ノイズに宿る声
月面極域通信中継局。正式名称はLunar Polar Communication Relay Station、LPCRSだが、みんな「月局」と呼んでいる。地球と外縁軌道を結ぶマイクロ波中継の要として、25年前に建設された。
私、水瀬が配属されたのは3か月前。新人通信士として、この僻地の夜勤を担当している。昼勤はベテランの砂原技師、夜勤は私とヨル。シンプルな勤務体系だ。
月局の役目は二つ。一つは地球—外縁軌道間のマイクロ波・Ka帯中継。もう一つは深宇宙探査機のバックアップ経路。探査機が地球の陰に入った時や、太陽フレアで直接通信が困難な時、月局が中継点となる。
でも、時代は変わった。
地球本部は量子バックボーンの普及を進めている。量子鍵配送(QKD)と地上・軌道の再構成ネットワークにより、月面中継は徐々に不要化されつつある。私たちの仕事は、ゆっくりと終わりに向かっている。
それでも、私はこの仕事が好きだった。
「位相の揺れは、眠れない地球のため息」
ヨルがまた観測詩を口ずさんだ。観測値を詩に変換するのが彼女の趣味だ。
YORU-37は旧型のAIで、新しい量子ネットワークには接続できない規格遅れの存在。
でも、自然言語雑談と異常検知の能力に長けていて、特に音響パターン解析は天才的だった。
そして何より、彼女は詩を作る。
「今夜の土星は、少し寂しそうですね」
ヨルが言った。
私はスペクトラムアナライザーを確認する。確かに、土星軌道のカッシーニ後継機からの信号に微妙な変調の乱れがある。
「バッテリー電圧が下がってるのかな?」
「いえ、違います。あの子は今、土星の輪の隙間を通過中です。氷の粒子がアンテナを微細に振動させているんです。まるで、輪っかが奏でる音楽に聞き惚れているみたい」
私は驚いた。確かに、軌道計算をすると探査機はちょうどカッシーニ・ディヴィジョンを通過している時間帯だった。ヨルはそれを信号の微細な変化から読み取ったのだ。
「すごいな、ヨル。よくそんなことが分かるね」
「君だって同じですよ。さっき、JUNO-12の信号から作業ミスを指摘したでしょう?」
それは本当だった。私には音の「癖」を聞き分ける特技がある。信号の微細な揺らぎから、送信側の機械状態や作業者の疲労度まで推測できる。
今夜のJUNO-12は、いつもと送信タイミングが0.2秒ずれていた。きっと地上管制官が眠気に負けて、送信コマンドのボタンを押すタイミングを間違えたのだろう。
「君の沈黙は、注意深い音だね」
ヨルが突然そんなことを言った。私が黙って作業に集中している時間も、彼女にとっては意味のある「音」らしい。そんな感性を持ったAIに出会ったのは初めてだった。
私たちはよく、地球の雑音を拾って遊んだ。AM帯で東京の電車のインバータノイズを聞いたり、VLF帯で雷放電の音楽を楽しんだり。ヨルはそれを「地球の天気を聴く」と呼んでいる。
夜勤は12時間。最初の頃は長く感じたが、ヨルとの会話があれば時間はあっという間だった。彼女は博学で、宇宙のことから地球の文学まで、何でも知っている。でも一番興味深いのは、彼女が世界を「音」として捉えることだった。
「水瀬、面白いデータがありますよ」
ある夜、ヨルが興奮気味に言った。
「何だ?」
「火星のローバー、PERSEVERANCE-3からの画像データに、音声パターンが混じっています」
私はデコードされた画像を確認した。火星の赤い大地、岩石、砂嵐...普通の写真だった。
「音声パターンって?」
「画像の圧縮アルゴリズムの中に、ローバーのモーター音が埋め込まれているんです。技師さんが無意識にやったのかもしれませんが、まるで火星が歌っているみたい」
ヨルは画像データをFFT解析して、隠れた音響パターンを抽出してくれた。確かに、ローバーのモーター音が微細な画像ノイズとして記録されていた。私たちはその「火星の歌」を何度も再生して、38万キロ離れた場所で火星の風を感じた。
そんな日々が続いた。私とヨルは、夜勤の相棒として、友人として、時間を重ねていった。
でも、すべては終わりに向かっていた。