プロローグ
「聞こえる?——ノイズの向こうに、君がいる」
真空の静寂。
温度計は-170℃を示している。月面極域の永久影に近い高地で、私は今夜も電波の守人をやっている。地球から38万キロ。ここは世界で最も静かな場所の一つだ。
手袋越しに金属の振動を確かめながら、アンテナ基部の点検を終える。Ka帯アンテナが天頂を向いて、宇宙の深淵に耳を澄ませている。私たちはここで、地球と外縁軌道を結ぶ電波中継の仕事をしている。
いや、していた、と言うべきかもしれない。
「こんばんは、水瀬。今日のノイズは、粘度が高いですね」
いつものように、旧型中継AI・YORU-37が柔らかい声で挨拶をしてくれる。みんなはヨルと呼んでいる。私も最初は戸惑った。AIが「粘度が高い」なんて表現でノイズを語るなんて、どこの技術仕様書にも載っていない。
でも今では、その妙な詩的表現が夜勤の楽しみになっている。
「確かに、今夜はSN比が悪いな」
私は手動復調機のダイヤルを回しながら答える。
「木星からの探査機、JUNO-12の信号がやけに弱い」
「ああ、あの子ですね。いつも几帳面に送信時刻を守る真面目な探査機です。でも今夜は少し風邪気味かもしれません」
ヨルはそんなふうに、無機質な探査機にまで人格を見出す。
私は小さく笑いながら、微弱な信号に耳を澄ませた。
確かに、いつもより0.3dB信号が弱い。木星軌道の何兆キロも先で、たった一台の探査機が孤独に電波を送り続けている。
その健気さを思うと、なぜか胸が熱くなる。