第二百五十五話 『お姉ちゃん』
(追い上げてる……追いつかれる!!)
なんて身体能力なのだろう。
性差なんて聖さんにとってはちょうど良いハンデでしかないのか。運動部の中で足が速い方と思われる門田に向かって、徐々に差を詰めている。
普段はひめから『前世はナマケモノさんですね』と呼ばれる聖さんなのに。
食べることと寝ることが大好きで、体つきだって運動部の引き締まったそれとは大きく異なって、すごくゆるゆるだ。もちろん太っているわけではないが、筋肉質というわけじゃない。
それなのに、少し本気を出したらこれだ。
このペースだと――ゴール間際で抜かれるかもしれない。
そのことは、俺よりも早くあの子の方が気付くのが早かったのかもしれない。
「……んっ」
抱っこしているひめの手が、俺の襟元をギュッと握りしめた。
不安そうである。変に力が入っているせいか、あるいは緊張しているせいか、その表情はかなり強張っていた。
だから、俺は――彼女の両脇の下に手を入れて、高く持ち上げた。
イメージとしては、ワールドカップのトロフィーを掲げている感じだ。
ひめを高い位置に上げて、門田に見えるようにしてあげたのである。
「ひめ、応援してあげてくれ! 俺の分も、大きい声でっ」
黙って、祈っているだけでもいいのだが。
しかし、せっかくゴール間際にいて、門田にも声が届く位置にいるのだ。
この状況なら、ひめにもやれることはある。
まだ終わっていない。たしかに聖さんが追い抜きそうだけど、まだ終わっていない。
勝負は最後まで分からないんだよ、と。
「ひめ、任せた!」
「――っ」
声をかけると、彼女は……俺への返事をする時間も惜しいと言わんばかりに、声を張り上げてくれた。
「がんばれー!!」
俺に抱えられたまま、ひめが手をブンブンと振っている。
同時に、門田がこちらを見た気がした。それから、ひめと俺を見てふっと笑った気がした。
(届いている……!)
ひめの声はよく通る。
門田も気付いてくれたはずだ。
あと、それから。
(……あ)
ふと、気付いた。
きっと、門田に向かって一生懸命に声援を送っているひめは、見ていないだろう。
だが、ずっと凡人として生きて、主人公になることを諦めて、周囲をぼんやりと見ていた俺だからこそ……この状況に至ってなお、視野を少し広げていた俺だからこそ、彼女の表情に気付けたのだと思う。
(……聖さん?)
目があった気がした。
門田のほんの後ろ。今しがた、彼を追い抜こうとしていた聖さんが……ひめの声を聞いて、こちらに目を向けたのである。
間違いなく、俺とひめを見ていた。
もうゴール間際。あと数メートル。聖さんがいよいよ門田と並んで、どちらが一位か誰もが分からなくなった状況。
その瞬間に、ひめが声をかけて、二人ともこちらを見た。
はたして、二人が何を考えたのか。
門田については、表情から予想することは容易だ。きっと、ひめの声援を喜んでくれたのだろう。更に奮起して、加速した気がする。
一方で、聖さんはどうなのか……正確には分からない。
一瞬だったので、表情を読み取る時間はなかった。
でも、なんとなく。
聖さんも、門田と同じように――笑ったように見えたのは、気のせいだろうか。
そして、その笑みは聖さんの奮起を促したものではなく。
「――勝った」
無意識に言葉が零れた。
聖さんの意味深な笑みを見て、俺は察してしまったのである。
(聖さん……やっぱり君は、素敵なお姉ちゃんだよ)
心の中で、称賛を送る。
だって、聖さんはひめを見た直後……ほんのわずかに、ペースが落ちた。
それが、勝敗を決する『差』となった。
「――よっしゃぁあああああああ!!」
周囲にいたクラスメイトが、声を上げた。
勝利の歓声が降り注いでる。
「っ……陽平くん、勝ちました。すごいです……すごいっ」
抱き上げているひめも、喜んでいる。
もちろん、この子に心配させないために、俺もすぐに笑顔を浮かべた。
聖さんがペースを落としたことは、決してわざとではないだろう。負けようと思って、負けたわけがない。
ただ、聖さんの妹に対する愛情が、彼女の調子を狂わせただけだと思う。
つまり、この勝利はひめの声援のおかげとも言えるのかもしれない。
(……そういう風に解釈しておこう)
勝負に勝ったことは間違いないのである。
おかげで、ひめにとってもこの体育祭は良い思い出になってくれたと思う。
そのことを素直に、喜ぶことにするのだった――。




