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澱の底で呼んでいる

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/05/17

・初日


都会の喧騒を離れ、休職を兼ねて亡き祖父の家を訪れたのは、梅雨の終わりを告げる湿った風が吹き始めた頃だった。


無人になった家の中は、逃げ場のない湿気が充満していた。

襖の裏には黒ずんだカビが浮き、歩くたびに畳がじっとりと足の裏に吸い付く。

片付けに来たつもりが、いつの間にか家そのものに飲み込まれているような感覚に陥る。


庭に、小さな池があった。

幼い頃訪れた時には大きな池に見えていたが、こうしてみると小さい。

祖父の家を訪れた時に、庭に出て、よくこの池のほとりで遊んだものだった。

…一人でだっただろうか、…祖父も一緒だっただろうか、それとも親戚か近所の子どもが来ていたのだろうか、記憶はあいまいだ…。

私の兄弟と共に、と思ったが、私に兄弟は……。

……いなかった、はずだ。


手入れの途絶えたその池は、もはや水というよりは、濃緑色の濁液で満たされた底無しの穴のように見えた。

水面は、まるで腐った油のような膜を張り、陽光を一切跳ね返さず、貪欲にその光を奥底へと吸い込んでいた。

もし棒でその表面をかき回せば、底に沈殿したどろりとした黒い塊が、何年も密閉されていた苦い泥の匂いとともに、汚物のようにせり上がってくるだろう。


昼下がり、私は何かに誘われるように、池の縁へと吸い寄せられていた。

湿った石に足を乗せ、落ちないように気を付けながら、しゃがんで身を乗り出してその深淵を覗き込む。

時間が異様に屈折し、そこに数分いたのか、あるいは数時間が経過したのか、感覚が麻痺して判然としない。

ただ、池のほとりにかがみ込んでいる私の影だけが、意思を持たない肉塊のように、粘つく泥濘ぬかるみの中へと深く、深く沈み込んでいた。


視界の端で、水面がわずかに脈打つ。

それは波紋というにはあまりに鈍く、重苦しい動きだった。

膜を張った水は、まるでふやけた死肉のように弾力を持ち、空気を遮断している。その下で何かが蠢いている。

逃げ場を失った熱気と、腐敗の途上にある何かが混ざり合い、吸い付くような湿り気が首筋に纏わりついた。


覗き込む時間が長くなるにつれ、私は自分の眼球が、池の表面に浮く油のと一体化していくような錯覚に囚われた。

瞬きさえ忘れていた。

乾いたはずの瞳に、池の濁液がじわじわと染み込んでくるような感覚がある。

水面は、暗い口を開けて私を待っているようだった。


池の周囲は、かつてはきれいに手入れされた苔があったのだろう。

今はただの草むらになっている。

湿った土が腐るような、咽せるような芳香が立ち上る。

視界の輪郭が融解し、庭の景色がぐにゃりと歪み始める。

それでも私は目を逸らせない。

底無しの泥の底、その屈折した闇の向こう側に、今にも「何か」が浮かび上がってくるのではないかと、心臓の鼓動を濡らしたまま待ち続けていた。


どれくらいそうしていただろう。

足のしびれと痛みに気が付き、私は湿った家の中へと戻っていった。




・二日目


次の日の昼下がり。

片づけに疲れた私は、また庭に出て池をのぞき込んでいた。


水面に映る自分の顔に、言いようのない違和感を覚える。

鏡を見る時のそれとは決定的に違う、生理的な拒絶反応が脳の奥で警笛を鳴らしていた。

私は、確かめるようにゆっくりと一回、まばたきをした。

だが、水面の中の「私」は、私の動きを裏切った。

コンマ数秒、あるいはもっと長い、致命的な沈黙。

泥にまみれた「私」は、現実の動きから明らかに遅れて、粘りつくような緩慢さで瞼を閉じ、そして開いた。

その瞬間、背筋に芯まで冷えるような寒気が、じわじわと這い上がってくるのを感じた。


水面に映る像は、もはや単なる反射ではなかった。

油が浮かんでいるような水面の輪郭が、境界を失って不規則に融解し、私のかおは出来損ないの粘土細工のように歪んでいく。

水の中の「何か」が、私の皮を内側から引き剥がし、全く別の他人へと作り替えていくような、悍ましい変貌の過程。

それを見つめる私の瞳もまた、濁液に侵食され、次第に人間としての光を失っていく……かのように思えた。



「ばしゃん」



唐突に音がした。

刹那、虚空に子供の手が伸ばされて…。

いや、違う。

水面には波紋一つ立たない。

何かが跳ねた形跡もなく、ただ不自然な静寂が耳に突き刺さり、じっとりと肌を濡らしていった。



水面に目を戻すと、いつもの自分の顔が見えているだけだった。

私は立ち上がり、緩く首を振り、家の中へと戻った。





・三日目


次の日の昼下がりも、私は日課になっている池へと足を向けた。



私は、いつからこうして動けずにいるのだろうか。


視線が、水面という名の厚い膜に縫い付けられて離れない。池はどこまでも静止していた。

波紋ひとつ立たないその場所は、もはや液体としての流動性を失い、何層にも重なった濁液が凝固した塊のように見える。

どこまでが濁った水で、どこからが堆積した泥なのか、その境界は完全に融解していた。


見えない。

何も見えないはずなのに、網膜がその「分からなさ」の奥底を執拗にまさぐり続ける。


ふいに、その重層的な闇の底で、何かが動いた。

いや、動いたのではない。色の密度が、わずかに変わったのだ。

漆黒の底から、毒々しい朱色がじわりと滲み出してきた。

それは最初、形を持たない染みのようだったが、次第に意思を持つ肉塊のような輪郭を帯び始める。


水の密度が、内側から変質していく。

泥を孕んだ粘り気のある水が、何かに押し上げられるように、ゆっくりと、しかし確実に盛り上がってくる。


——ああ、魚だ。


そう認識するまでに、呼吸を二度、三度と躊躇した。

あまりにも緩慢で、あまりにも異質な浮上だった。

それは私の知る「鯉」という生き物の動きではなく、泥の底に沈んでいた「重たい記憶」が、長い年月を経てようやく水面に顔を出す、その瞬間に似ていた。


やがて水面の下、数センチメートルの位置で、その影が止まった。


その頭部には、左右対称の黒い点があった。

ただの鱗の配置、ただの色彩の乱れに過ぎないはずだった。

しかし、その配置はあまりにも正しすぎた。

意味を持たないはずの線が、水中の屈折と混ざり合い、悍ましいまでの表情を帯びていく。

窪みは虚ろな眼窩になり、ひび割れた模様は苦悶に歪む口角となる。


脳が、私の意志に反してそれを「人の顔」だと認識した。

拒絶しようとしても、一度「かお」として認識してしまったものは、もう二度と模様には戻らなかった。


そして、目が合った。


それは「見つめられている」といった情緒的なものではなかった。

逃げ場のない、圧倒的な主観の圧迫感。

私が覗き込むよりもずっと前から、その「かお」は水の底から私を待ち構え、先に見定めていたのだ。


射抜かれた視線が、吸い付くように私を捉えて放さない。

まばたきをすれば、その瞬間に引き摺り込まれる。

視線を逸らせば、背後から首を掴まれる。


水面と私の瞳の間には、一寸の隙間もないほどの重苦しい沈黙が横たわり、私はただ、ふやけた自分の指先が池の淵を握りしめる音だけを、遠くで聞いていた。


その目に絡め取られる、と思った瞬間。

――「見るな」と、老人の手で強く両目を塞がれた…

…何も、誰も、いない。

瞬きの間に鯉は消えていた。


まるで幻か何かのように。

水面にわずかに揺らいだ跡があったため、何かがいたことだけは確かだった。


首をひねりながら池の反対側へと視線を転じると、人為的な違和感が飛び込んできた。

池を回り込んでいくと、湿った土を力任せに貫くようにある、一本の杭だった。

雨風にさらされて黒ずみ、まるで地面から突き出した腐った指のようにも見えた。

その杭の根元には、太い縄の切れ端が、ぶざまに食い込んだまま残されている。

何年も、あるいは何十年もそこに立っていた、これらの痕跡。

繊維の隙間には、乾いた泥とも血ともつかない黒い汚れがこびりつき、今でもその先には、目に見えない何かが池の底へと繋がっているような錯覚を抱かせた。


ため息を漏らし、家へと戻る。


その日の夕方。

仏壇に引き出しがあり、その中から祖父の古い日記を見つけた。


私が幼かった頃に遊びに来た事もちらほら書かれたある。

ただ、「あの子ら」と複数系で書かれていて……。

ところどころ墨で塗りつぶされていた。


そしてとあるページ。

「ここに来させてはいけない。あの子の名を呼んではいけない。

影が」

と書きかけのように止まっている箇所。


気になりつつ、埃っぽい紙をめくり、数年前に途絶えた最後の一行。

そこには、震える手で殴り書きされたような文字が残されていた。


「あれは、まだそこにいる」


黒いインクは醜く外側へと滲み、文字の輪郭が濁った水のように融解している。

この一文だけ、他の日記の文字と比べ、なぜか異常に太く書かれていて、逢魔が時という時刻も相まって禍々しく見えた。


紙面も波打っており、昼、私の足元で揺らいでいた池の水面と、脳裏で悍ましく重なり合った。




・四日目


足は自然に池へと向かっていた。


そこには私を待っていたかのように、鯉がいた。

昨日と同様にこちらを見つめている。

その眼球と視線が合った瞬間、断片的な映像が頭に浮かぶ。


小学校に上がる前の幼い私。

「ばしゃん」という重たい音。

沈んだ同じ顔――


「あああ…」

意味不明のうめき声が漏れる。


それは「納得」などという生温いものではなかった。

脳の最も深い部分に、冷え切った楔を打ち込まれたような衝撃。

思考の回路が、濁液を流し込まれたようにショートし、意味をなさなくなる。


池のほとりの杭や縄。

祖父の日記。

鯉。

池の泥。

生臭い家の中、酷い湿気。


それらが幾層にもなって、精神の輪郭が融解していく。


視界の端で、紫の花が揺れている。


叫び声を上げる機能すら失い、私はただ、ふやけた自分の指先を眺めていた。

震えているのか、それとも水面に映る像が揺れているだけなのか、それすら判然としない。

視界の端が黒く塗りつぶされ、現実感が剥がれ落ちていく。


自分の片割れが、すでにあの池の底にある。

ずっと前から。

祖父は一体……。


パニックは、激しい動悸ではなく、凍り付くような静寂として訪れた。

呼吸をするたびに、肺の中にまで池の膜が張り付いていくような錯覚。

思考はもはや、断片的な単語の羅列でしかない。


逃げ場は…。

最初から、あっちが…。

私は、この顔を「知っている」。

いや、これは私の…あの子の「顔」…。


喉の奥で、乾いた笑いとも、嗚咽ともつかない音が鳴った。

それは、水面下で鯉が吐き出した泡のように、空虚で、救いのない音だった。

私はただ、吸い付くような地面に根を張ったまま、抗うことも忘れ、深い、深い、おりの底を覗き続けていた。



鯉の尾ひれが、死者の薄衣うすごろものように優雅に、そして不気味に揺れる。

池の縁に置いた私の手に、ひやりとした水滴が跳ねた。

それは水というよりは、ふやけた皮膚のように粘り気を持っていた。


気がつくと、私はさらに深く身を乗り出していた。

池が、暗い口を開けて私を待っている。


池から離れなければならない。

頭ではそう理解しているのに、足は地面に吸い付いたように動かない。

むしろ、この濁った水の中にこそ、本当の自分が帰るべき場所があるような気がしてくる。


今、また耳元で音がした。


「ばしゃん」



……池の表面は、何事もなかったかのように元の腐った油のような膜を張り、ただ、そこにあるはずのない私の影だけが、水底に向かってゆっくりと沈んでいくのが見えた。


後に残ったのは、ただ、雨を待つ土が湿り気を吸い込む、微かな音だけだった。


遠くで。

幽かに。

「ばしゃん」







・・ 了 ・・



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