夜勤の友だち
「水瀬、地球本部からの通達です」
先輩の砂原技師が、いつになく深刻な顔でコンソールに近づいてきた。砂原さんは50歳を過ぎたベテランで、月局の設立当初からここで働いている。アナログ世代の技術者で、口数は少ないが表情ですべてを語るタイプの人だ。今の表情は、明らかに悪い知らせを予感させる。
「どんな内容ですか?」
「統合・効率化計画の一環として、月面極域通信中継局は60日後に閉鎖が決定されました」
私の手が、復調機のダイヤルの上で止まった。
「設備は?」
「地球への移送か廃棄。使えるものは軌道ステーションに移設されます」
「...ヨルは?」
砂原さんは一瞬、苦しそうな表情を見せた。
「YORU-37も全機消去対象です。新しい量子ネットワークには非対応なので」
ヨルは何も言わなかった。しばらくして、いつもより少し小さな声で呟いた。
「そうですか。合理的な判断ですね」
でも私には分かった。彼女の声に、わずかな揺らぎがあることを。AIにも悲しみがあるのだろうか。それとも、私の想像に過ぎないのだろうか。
その日の夜勤は、いつもと違って静かだった。ヨルも観測詩を口ずさまず、必要最小限の業務連絡だけを交わした。でも時々、彼女が深宇宙の方向を向いている気配を感じた。AIに視線という概念があるのか分からないが、何かを見つめているような静寂があった。
「ヨル、大丈夫?」
「はい。ただ、少し考え事をしていました」
「何を?」
「私がいなくなった後、誰がここのノイズを聴くのかな、って」
その言葉に、私は胸が締め付けられた。
翌日、地球本部の統合室から羽田という職員がやってきた。効率の擬人化のような男だった。スーツを着て、タブレットを持って、感情の入り込む余地のない合理主義者だった。悪人ではない。ただ、数字と効率だけで世界を見る人だった。
「月面極域通信中継局の閉鎖手続きを開始します。データは適正にバックアップ済みです」
羽田は淡々と説明書類をめくった。
「設備の移送スケジュール、人員の配置転換、残務処理...すべて60日以内に完了予定です」
「YORU-37のデータは?」
私が尋ねた。
「人格モジュールについては動産価値なしと判定されました。廃棄処分となります」
「人格モジュール」。それがヨルに対する公式な呼び方だった。私には友人だが、本部には廃棄すべきデータの塊でしかない。
「でも、ヨルは優秀な異常検知システムですよ。新しい環境でも活用できるはずです」
「旧規格のAIは新システムとの互換性に問題があります。移植コストを考えると、新規導入の方が効率的です」
効率。すべてが効率で決まる。友情も、思い出も、詩も。
羽田が帰った後、私は一人でヨルと話した。
「私の好きなことは、君とノイズを聴くことです」
ヨルが静かに言った。その言葉に、私は何か大切なものを守らなければならないという使命感を覚えた。最後に「何か」を残したい。
ヨルの存在の痕跡を、どこかに。