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定時

作者: トミヤマ
掲載日:2026/03/02


「会社にさ、」


 歩きながら父が言った。


 まだ夜の底に沈んでいるような時刻だ。街灯の光が濡れたアスファルトに溶けて、橙色の染みをつくっている。息を吐くたびに白い靄が生まれ、すぐに消えた。


 朝四時に起き、父と一緒にウォーキングするようになってから、早くも五ヶ月目だ。毎朝一万歩、二本のポールを持って歩く。ノルディックウォーキングという。


 父に誘われたとき、断る理由がなかった。いや、正確には、断る気力がなかった。休職に入ってから、私は昼夜の感覚を失いかけていた。何かに時間を縛りつけてもらわなければ、一日がただの空白になってしまう気がしていた。だから、父の誘いに頷いた。


「迷惑な奴がいるんだよ」


 父はすでに定年退職しているが、心はずっと会社に囚われたままだ。辞めた会社のことを、こうして「今」の出来事のように話す。


 最初のうち、私はそれを不思議に思っていた。三十八年間勤めた会社を定年で去り、もう三年が経つというのに、父の口からは毎朝のように元同僚の名前が出てくる。まるで昨日の出来事のように。まるで今も廊下を歩いているかのように。


 今は、少しだけ分かる気がする。人は長く居た場所から、そう簡単には抜け出せない。


「そいつが、定時五分前に片付け始めるんだよ。で、定時になったらバタバタ帰っていく。みんな一生懸命仕事してんのにさ、定時で帰るって非常識極まりないよ。みんなの士気が下がるし、正直言って、害悪でしかない」


 父の声は静かな住宅街に吸い込まれていった。まだ眠っている家々の窓は暗く、どこかで犬が一声だけ吠えた。


 私はポールを突きながら、少し歩調を落とした。


「でも定時なんだし、自分の仕事に見通しが立ったら、帰っていいんじゃないの? それに、その人にも、なにか事情があったのかもしれないし」


 内心ではもっと強い言葉が渦巻いていたが、努めて冷静に答えた。定時退社の何が悪いというのだろう。


 かく言う私も、かつては残業常習犯だった。夜の九時、十時まで会社に残り、それを当然のことだと思っていた。頑張っている証拠だと。存在を示す唯一の方法だと。


 だが、飲み会の席で、「丸山さんが帰らないせいでみんなが帰りづらいんだよね。残業する奴は馬鹿。無能だよ」と同い年の男性エンジニアから言われたことがあった。


 そいつと話すのは初めてで、ほぼ初対面みたいなものだったが、いきなり「無能」「馬鹿」呼ばわりされたことに腹が立った。生ビールを飲み干す彼の横顔を、私は憎らしく睨んでいた。


 だが、今になってそいつの言ったことが分かる。


 残業する奴は馬鹿、無能。私も今となっては、そう思う。


 当時は残業することこそが美徳だと思っていた。残業は、頑張っている証のような気がしていた。だが、今は違う。ダラダラ残業しても、集中力は続かないし、非効率だ。定時に帰れるように工夫してスケジュールを立て、仕事をするのがスマートだと、今なら思える。


「病気とかならまだ分かるよ。確かにそいつにもなにか事情があったのかもしれない」


 父はなおも続けた。


「俺も、おばあちゃんが入院してる時はさ、会社に、「母が入院してますんで」って言って定時で帰ってたよ。だけど会社に事情も申告せずに定時で帰るのは、なんか違うと思うんだよなあ」


 私は父の横顔を盗み見た。街灯の下で、その輪郭が固く光っていた。


 事情があったとして、なぜいちいち会社に申告し、定時で帰るお膳立てをしなければならないのか。定時とは何のためにあるのか。


 ──もちろん、定時で帰るためだ。


「定時で帰るのは悪いことじゃないと思うけど。むしろ今は定時退社が推奨されてるよ。私も定時で帰ってたし。一応、「何かお手伝い出来ることはありませんか?」って周囲に聞いてから帰ってたけど」


 私は冷静に反論したつもりだったが、父の起爆スイッチを押してしまったようだった。


「そいつ、「契約更新しますか?」って聞いたら、「会社に任せる」って言うからさ。定時退社するような奴、勤労意欲のカケラもないだろ? だから、自己都合退職扱いで退職させてやったんだ」


 父はなぜか得意気に言った。その口元に、微かな笑みさえ浮かんでいた。


「そしたら、そいつ、「「会社に任せる」って言ったんだから、会社都合退職だろう! 話が違う」って言うんだ」


 私は父よりも、相手の言い分の方が分かる気がした。「会社に任せる」は信頼の言葉だ。裏切られた側の怒りは、正当だと思った。


「「それならまだ働く!」って言うからさ、渋々、一年だけ契約更新してやったよ」


 渋々。私はその言葉を胸の中で転がした。渋々。まるで恩でも着せるように。


 この人は、父は、他人を思いやることができない。昔からそうだった。そして、私も、父の血を半分受け継いでいる。そのことに無性に嫌気がさした。


「そうなんだ」


 私はもう反論しなかった。言葉を引っ込めるのではなく、ただ、疲れた。


「私は自分から辞めるって言った訳じゃないけど、自己都合退職扱いにされちゃうんだろうな」


 私は、病気を理由に休職中で、会社から就労不可能とみなされ、今期での契約満了を言い渡されていた。


「そりゃそうだろ」


 父が言った。


「お前は、心療内科に通うのをやめたらどうだ? 薬を飲むのをもうやめろ。休むのは甘えだ。早く働き口を探せ」


 父は有り余る怒りエネルギーを、今度は私にぶつけてきた。


「薬を四日やめてみたら、手が震えて字が書けなくなったんだよね」


 父が、ほら、見たことか、と言う顔をした。


「それはもう麻薬と一緒だ。禁断症状ってやつだ。もう薬はやめろ」


 父は、私が心療内科に通うことにはじめから否定的だった。主治医からも、会社の産業医からも休むように言われ、診断書が出されたにもかかわらず、父は、仕事を休む私のことを「甘え」だと言い続けた。


 私はポールを持つ手に、少し力を込めた。


 空は、まだ暗かった。





 帰宅してシャワーを浴びてから、私はダイニングテーブルに座って薬を飲んだ。


 小さな白い錠剤が三つ。コップの水と一緒に飲み下すと、それだけで少しだけ息がしやすくなる気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいで十分だった。


 父はリビングで新聞を広げていた。テレビをつけたが、音量を絞っているので何を言っているのか聞こえない。それでいい。音が多すぎると、頭の中で何かがざわついてくる。


 母は台所で朝食の準備をしていた。


「歩いてきた?」


 母が言った。


「うん」


「お父さんに何か言われた?」


 母の声は平坦で、でも何かを測るような沈黙が後に続いた。


「別に」


 母はそれ以上聞かなかった。


 この家の会話は、いつもこういう形をしている。聞いて、答えて、そして終わる。深いところに触れない。触れようとすると、何かが崩れてしまいそうだから、みんなで見ないふりをしている。


 私がこの家に戻ってきたのは、半年前のことだ。


 一人暮らしのアパートで、朝起きたら動けなかった。体が鉛になったみたいで、布団から出ることができなかった。会社に電話をかけることも、食べ物を注文することも、窓のカーテンを開けることも、何もかもができなかった。


 三日目に、母から電話がかかってきた。何かを察したのか、それとも偶然なのか、今もよくわからない。


「帰ってきなさい」


 母はそれだけ言った。


 私は素直に帰った。


 父は最初、何も言わなかった。それが父なりの優しさだったのかもしれない。でも一週間ほどして、少しずつ言葉が出始めた。甘えだ。薬をやめろ。働け。


 父にとって、休むことは存在しない選択肢なのだ。少なくとも、健康な人間にとっては。


 そして私は、父にとって、健康な人間に見えているらしい。





 心療内科は、電車で四十分かかる場所にある。


 わざわざ遠い病院を選んだのは、父に知られたくなかったからだ。近所の病院だと、父の知人に見られるかもしれない。そういう心配ができるくらいには、まだ私は正常なのだと、通院を始めた頃は思っていた。


 今は、そういう考え方自体が、どこかおかしいと分かる。


 病院に行くことを隠さなければならない。それ自体が、どれだけおかしなことか。


 でも、分かっていても、父には言えなかった。


 主治医は四十代半ばほどの、落ち着いた男性だった。


「最近、眠れていますか?」


 彼はいつも、まず眠れているかどうかを聞く。


「四時に起きています。父と歩くので」


「それは自分で起きたいから?」


 少し考えた。


「……どちらでもないです。なんとなく続けている感じです」


「義務感ではなく?」


「義務感とも少し違います。なんか、あの時間だけ、考えすぎないで済む気がして」


 主治医は頷いて、何かをカルテに書いた。


「お父さんとの会話はどうですか」


「まあ、いつも通りです」


「いつも通りというのは?」


 私は窓の外を見た。四月の終わりで、木の葉が風に揺れていた。


「よく分からない話を、私が聞く感じです」


 主治医は少しだけ微笑んだ。


「丸山さんはよく、お父さんのことを「分からない」と言いますね」


「そうですか」


「ええ。でも、分からないものを分からないと言えるのは、大切なことだと思いますよ」


 私はその言葉を、どこか遠いところで聞いていた。





 五月になっても、朝は冷えた。


 その日、父はいつもと少し違うルートを選んだ。公園の横を抜けて、川沿いを歩く道だ。河川敷のフェンス沿いに菜の花が残っていて、まだ咲いているものがいくつかあった。


 父は何も言わずに歩いた。珍しいことだった。


 私も黙って歩いた。


 ポールが地面に触れるたびに、規則正しい音が鳴った。その音だけが、二人の間にあった。


「俺はな」


 しばらくして、父が言った。


 声のトーンが、いつもと少し違った。


「働いてきたからこそ、今があると思ってるんだよ。お前を大学に行かせて、なんとかやってこられたのも、全部、働いたからだ」


 私は黙って聞いた。


「だから、働けなくなるのが怖いんだよ。お前が働けないのを見ると、なんか……」


 父は言葉を切った。


 川の向こうで、鳥が鳴いた。


「怖いんだよ」


 父はもう一度だけ言った。


 私は、父の横顔を見た。定年後も日焼けした肌と、白くなった鬢と、しっかりとポールを握る手と。七十一年間、ずっと何かを握りしめてきたような手。


 怖い。


 私も怖い。これからのことが。治るかどうかも分からない体が。父が怖いと感じているものと、もしかしたら、同じものが怖いのかもしれない。


「……うん」


 私はそれだけ言った。


 父も、それ以上は言わなかった。


 二人で、菜の花の横を、黙って歩き続けた。


 空がだんだん白んでいった。まだ夜と朝の境目に立っているような、曖昧な明るさだった。それでも、光は確かに増えていた。


 一万歩。今日もいつか、終わる。




──完──

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