一度だけ時間を戻せる指輪を婚約破棄には使いませんでした
「ならば婚約は破棄だ。取り消したければ、その指輪を使うんだな」
夜会の控室で、オスカー様は私の右手を指さした。
銀の指輪には透明な石が一つ。その奥で青い光が揺れている。
祖母から譲られた、一度だけ時間を戻せる指輪だ。戻れるのは五分前。記憶を持ち越せるのは使った本人だけで、魔法を使えば光は消える。時を戻しても、その力まで戻ることはない。
「五分前なら、まだ僕を責める前だろう」
オスカー様は壁の時計を見た。
別の令嬢の腰を抱いていたことを咎めただけなのに、ずいぶんな言い草だった。
「つまり私が指輪を使って、何も見なかった顔をすればよろしいのね」
「そういうことだ。いちいち嫉妬されては息が詰まる」
子供の頃から決まっていた婚約だった。
私はいずれこの人の妻になり、同じ屋敷に住む。食卓では向かいの席に座り、年を取っても隣で夜会の挨拶をする。
そのつもりで衣装を選び、彼の家の習慣を覚えてきた。
急に全部なくなると思うと、喉の奥が冷たくなった。
「ほら。迷っている暇はないぞ」
指輪の石を親指でなぞる。
五分戻せば、私は廊下で彼を見つける。あの令嬢を抱く腕も見る。そのうえで笑いかければ、今までどおり婚約者でいられる。
それはずいぶん、高い買い物ではないかしら。
「もったいないですわ」
「何?」
「この指輪を使うのは、もっと大事な時にいたします」
彼が笑った。私がつられて笑うのを待っている顔だった。
私は扇を閉じた。
「婚約破棄、承りました。父にもそう伝えます」
「フローラ。意地を張るなよ」
「ええ。取り消していただこうとは思いません」
彼を残して控室を出ると、すぐに父が見つかった。
事情を話している間も扉の方が気になった。彼が追いかけてきたら、私の足は止まるだろうか。
けれどオスカー様が姿を現したのは、父が彼の両親を呼び寄せた後だった。
壁の時計を見ると、五分はとうに過ぎていた。
◇
両家の話はその夜のうちについた。
結婚に向けた取り決めを解くため、父は翌日も忙しいらしい。私には「戻りたいと言っても、今度は簡単にはいかんぞ」とだけ言った。
部屋へ帰ると、侍女のニナが髪飾りを外してくれた。
「明日の朝は、どうなさいますか」
「起こさないで。お昼まで眠るわ」
「テオ様のお見送りも?」
鏡の中の私が顔を上げた。
そうだった。テオは明日の朝、海を渡る。港の警備隊を手伝う半年の任務だ。出立前に見送りへ来いと言われ、早起きできたらと答えていた。
「……起こして。必ず」
ニナが出ていくと、私は机の引き出しを開けた。
奥に小さな木彫りの鳥がある。羽は片方だけ太く、くちばしは短すぎる。裏返すと、私の名前が大きさの違う文字で彫ってあった。
十歳の誕生日にもらったものだ。
あの時もテオは、今日のように出立を控えていた。騎士になるため実家を離れ、従騎士として住み込む前の日だった。
『白鳥なんだが』
『蕪かと思ったわ』
『首を削りすぎた』
そう言って笑う手に、布が巻かれていた。
私は鳥を返さなかった。もっと上手に彫れたら取り替えるという約束も断って、ずっと持っていた。
社交界へ出るようになってからは、机の上から引き出しへ移した。オスカー様にも見せていない。
テオは帰省するたび私を訪ねてきた。
私が客前で歌詞を忘れた日には、彼だけが笑った。他の人が慰める横で、二番を三回歌う歌は初めて聞いた、と。
腹が立って言い返すうちに泣きそびれ、次に会った時にはこちらから笑い話にしていた。
オスカー様の前では、あの失敗の話を一度もしなかった。
木の鳥を掌で包む。
明日、この人までいなくなるのだ。
私は寝台へ入らず、彼に渡すものを探し始めた。
菓子は日持ちしない。花は船に持ち込めば邪魔だろう。刺繍をしたハンカチならあるけれど、渡して妙に思われないかしら。
一枚選んで包み直しているうちに、窓の外が白くなっていた。
◇
桟橋で最初の鐘が鳴った時、私は馬車を降りるところだった。
出航まで五分ほどだと御者が言う。
テオは積み荷の脇に立っていた。紺の騎士服に外套を重ね、革手袋を片方だけはめている。私を見つけると、手にしていたもう片方を振った。
「本当に起きたのか」
「一睡もしていないの。褒めてちょうだい」
「それは起きたと言わない」
いつもの声だった。
私はニナに馬車のそばで待っていてもらい、彼の前へ進んだ。潮風で髪が頬に張りつく。整える手つきがもどかしくて、耳へまとめて押し込んだ。
「これ。持っていって」
包みを差し出すと、彼はその場で紐をほどいた。
白いハンカチの隅に、青い小鳥を刺してある。
「鳥だ」
「見れば分かるでしょう」
「俺のは分からなかっただろう」
「あれも鳥よ。今朝、確かめたもの」
彼の指が止まった。
「まだ持ってるのか」
「捨てると思った?」
「首の長いやつを送るから、並べてくれ」
私は頷いた。次もらう鳥は机の上に置こう。二羽並べれば、古い方も白鳥に見えるかもしれない。
彼はハンカチを丁寧に畳んで懐へ入れた。
「昨日のこと、姉から聞いた」
急に改まった声になった。
「婚約を解消したって。本当か」
「ええ。両家で話もついたわ」
「……そうか」
テオは手袋をはめかけて、またやめた。
私も何か言わなければと思った。平気だと笑うか、ひどい男だったと悪口を言うか。
どちらも違う気がして、船の舷側へ目をやった。
「半年なんて、すぐだろうな」
「出かける人は皆そう言うのよ」
「手紙を書く。返事をくれるか」
「字が読めたらね」
「そこから練習か」
彼が笑って、私も笑った。
積み荷が次々に運ばれていく。人が通るたび少しずつ場所を譲って、私たちは桟橋の端へ寄った。
船員がテオを呼んだ。彼は片手を上げて応じ、それでも私の方へ向き直った。
「フローラ」
テオが私の前に立つと、風が少し弱くなった。
「戻ったら、君に求婚してもいいだろうか」
冗談だと思った。
けれど笑おうとした彼の口元は引きつり、手袋を握る指に力が入っていた。
「ずっと好きだった。あの不格好な白鳥を彫っていた頃から」
胸の奥が大きく跳ねた。
白鳥。帰省の日。二番を三回歌った夜。
彼が私を見ていた顔を思い出す。あの時も。その時も。
「私……」
好き、と言いかけて、声が喉に引っかかった。
今は上手く言えそうにない。あとで手紙に書けばいい。部屋で落ち着いて、言葉を選んで。
指輪の石に触れ、私は開きかけた口を閉じた。
「テオ! もう出るぞ!」
彼が船へ振り返る。
「急に悪かった。返事は手紙でくれ」
頬に触れかけた手が引っ込み、彼は乗船橋を駆け上がった。
私も数歩追ったけれど、船員が橋を引き始めていた。向こうでテオがこちらを振り返る。
「私も、あなたが――」
二度目の鐘が鳴った。
低く大きな音に自分の声が消える。綱が外され、船と桟橋の間に黒い水が広がった。
テオは手を耳へ当てた。聞こえなかったのだ。
私は大きく手を振った。彼も振り返した。
さようならの挨拶に、なってしまった。
◇
手紙を書けばいい。
半年待てば帰ってくる。それまでに何度でも伝えられる。
分かっているのに、さっきのテオの顔が目に残っていた。
好きだと言って、返事を待っていた。あんなに心細そうな顔をする人だと知らなかった。
私が頷いたら、どんな顔をしただろう。
右手を胸の前へ上げると、石の中で青い光が揺れた。
今まで何度も、ここを撫でては手を下ろしてきた。
もっと困った時に。もっと大事なことが起きた時に。
今日もそうして持ち帰れば、指輪は明日も光っている。
でも、欲しいのは今だった。
船の上の彼へ届く距離で、私も好きだと言いたい。その時の顔が見たかった。
右手を握りしめる。
「五分を返して」
掌の中が熱くなった。
目を閉じた一瞬で潮風が途切れ、次に瞼を開けると船は桟橋につながれていた。
人々が積み荷を運んでいる。その向こうで、テオが片方の手袋を振っていた。
私は馬車の前に立っていた。
左手には、まだ渡していないハンカチの包みがある。
右手を開くと、石は透き通ったまま、奥の光だけが消えていた。
「お嬢様?」
ニナの声を背中で聞いた。
裾を持ち上げて走る。テオが驚いて手袋を下ろし、私を受け止めるように両手を広げた。
その胸へ飛び込む勇気までは出なかった。目の前で止まり、息を吸う。
「好きよ」
テオが目を見開いた。
「あなたが好き。半年後、必ず求婚してちょうだい」
言えた。
今度は鐘も鳴らない。邪魔をする人もいない。
テオは口を開き、それを閉じて、私の顔を覗き込んだ。
「……俺に言ってる?」
「他の人の所へ走ってきたように見えた?」
「いや。でも、君は」
「婚約は解消したわ。お姉様に聞いたでしょう」
「それも知ってるのか」
彼の視線が私の右手へ落ちた。
昔から何度も見せびらかしていた指輪だけに、彼が気づくのも早かった。
「使ったのか」
頷くと、テオは急に私の肩をつかんだ。
「何があった。誰か怪我でもしたのか」
「違うの。あなた、私に好きだと言ってから船に乗ったのよ」
彼の手が止まった。
「私が返事を後回しにしているうちに」
「俺が?」
「求婚してもいいかって。返事は手紙でくれって」
「……言いそうだ」
テオが片手で顔を覆った。
耳まで赤くなっていくのが見える。
「今日こそ言うつもりだったんだ。けれど君の顔を見たら、昨日別れたばかりなのにと思って」
「それで船が出る直前まで迷ったのね」
「たぶん」
「私も手紙に書けばいいと思ったのよ。二人とも、間に合わなかったわね」
顔を見合わせて笑ってしまった。
肩の手が離れる。惜しくなってその袖をつかむと、テオが顔を覆っていた手も下ろした。
「その返事だけのために、使ったのか。たった一度を」
「ええ」
「手紙でも、俺は……」
「今、聞いてほしかったの」
彼は黙った。
袖をつかむ指が熱い。離したら逃げ出したくなりそうで、もう少し強く握った。
「せっかく使ったのだから、あなたも、もう一度言ってちょうだい」
「何を」
「覚えていないからといって、とぼけないで」
テオは小さく息を吐いた。それから私の指を袖からほどき、自分の手で包んだ。
「好きだ、フローラ。ずっと前から」
さっきより声が近かった。
「君に会うと、帰ってきたと思えた。兵舎で嫌なことがあっても、次はいつ会えるか考えていた」
「それ、さっきは言わなかったわ」
「今回は、まだ時間があるから」
彼が笑った。
目尻が下がり、うまく言葉が続かないらしく口元だけが動く。その顔を見ていたら、私まで頬が緩んだ。
「私も待っていたのよ。あなたが帰る日には、用事を入れなかった」
「いつも暇だと言ってたじゃないか」
「そういうことにしておいたの」
彼が私の手を引いた。
今度は胸に頬が触れるまで近づけた。外套から、日に干した毛織物の匂いがする。
彼の腕が背中へ回る。私は包みをつぶさないよう横へよけ、空いた手をその背へ伸ばした。
「半年後、迎えに来てもいいか」
「ええ。でも船を降りたら、最初に私を見つけて」
「必ず」
「新しい白鳥も忘れないでね」
私が顔を上げると、彼は不思議そうに瞬いた。
「それも話したのよ。一度目に」
「俺はあと何を約束した?」
「帰るまで毎日、私のことを考えるって」
そこは勝手に付け足した。
テオは疑わしそうな顔をしたけれど、すぐに笑った。
「それなら、できるな」
船員がテオを呼んだ。
私は腕をほどき、急いで包みを押しつけた。彼は中を確かめず懐へしまい、私の頬へ手を添えた。
「返事、忘れないから」
唇が触れた。
短くて、少し震えていた。
もっとと言う暇もなく彼は離れ、私の顔を見て笑った。
「今のためにも使えたな」
「もうありません。次も失敗したら、そのままですわ」
「だったら、次はゆっくり」
二度目の鐘が鳴る前に、テオは乗船橋を駆け上がった。
向こうへ渡りきると、すぐに振り返る。
私は右手を大きく振った。役目を終えた石に朝日が当たり、青い光がなくてもきれいだと思った。
◇
半年後、同じ桟橋で私はテオを待っていた。
あれから彼の手紙は十二通届いた。最初の一通は「好きだ」とだけ、読めないと言い逃れできない大きな文字で書いてあった。
私は一通残らず返事を書き、もらった手紙は鳥と一緒にしまってある。
船から下りたテオは、約束どおり真っすぐ私の所へ来た。
新しい白鳥は首が長くなりすぎて、少し前へ傾いていた。
受け取って笑う私の前で、彼が片膝をつく。
「今度は間に合ったな」
差し出された小箱には金の指輪が入っていた。
「フローラ。俺と結婚してください」
「はい」
返事に迷うことはなかった。
右手には祖母の指輪。左手にはテオの指輪。
両方を眺めていると、彼が腰をかがめた。
「次はゆっくり、と約束したけれど」
私は白鳥を大事に鞄へしまい、両手を空けた。
「ええ。今日は船も待っていませんわ」




