サクラとアンモナイト
少年には記憶がなかった。
歩いていくと、やがて少女に出会った。
「ぼくには、キオクがないんだ」
「あたしには、ミライがないわ」
長い黒髪をなびかせて、少女は面白そうに笑った。
「ミライがないって、どういうこと?」
「あたしの胸には、フチノヤマイが棲んでいるのよ」
首をかしげて、少女が言った。
「ねえ、キオクがないって、どういうふう?」
ちょっと考えて、少年は言った。
「未来と現在しか、ないってことだよ」
「じゃあ、あたしたち二人ともにあるのは、現在だけってことね」
過去と現在しか持たない少女は笑った。
黒いズボンと上着を、ちょっと暑いと思いながら、少年は歩いていった。
プリーツスカートに風をはらませながら、少女が傍らを歩いていた。
そこには、少年と少女しかいなかった。
「名前、なんていうの?」
「あんたは、なんていうの?」
「知らないよ。キオクがないんだから。でもきみは、憶えてるんだろう?」
「……ここにいるのは、あんたとあたしだけなのに、どうして名前が要るの?」
一日の終わりには夜が来て、少年と少女は、大きなベッドを並べて眠った。
少年のベッドには真っ青なカバーが掛けられていて、枕元にはアンモナイトの化石と小さな貝殻が置いてあった。
少女のベッドには若草色のカバーが掛けられていて、かすかにバラとラベンダーの匂いがしていた。
冷たいアンモナイトを握りしめて、夢も見ずに少年は眠った。
夜のあとには朝が来て、少年と少女は並んで歩いていった。
*
少女は、過去の話をした。
教室で休み時間にあや取りをして、放課後の校庭で逆上がりの練習をした。
夏の林でセミの抜け殻を探して競争し、冬には二人で雪だるまを作った。
棒きれの腕に少年が赤い手袋をはめると、少女は青いマフラーを編み上げて雪だるまの首に巻きつけた。
一日の終わりには夜が来て、少年と少女は、大きなベッドを並べて眠った。
少年のベッドには真っ青なカバーが掛けられていて、枕元にはアンモナイトの化石と小さな貝殻が置いてあった。
少女のベッドには淡いチェックのカバーが掛けられていて、枕元にはペンと便箋が置いてあった。
冷たいアンモナイトを握りしめて、少年は何かの夢を見た。けれど、目覚めたときには何も思い出せなかった。
「だって、あんたには過去がないんでしょう?」
少女が笑って、少年は肩をすくめた。
夜のあとには朝が来て、少年と少女は並んで歩いていった。
── なに、見てるの? ──
── ……桜が散るのを ──
── いっしょに、見てもいいかな ──
── ………… ──
*
少女は、過去の話をした。
よく晴れた日、遊園地の入り口で少年と少女は、青と赤の風船をピエロからもらった。
ハトの群れにポップコーンを投げながら、広い園内を少年と少女は彷徨い歩いた。
「あれに乗ろうよ」
ジェットコースターを指さして少年が言うと、少女はちょっと顔をしかめた。
「好きじゃないわ」
「あれはダメだよ」
ふいに聞こえた声に振り返ると、父親に手を引かれた女の子がいた。
切り揃えた黒髪を風になびかせて、少女は唇をとがらせて父親を見上げていた。
「いっぺんだけでも?」
親子を見た少女が表情を強張らせたので、少年にはすぐに、女の子が誰なのかが判った。
「ミクがもっと大きくなって、元気になったらね」
少し困ったように笑って、父親は女の子にリボンのついた帽子をかぶせた。
「観覧車に乗ろう。おうちが見えるかもしれないよ?」
「見えるわけないじゃない……」
手を繋いで行ってしまう親子の後ろ姿を見つめながら、少女は低く呟いた。
「きみ、ミクっていうんだね」
少年が言うと、少女はきつく眉をひそめた。
「ちがうわ」
「でも、あれはきみだろ?」
「でも、あたしはちがうのよ」
少女が急に不機嫌になったので、少年は少女の名前を呼ぶことを諦めた。
一日の終わりには夜が来て、少年と少女は、大きなベッドを並べて眠った。
少年のベッドには真っ青なカバーが掛けられていて、枕元にはアンモナイトの化石と小さな貝殻が置いてあった。
少女のベッドには真っ白いカバーが掛けられていて、枕元には可愛らしい花篭とウサギのぬいぐるみが置いてあった。
冷たいアンモナイトを握りしめて、少年は青い海と小石混じりの砂浜の夢を見た。けれど起きてからそれを話すと、少女は不機嫌そうにそっぽを向いて黙り込んだ。
夜のあとには朝が来て、少年と少女は並んで歩いていった。
── ゆうべ、どこに行ってたの? ──
── どうして? ──
── ……べつに ──
*
「あんたの話を聞かせて?」
少年は未来の話をした。
「料理人になろうか」
そう言って、少年は黒い上着の上に白いエプロンを締めた。
襟元のリボンをきちんと整えて、澄ました表情で腰掛ける少女の前に、少年は銀で縁どりした真っ白い皿を幾つも運んできた。
「過去の無いコックの料理ね」
「そう、現在と未来だけの料理だよ。食べるそばから消えていくんだ」
「それじゃ、いつまでもお腹がいっぱいにならないわ」
いつまでも、空腹にもならなければ満腹にもならないことに、少年は気づいていた。
一日の終わりには夜が来て、夜のあとには朝が来た。
しかし、一日を終わらせなければ夜は訪れず、夜が終わらなければ朝が来ないことを、少年は知っていた。
そしてふと、いつもちょっと暑いと思いながら着ている黒いズボンと上着が、詰襟の制服だということに気がついた。だからきっと、少女のプリーツスカートと紺の上着と、襟元に細いリボンを結ぶ白いブラウスも、制服なのだと思った。
一日の終わりには夜が来て、少年と少女は、大きなベッドを並べて眠った。
少年のベッドには真っ青なカバーが掛けられていて、枕元にはアンモナイトの化石と小さな貝殻が置いてあった。
少女のベッドには真っ白いカバーが掛けられていて、枕元には色とりどりの折り紙が散らばっていた。
冷たいアンモナイトを握りしめて、少年は高い空とどこまでも続く水平線の夢を見た。けれど、目が覚めても、そのことを少女には話さなかった。
夜のあとには朝が来て、少年と少女は並んで歩いていった。
── どうせ、あたしは……! ──
── やめろよ、そういう言い方! ──
── ……っ… ──
── …… の、そういうところ、ぼくは嫌いだよ ──
*
少女は過去の話をして、少年は未来の話をした。
少女は、いつもはしゃいでいるように見えた。
「お花見をしましょう」
そう少女が言うと、道の両側の並木はいっせいに薄紅色の花を開いた。
道はどこまでも続いて、桜の花吹雪はどこまでも二人を追いかけてきた。
「どこまで行こう」
「どこまでだって、いいじゃない」
一日の終わりには夜が来て、少年と少女は、大きなベッドを並べて眠った。
少年のベッドには真っ青なカバーが掛けられていて、枕元にはアンモナイトの化石と小さな貝殻が置いてあった。
少女のベッドには真っ白いカバーが掛けられていて、枕元のパイプには何かを書き付けたプレートが掛けてあった。
冷たいアンモナイトを握りしめて、少年は灰色に凍りついた空と砕ける白い波の夢を見た。目が覚めて見た少女の顔は、夢で見た波のように白かった。
夜のあとには朝が来て、少年と少女は並んで歩いていった。
── もう付き合いきれないって、はっきり言えばいいでしょ! ──
── そんなこと、ひとことも言ってないだろ? ──
── もっと元気で素直な子が、いくらだっているんだから……! ──
── 今日はもうやめよう……きみは、疲れてるんだよ ──
*
少女は過去の話をして、少年は未来の話をした。
桜の並木は休日の繁華街を抜けて、丘の上の公園を彩り、動物園で異国の動物たちを花びらで埋め尽くした。
「お花見をしましょう」
「──いつまで?」
「──いつまでだって、いいじゃない」
ロープウェイで山に登ると、桜も頂上までついて来た。
紅葉から慌てて春へ戻る景色を眺めて、少女は声をあげて笑った。
「パイロットなんて、いいんじゃない?」
山の上の展望台に寝転がって、空を見ながら少女は言った。
「制服が汚れるよ」
「構わないわ。もう着ないもの」
「じゃあ、なんで着てるの」
「いっそ、宇宙飛行士なんてどう?」
「──それならぼくは、船乗りになるよ」
展望台の手すりにもたれて、少年は言った。
「……船乗りなんて、つまらないわ」
「そうかな」
山の頂上からは、おもちゃのような街並みと、遊園地の大きな観覧車が見えた。
「どうして、海が見えないんだろう」
「お花見をしましょう」
そう少女が言うと、山頂の桜たちは慌てて花びらを散らして、薄紅色の霞で視界を覆った。
── こんどの外泊日は、ぼくが迎えに来るから ──
── ……どうして? ──
── 帰る前に、海に寄ろうよ。ほら、最初の夏に行った ──
── ……… ──
── 少し、話をしよう? ──
── ………… ──
*
一日の終わりには夜が来て、少年と少女は、大きなベッドを並べて眠った。
少年のベッドには真っ青なカバーが掛けられていて、枕元にはアンモナイトの化石と小さな貝殻が置いてあった。
少女のベッドには真っ白いカバーが掛けられていて、枕元には奇妙な記号がいくつも点滅する大きな箱が立っていた。
冷たいアンモナイトを握りしめて、少年は桜並木を歩く夢を見た。
並木道の果てには、青い海と小石混じりの砂浜があった。
「どこへ行くの」
振り返ると、真っ白い顔をした少女が、桜吹雪の中に立っていた。
「海へ行くんだよ」
「行かないわ」
「でもこの道の先には、海しかないじゃないか」
「どうして行くの」
「──いつまでも、ここにはいられないよ」
「どうして……」
泣いている少女の黒髪を、薄紅色の花吹雪が遠慮がちに揺らしていた。
「きみも、分かってるんだろう? いつまでも、こうしてるわけにはいかないよ」
「わからないわ……」
夜のあとには朝が来て、少年と少女は並んで歩いていった。
黙ったまま歩く二人の両側で、放課後の学校や休日の映画館や晴れた日の遊園地が、現れては色褪せて消えていった。
ベッドから出るときにポケットに入れたアンモナイトを、少年はずっと握りしめていた。
*
一日の終わりに夜が来ても、少年と少女は眠らなかった。
「最後に、お花見をしましょう」
月明かりの照らす桜並木を、少年と少女はゆっくりと歩いていった。
もう桜が終わりかけていることに、少年は初めて気づいた。
過去の話をしようとする少女を、少年は止めた。
「きみが最初に言ったんじゃないか。ぼくたち二人ともにあるのは、現在だけだって」
「そしてあんたは、あたしを忘れて未来へ行くんだわ」
「きみは、ぼくの知らない過去を、みんな持ってるじゃないか」
「──あんたの過去を返してあげたら、あんたのミライをあたしにくれる?」
「いいよ」
しかし少女は、顔をゆがめてそっぽを向いた。
「──うそよ。あんたのミライなんて、いらないわ」
黙ったまま、少年と少女は、夜の桜並木を歩いていった。
二人の背後には、花びらをぜんぶ落としてしまった黒い木々が並んでいた。
夜のあとには朝が来て、並木の最後の桜が花びらを落としきった。
桜の並木道の果てには、小石混じりの砂浜のある、青い海が広がっていた。
並木道のはずれで、少女は立ち止まった。
三歩おくれて、少年も立ち止まって、少女を振り返った。
「どうしたの」
「あんたのキオクを返してあげる。だから、あたしは行かない」
「ミク──いつまでも、桜の下にはいられないよ」
「あたしは……!」
叫ぼうとして、少女はふいに胸を押さえてうずくまった。
「どうしたの?」
傍らにしゃがみこんで、少年は急に、少女の腕の細さに気づいて驚いた。
「いやよ……あたしは行かない……」
しかし、少女の足下から並木道はひび割れて、汐風に吹き寄せられた白い砂が、道の輪郭を曖昧に消していく。
間近い水音に驚いて顔を上げると、いつのまに、青い海辺は二人のすぐそばにあった。
少女の顔は、岸辺で泡立つ波よりも白かった。
「もう、いいわ……」
ひどく疲れた様子で、少女は言った。
「あんたのキオクを、返してあげる……」
うつむく少女を見つめて、少年はちょっと眉を寄せた。
「ぼくは、きみを忘れないよ」
しかし少女は、うつむいたまま首を振った。
「あんたには、ミライしかないんだもの。過去しかないあたしのことなんか、すぐに忘れるわ」
少し困って少年がポケットに手を入れると、冷たいアンモナイトが指に触れた。
「じゃあ、何も返さなくていい──ぼくの過去は、きみにあげる」
少女はゆっくりと顔をあげて、見開いた目で少年を見つめた。
「きみの憶えているぼくを、ぜんぶきみにあげるよ」
少女は驚いたふうで、少年を見つめている。
「ぼくはね、」
少年は少し目をすがめて、どこまでも続く真っ青な海を見た。
「あの日ここで、きみが好きだって──いつまでも大好きだって──ただ、そう伝えたかったんだ……」
少女は何も言わずに、少年が見つめる海の彼方に目をやった。
* * *
医者だと名乗る男が話している間中、彼はずっと、灰色のアンモナイトの化石を手の中でもてあそんでいた。
待合で突然意識が……
恐らく急性の……
……は、痛みませんか?
運転中でなかったのが幸い……
このあとの検査で……
……お名前は、言えますか?
「いえ……」
なぜか枕元に置いてあった灰色の石が、アンモナイトの化石だということは分かるのに。
七日間、彼は眠っていた。
どこにも異常はないようなのに目を覚まさず、そして今日になって目覚めたときには、これまでのことを何も憶えていなかった──自分の名前すらも。
「ここの待合で、倒れたんですよ」
七日前に、病院の待合室で。
「どなたの面会に来たか、憶えていますか?」
「……いいえ」
医者は少し困ったような顔をした。
起き上がることはできたが、まだ歩くのは危険だと判断されて、彼は車椅子に乗せられた。看護師の青年が押してくれて、病院の長い廊下をゆっくりと進む。
検査に次ぐ検査で疲れているところを、さらに連れ出して申し訳ない──と、青年は何度も詫びた。
片側に大きな窓が並んだ明るい廊下の床で、淡い影がしきりと動くので顔を上げて見ると、大きな桜の木が白っぽい花びらを散らしているところだった。
「どうしても貴方に、会っていただきたいと……ご家族のたってのご希望で」
「かまいません」
「──寒くはありませんか?」
首を振ったが、青年は青い毛布を膝に丁寧に掛けてくれた。
表からは見えにくい病棟の裏手に、小さな建物があって、廊下の先は屋根付きの短い通路がそこまで続いていた。重厚そうな木の扉は開かれている。
青年は慣れた様子でスロープを用意すると、彼を車椅子ごと中へ導き入れた。
細長い窓が左右に並んでいて、中は思いのほか明るい。
車椅子で進む両側には、簡素な木のベンチが何列か続いている。
礼拝堂、という言葉が思い浮かんだ。
天井に窓があるらしく、正面にふわりと光が落ちているのは──祭壇。
白い布をかけた台の上に、艶やかな木の箱──
「僕は、この方の面会に?」
「──一日も欠かさずに、通っていらっしゃいました」
青年が支えてくれて、その箱──棺の傍らに立つ。
半分ほどが開けられるようになっていて、手を組んだ腰のあたりから上半身だけが、彼の目の前にあった。
細い──とても細い、手首と指。
ほのかに色を挿していても、なお白さの際立つ痩せた頬。
「五年ほどのお付き合いだそうですが……何か、思い出しますか?」
「……いいえ」
会えばそれをきっかけに記憶の蓋が開くのではないかと、医者や看護師の青年はいくらか期待していたようだった。
しかし、きれいな人だとは思うものの、彼にとってはやはり見知らぬ女性で、頭は空っぽのまま何も思い浮かばない。
整えられた黒髪に縁どられた白い頬──穏やかな表情だと思うのは、長患いの末に旅立った彼女が、せめて安らかであって欲しいという勝手な願望だろうか。
ふわりとした白いブラウスを着ていても、首や腕の細さは見てとれる。
袖になかば隠れるように、薄紅色の四角い紙が見えた。
「──みらい、へ……」
なかば無意識に読み上げてから、それが封筒だと気がついた。
青年が近寄ってきて、彼の手もとを覗き込む。
「ああ……『未来へ』──ご家族が置かれたお手紙ですね」
「ミク……」
口に乗せたとたん、耳の奥でかすかに遠く、波の寄せる音が聞こえた。
「お別れ会は明日なんですが、今の体調では参列は難しいと思いますので、せめてお別れをと──ご両親も間もなくこちらへ……あの、大丈夫ですか?」
ずっと握りしめていたアンモナイトの化石を、彼は棺の中、白い肩の上あたりにそっと置いた。
「きみに、あげるよ」
薄紅色の花びらが一枚、どこからか、冷たいアンモナイトの上に落ちた。
愛しいひと。
ぼくは決して、きみを思い出さないだろう。