れた娘の身体から逃れ、清浄なる葉を追って、獣は人形の中に飛び込んだ。
「呪水を」
弟子から呪いの水が入った小瓶を受け取り、人形の口に中身を流し込んだ。
用意していた針と糸で、手早く人形の唇を縫い付けた。固いはずの皮膚は、いともたやすく縫い合わされた。同様に、目、鼻と、外界との繋がりを持つ出口を縫い付けていった。
「封じの完了だ」
物の怪は、住処を人形に移した。その上で、逃げ道をすべて塞ぎ、体内に呪物と共に封じ込めた。
清らかだった人形は、口に含んだ呪水により、穢れ始める。物の怪は穢れにあたり、大人しくなった。
人間の娘は、かすれた吐息を吐いていたが、顔は穏やかさを取り戻していた。師に促された少女は、彼女の縄を解いて、清浄な布で汗を拭い始めた。
依頼人の家を辞した二人は、封印した人形を暗闇に安置した。倉庫として、使っている一室だった。
時折、痙攣する人形も、数日も経てば、動かぬ無機物になる。そうして寝かせられた人形がすでに数体あった。
「先生、これらはどうするのですか?」
少女は人形たちの姿を見て、造形の精細さに感心した。ただ、どれも新しい人形と同じように、目や口が縫われているのが、異様さを感じさせた。
「穢れが満ちたら、破壊する。物の怪と一緒にな」
「そうなのですか」
少し寂しそうに言う少女を見て、男は首を振った。
「安心しろ。お前は壊さないさ。たとえ人形でもな」
少女の顔があがり、再び下を向いた。
男の弟子は、物の怪が取り憑くはずの人形であった。人間の娘に似せて作られた造形物なのである。
「娘よ」
愛娘の面影を宿した人形を、男は愛していた。
「はい」
そして、憎んでいた。
あまりにも完璧に作りすぎた人造物は、本物と見分けがつかなかった。それ故、破壊されるはずの人形が残り、血の通った人間がいなくなった。
「先生?」
肩に手を置かれ、少女は人間の温もりを感じた。
「なんでもない」
背を向けて部屋を出る師に、少女は涙を見た気がした。
それは、慈しみの涙だったろうか。
それとも。