第1章:鉄の秘書と氷の公爵
ロンドンの朝は、霧がかったグレーのベールを脱ぎ捨てようとしている。シティの空を衝くガラス張りの摩天楼、キングスレイ・ホールディングス。その最上階にあるCEOオフィスの重厚なドアの前で、オリヴィア・テイラーは指先ひとつ触れずに自身の完璧さを確認した。タイトなネイビーのペンシルスカートに、皺ひとつない白のシルクブラウス。夜会巻きにまとめられた髪は、一本の乱れも許さない。
「おはようございます、テイラーさん。今朝も……その、鉄壁ですね」
通りがかった若手社員のマークが、おどおどしながら声をかけてくる。彼はオリヴィアの美しさに目を奪われつつも、彼女が放つ「半径一メートル以内立ち入り禁止」のオーラに気圧されていた。
「おはよう、マーク。あなたのデスクにある資料、三ページ目のグラフの数値が昨晩の終値とコンマ二桁違っていたわ。始業までに差し替えておいてちょうだい」
オリヴィアは微笑みすら浮かべず、事務的なトーンで告げた。マークは「ひっ」と短い悲鳴を上げて去っていく。立ち去る彼の背中を見送りながら、オリヴィアは小さく息を吐いた。
(……ごめんなさいね。でも、こうしていないと、怖いのよ)
幼い頃、男子たちに囲まれて「優秀すぎる」と揶揄され、スカートを汚された記憶。あの時の屈辱が、今でも男性の視線を感じるたびに、彼女の肌を冷たく粟立たせる。有能さという鎧を纏うことで、彼女はようやくこの男社会の頂点で呼吸ができていた。
午前九時。
彼女は重厚なマホガニーのドアをノックした。
「失礼します、アレックス……失礼、キングスレイ社長」
デスクの向こう側に座る男、アレックス・キングスレイ。現代に生きる侯爵にして、この巨大企業の若き統帥。彫刻のように整った顔立ちに、氷河を思わせる冷ややかなブルーの瞳。彼は視線を書類に落としたまま、低いバリトンボイスで応えた。
「五分遅い、オリヴィア」
「……失礼いたしました。エレベーターの不具合で」
「言い訳を求めているのではない。結果がすべてだ」
アレックスは顔を上げ、オリヴィアを射抜くように見つめた。その視線の鋭さに、彼女の心臓がかすかに跳ねる。男性への恐怖心とは違う、捕食者に見据えられた小動物のような本能的な戦慄。
「テイラー秘書、君に特別任務を与える」
彼はペンを置き、組んだ指の上に顎を乗せた。
「君は有能だ。私の好みを理解し、感情を挟まず、何より……私に媚びない。一族から押し付けられているキャサリン・ウェントワースとの縁談を叩き潰すのに、君以上の適任者はいない」
オリヴィアは眉を寄せた。
「……ウェントワース家の令嬢との婚約は、一族の悲願だと伺っていますが」
「あんな、仕事を見下すだけの操り人形、僕の人生には必要ない。必要なのは、私の横で完璧に『妻』を演じ、敵を排除し、夜には契約通り自分の部屋へ帰る賢明な女だ」
アレックスは立ち上がり、ゆっくりと彼女に近づいた。一歩、また一歩。オリヴィアは逃げ出したい衝動を必死に抑え、背筋を伸ばした。高級なウッディ・アンバーの香りが、彼女の理性をかき乱す。
「三ヶ月後の創立記念パーティーまで、僕の偽りの婚約者になれ。その任務を完璧に遂行した暁には、君をキャリアの最高到達点……君が切望していた新規事業の責任者の椅子を恒久的に差し出すことを約束しよう。これは取引だ。君の三ヶ月を、君の輝かしい未来と交換しないか?」
彼はオリヴィアのすぐ目の前で立ち止まった。あまりの近さに、彼女は呼吸を忘れる。彼の長い指先が、オリヴィアの頬に触れるか触れないかの距離で止まった。
「どうした、テイラー秘書。震えているのか?それとも、私に屈するのを待っているのか?」
挑発的な言葉。オリヴィアの中で、恐怖を上回るプライドが火を噴いた。彼女は視線を逸らさず、まっすぐにその蒼氷の瞳を見つめ返した。
「……いいでしょう。ただし、契約書に一項目追加していただきます。業務外の接触、特に私的な感情の持ち込みは一切禁止です」
アレックスの口角が、わずかに、残酷なほど魅力的に上がった。
「もちろんだ。愛などという非効率なものは、我々の契約には不要だ」
ロンドンの朝の陽光が、窓越しに二人を照らす。それが、後に全ロンドンを熱狂させる「世紀の嘘」の始まりだった。




