第百七十七話 星宮姉妹の『母親』
こういう大きなイベントって、事前に告知みたいなものがあるはずじゃないのだろうか。
何の脈絡もなかった。昨日、ひめと長い時間一緒に過ごしたのに、母親の話題なんて一度として出なかった。
気配も、匂わせも、前振りも、何もない。
あまりにも唐突な出来事に、頭はまだ整理できていない。
ハッキリ言うと、混乱していた。
まるで、日常コメディ漫画かと思っていたらホラー漫画になった、くらい急な展開だと思う。
だから俺は、未だに話しかけることができずにいる。
「…………」
そして、星宮姉妹の母親――世月さんもまた、無言になってしまった。
ただ静かに俺を見つめている。ひめのルビー色の瞳と違って、この人の目は真っ黒だ。
陶磁器のような冷たい黒色。
全てが見透かされていそうな、そういう目である。
(と、とりあえず落ち着かないと……)
ふと、自分の呼吸が浅いことに気付いた。
緊張して息がうまくできていない。意識して大きく息を吸い込んだら、少しだけ気分が楽になった。
落ち着け。再度自分にそう言い聞かせて、まずは現状の把握を試みる。
場所は星宮邸。恐らくここは、世月さんの部屋で……たぶん、書斎だろうか。
構造的には、学校の校長室に似ている。壁際に資料の修められた棚が並んでいるところや、窓際に作業のしやすそうな大きな机があるところを見ると、生活のためではなく仕事のための部屋だという印象を受けた。
ただ、校長室と違って、来客用のソファなどはない。
部屋の中央付近には何も設置されていなかった。まるで、誰かが来ることを端から想定していないかのような家具の配置である。
(芽衣さんは……いない)
そういえば、俺をここに連れてきたメイドさんが見えない。
世月さんから目を離して後ろを振り返ってみても、やっぱり誰もいなかった。
「芽衣はいないわよ。二人きりにしてほしいと命じたもの」
俺が動いたから、だろうか。
先ほどまで押し黙っていた世月さんが、ようやく口を開いた。
「少しは落ち着いた? うふふ、混乱していたようだけど、もう大丈夫なの?」
……やっぱり、俺の状態を見てあえて黙っていてくれたようだ。
俺が落ち着くまでの時間をくれたのだろう。
「はい。なんとか、落ち着きました」
「それは良かったじゃない。じゃあ、私とお話してもらえると嬉しいわね」
話してもらえると嬉しい。
そう言ってはいるのだが、否定はそもそも選択肢にないような気がした。
肯定することしか、許されていない。
決して、言葉は威圧的じゃないのに。
声の抑揚は聖さんに似ている気がする。親しみやすくて、明るい。
しかし、言葉の強制力というか……無意識に緊張してしまうような、そういう畏怖めいた響きも宿っている。その点はひめに近いかもしれない。
ああ、この人は星宮姉妹の母親なんだ。
二人との共通点を見て、改めてそう実感した。
「何から聞きたいの?」
「……え?」
「あら。質問を間違えちゃった?」
「いや、俺が聞かれる側だと思っていました」
「うふふ。そうね、急に呼び出されたのはあなただから、当然そうなるわよね~」
……や、やりにくい。
少し話しただけで分かる。この人、相手に話を合わせるつもりがまったくないタイプの人間だ。
俺が凡庸側の人間だからこそ、こういう特別な人間の特殊性はよく見える。
人に合わせるつもりがない……というよりは、人に合わせる必要がない立場の人間なのだ。
なぜなら、他人が自分に合わせることが当たり前になるくらい、この人は特別な人間だから。
「でも、あなたから聞いてほしいわ。陽平は、私たちについて知りたいことがたくさんあるでしょう?」
「世月さんは、俺に聞きたいことがないんですか?」
「うーん。難しい質問だわ……どうかしらねぇ。あると言えばあるし、ないと言えばないわ」
黒でもない。白でもない。玉虫色の言葉は、まるで俺を欺くかのように曖昧な色を浮かべている。
世月さんという人間が、分からない。そしてこの人は、俺に分からせないよう意図的に振舞っている。
「私はあなたと『お話』ができれば、それでいいの。それだけで、あなたのことはよく分かるはずだから」
そう言って、世月さんはニッコリと笑った。
聖さんのように人懐っこくて、ひめのように愛らしい……素敵な笑顔だと思う。
ただ、一点だけ問題が。
(……こ、怖い)
目がまったく笑っていなくて怖い。
それを除けば、本当に完璧な笑顔だったのに――。




