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一度だけ時間を戻せる指輪を婚約破棄には使いませんでした

掲載日:2026/10/10

「ならば婚約は破棄だ。取り消したければ、その指輪を使うんだな」


 夜会の控室で、オスカー様は私の右手を指さした。

 銀の指輪には透明な石が一つ。その奥で青い光が揺れている。

 祖母から譲られた、一度だけ時間を戻せる指輪だ。戻れるのは五分前。記憶を持ち越せるのは使った本人だけで、魔法を使えば光は消える。時を戻しても、その力まで戻ることはない。


「五分前なら、まだ僕を責める前だろう」


 オスカー様は壁の時計を見た。

 別の令嬢の腰を抱いていたことを咎めただけなのに、ずいぶんな言い草だった。


「つまり私が指輪を使って、何も見なかった顔をすればよろしいのね」

「そういうことだ。いちいち嫉妬されては息が詰まる」


 子供の頃から決まっていた婚約だった。

 私はいずれこの人の妻になり、同じ屋敷に住む。食卓では向かいの席に座り、年を取っても隣で夜会の挨拶をする。

 そのつもりで衣装を選び、彼の家の習慣を覚えてきた。

 急に全部なくなると思うと、喉の奥が冷たくなった。


「ほら。迷っている暇はないぞ」


 指輪の石を親指でなぞる。

 五分戻せば、私は廊下で彼を見つける。あの令嬢を抱く腕も見る。そのうえで笑いかければ、今までどおり婚約者でいられる。


 それはずいぶん、高い買い物ではないかしら。


「もったいないですわ」

「何?」

「この指輪を使うのは、もっと大事な時にいたします」


 彼が笑った。私がつられて笑うのを待っている顔だった。

 私は扇を閉じた。


「婚約破棄、承りました。父にもそう伝えます」

「フローラ。意地を張るなよ」

「ええ。取り消していただこうとは思いません」


 彼を残して控室を出ると、すぐに父が見つかった。

 事情を話している間も扉の方が気になった。彼が追いかけてきたら、私の足は止まるだろうか。

 けれどオスカー様が姿を現したのは、父が彼の両親を呼び寄せた後だった。

 壁の時計を見ると、五分はとうに過ぎていた。


 ◇


 両家の話はその夜のうちについた。

 結婚に向けた取り決めを解くため、父は翌日も忙しいらしい。私には「戻りたいと言っても、今度は簡単にはいかんぞ」とだけ言った。

 部屋へ帰ると、侍女のニナが髪飾りを外してくれた。


「明日の朝は、どうなさいますか」

「起こさないで。お昼まで眠るわ」

「テオ様のお見送りも?」


 鏡の中の私が顔を上げた。

 そうだった。テオは明日の朝、海を渡る。港の警備隊を手伝う半年の任務だ。出立前に見送りへ来いと言われ、早起きできたらと答えていた。


「……起こして。必ず」


 ニナが出ていくと、私は机の引き出しを開けた。

 奥に小さな木彫りの鳥がある。羽は片方だけ太く、くちばしは短すぎる。裏返すと、私の名前が大きさの違う文字で彫ってあった。

 十歳の誕生日にもらったものだ。

 あの時もテオは、今日のように出立を控えていた。騎士になるため実家を離れ、従騎士として住み込む前の日だった。


『白鳥なんだが』

『蕪かと思ったわ』

『首を削りすぎた』


 そう言って笑う手に、布が巻かれていた。

 私は鳥を返さなかった。もっと上手に彫れたら取り替えるという約束も断って、ずっと持っていた。

 社交界へ出るようになってからは、机の上から引き出しへ移した。オスカー様にも見せていない。


 テオは帰省するたび私を訪ねてきた。

 私が客前で歌詞を忘れた日には、彼だけが笑った。他の人が慰める横で、二番を三回歌う歌は初めて聞いた、と。

 腹が立って言い返すうちに泣きそびれ、次に会った時にはこちらから笑い話にしていた。

 オスカー様の前では、あの失敗の話を一度もしなかった。


 木の鳥を掌で包む。

 明日、この人までいなくなるのだ。


 私は寝台へ入らず、彼に渡すものを探し始めた。

 菓子は日持ちしない。花は船に持ち込めば邪魔だろう。刺繍をしたハンカチならあるけれど、渡して妙に思われないかしら。

 一枚選んで包み直しているうちに、窓の外が白くなっていた。


 ◇


 桟橋で最初の鐘が鳴った時、私は馬車を降りるところだった。

 出航まで五分ほどだと御者が言う。

 テオは積み荷の脇に立っていた。紺の騎士服に外套を重ね、革手袋を片方だけはめている。私を見つけると、手にしていたもう片方を振った。


「本当に起きたのか」

「一睡もしていないの。褒めてちょうだい」

「それは起きたと言わない」


 いつもの声だった。

 私はニナに馬車のそばで待っていてもらい、彼の前へ進んだ。潮風で髪が頬に張りつく。整える手つきがもどかしくて、耳へまとめて押し込んだ。


「これ。持っていって」


 包みを差し出すと、彼はその場で紐をほどいた。

 白いハンカチの隅に、青い小鳥を刺してある。


「鳥だ」

「見れば分かるでしょう」

「俺のは分からなかっただろう」

「あれも鳥よ。今朝、確かめたもの」


 彼の指が止まった。


「まだ持ってるのか」

「捨てると思った?」

「首の長いやつを送るから、並べてくれ」


 私は頷いた。次もらう鳥は机の上に置こう。二羽並べれば、古い方も白鳥に見えるかもしれない。

 彼はハンカチを丁寧に畳んで懐へ入れた。


「昨日のこと、姉から聞いた」


 急に改まった声になった。


「婚約を解消したって。本当か」

「ええ。両家で話もついたわ」

「……そうか」


 テオは手袋をはめかけて、またやめた。

 私も何か言わなければと思った。平気だと笑うか、ひどい男だったと悪口を言うか。

 どちらも違う気がして、船の舷側へ目をやった。


「半年なんて、すぐだろうな」

「出かける人は皆そう言うのよ」

「手紙を書く。返事をくれるか」

「字が読めたらね」

「そこから練習か」


 彼が笑って、私も笑った。

 積み荷が次々に運ばれていく。人が通るたび少しずつ場所を譲って、私たちは桟橋の端へ寄った。

 船員がテオを呼んだ。彼は片手を上げて応じ、それでも私の方へ向き直った。


「フローラ」


 テオが私の前に立つと、風が少し弱くなった。


「戻ったら、君に求婚してもいいだろうか」


 冗談だと思った。

 けれど笑おうとした彼の口元は引きつり、手袋を握る指に力が入っていた。


「ずっと好きだった。あの不格好な白鳥を彫っていた頃から」


 胸の奥が大きく跳ねた。

 白鳥。帰省の日。二番を三回歌った夜。

 彼が私を見ていた顔を思い出す。あの時も。その時も。


「私……」


 好き、と言いかけて、声が喉に引っかかった。

 今は上手く言えそうにない。あとで手紙に書けばいい。部屋で落ち着いて、言葉を選んで。

 指輪の石に触れ、私は開きかけた口を閉じた。


「テオ! もう出るぞ!」


 彼が船へ振り返る。


「急に悪かった。返事は手紙でくれ」


 頬に触れかけた手が引っ込み、彼は乗船橋を駆け上がった。

 私も数歩追ったけれど、船員が橋を引き始めていた。向こうでテオがこちらを振り返る。


「私も、あなたが――」


 二度目の鐘が鳴った。

 低く大きな音に自分の声が消える。綱が外され、船と桟橋の間に黒い水が広がった。

 テオは手を耳へ当てた。聞こえなかったのだ。

 私は大きく手を振った。彼も振り返した。


 さようならの挨拶に、なってしまった。


 ◇


 手紙を書けばいい。

 半年待てば帰ってくる。それまでに何度でも伝えられる。

 分かっているのに、さっきのテオの顔が目に残っていた。

 好きだと言って、返事を待っていた。あんなに心細そうな顔をする人だと知らなかった。

 私が頷いたら、どんな顔をしただろう。


 右手を胸の前へ上げると、石の中で青い光が揺れた。

 今まで何度も、ここを撫でては手を下ろしてきた。

 もっと困った時に。もっと大事なことが起きた時に。

 今日もそうして持ち帰れば、指輪は明日も光っている。


 でも、欲しいのは今だった。

 船の上の彼へ届く距離で、私も好きだと言いたい。その時の顔が見たかった。


 右手を握りしめる。


「五分を返して」


 掌の中が熱くなった。

 目を閉じた一瞬で潮風が途切れ、次に瞼を開けると船は桟橋につながれていた。

 人々が積み荷を運んでいる。その向こうで、テオが片方の手袋を振っていた。


 私は馬車の前に立っていた。

 左手には、まだ渡していないハンカチの包みがある。

 右手を開くと、石は透き通ったまま、奥の光だけが消えていた。


「お嬢様?」


 ニナの声を背中で聞いた。

 裾を持ち上げて走る。テオが驚いて手袋を下ろし、私を受け止めるように両手を広げた。

 その胸へ飛び込む勇気までは出なかった。目の前で止まり、息を吸う。


「好きよ」


 テオが目を見開いた。


「あなたが好き。半年後、必ず求婚してちょうだい」


 言えた。

 今度は鐘も鳴らない。邪魔をする人もいない。

 テオは口を開き、それを閉じて、私の顔を覗き込んだ。


「……俺に言ってる?」

「他の人の所へ走ってきたように見えた?」

「いや。でも、君は」

「婚約は解消したわ。お姉様に聞いたでしょう」

「それも知ってるのか」


 彼の視線が私の右手へ落ちた。

 昔から何度も見せびらかしていた指輪だけに、彼が気づくのも早かった。


「使ったのか」


 頷くと、テオは急に私の肩をつかんだ。


「何があった。誰か怪我でもしたのか」

「違うの。あなた、私に好きだと言ってから船に乗ったのよ」


 彼の手が止まった。


「私が返事を後回しにしているうちに」

「俺が?」

「求婚してもいいかって。返事は手紙でくれって」

「……言いそうだ」


 テオが片手で顔を覆った。

 耳まで赤くなっていくのが見える。


「今日こそ言うつもりだったんだ。けれど君の顔を見たら、昨日別れたばかりなのにと思って」

「それで船が出る直前まで迷ったのね」

「たぶん」

「私も手紙に書けばいいと思ったのよ。二人とも、間に合わなかったわね」


 顔を見合わせて笑ってしまった。

 肩の手が離れる。惜しくなってその袖をつかむと、テオが顔を覆っていた手も下ろした。


「その返事だけのために、使ったのか。たった一度を」

「ええ」

「手紙でも、俺は……」

「今、聞いてほしかったの」


 彼は黙った。

 袖をつかむ指が熱い。離したら逃げ出したくなりそうで、もう少し強く握った。


「せっかく使ったのだから、あなたも、もう一度言ってちょうだい」

「何を」

「覚えていないからといって、とぼけないで」


 テオは小さく息を吐いた。それから私の指を袖からほどき、自分の手で包んだ。


「好きだ、フローラ。ずっと前から」


 さっきより声が近かった。


「君に会うと、帰ってきたと思えた。兵舎で嫌なことがあっても、次はいつ会えるか考えていた」

「それ、さっきは言わなかったわ」

「今回は、まだ時間があるから」


 彼が笑った。

 目尻が下がり、うまく言葉が続かないらしく口元だけが動く。その顔を見ていたら、私まで頬が緩んだ。


「私も待っていたのよ。あなたが帰る日には、用事を入れなかった」

「いつも暇だと言ってたじゃないか」

「そういうことにしておいたの」


 彼が私の手を引いた。

 今度は胸に頬が触れるまで近づけた。外套から、日に干した毛織物の匂いがする。

 彼の腕が背中へ回る。私は包みをつぶさないよう横へよけ、空いた手をその背へ伸ばした。


「半年後、迎えに来てもいいか」

「ええ。でも船を降りたら、最初に私を見つけて」

「必ず」

「新しい白鳥も忘れないでね」


 私が顔を上げると、彼は不思議そうに瞬いた。


「それも話したのよ。一度目に」

「俺はあと何を約束した?」

「帰るまで毎日、私のことを考えるって」


 そこは勝手に付け足した。

 テオは疑わしそうな顔をしたけれど、すぐに笑った。


「それなら、できるな」


 船員がテオを呼んだ。

 私は腕をほどき、急いで包みを押しつけた。彼は中を確かめず懐へしまい、私の頬へ手を添えた。


「返事、忘れないから」


 唇が触れた。

 短くて、少し震えていた。

 もっとと言う暇もなく彼は離れ、私の顔を見て笑った。


「今のためにも使えたな」

「もうありません。次も失敗したら、そのままですわ」

「だったら、次はゆっくり」


 二度目の鐘が鳴る前に、テオは乗船橋を駆け上がった。

 向こうへ渡りきると、すぐに振り返る。

 私は右手を大きく振った。役目を終えた石に朝日が当たり、青い光がなくてもきれいだと思った。


 ◇


 半年後、同じ桟橋で私はテオを待っていた。

 あれから彼の手紙は十二通届いた。最初の一通は「好きだ」とだけ、読めないと言い逃れできない大きな文字で書いてあった。

 私は一通残らず返事を書き、もらった手紙は鳥と一緒にしまってある。


 船から下りたテオは、約束どおり真っすぐ私の所へ来た。

 新しい白鳥は首が長くなりすぎて、少し前へ傾いていた。

 受け取って笑う私の前で、彼が片膝をつく。


「今度は間に合ったな」


 差し出された小箱には金の指輪が入っていた。


「フローラ。俺と結婚してください」

「はい」


 返事に迷うことはなかった。

 右手には祖母の指輪。左手にはテオの指輪。

 両方を眺めていると、彼が腰をかがめた。


「次はゆっくり、と約束したけれど」


 私は白鳥を大事に鞄へしまい、両手を空けた。


「ええ。今日は船も待っていませんわ」

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