26. 護りたいもの、護るべきもの
マリオン視点です
そこは何もない空間だった。
白い霧のようなものが辺り一面に立ち込め視界を奪う。
辛うじて伸ばした自分の指先が分かる、そんな場所をずっと彷徨っていた。
何かに呼ばれているような気がするけれど、それが何かは思い出せない。
ただ、胸を焦がすような焦燥感に追い立てられるように、がむしゃらに足を進めた。
(早く…早く戻らなくては・・・・)
聞こえるのは自分の呼吸音だけ。
視界は一面の白。
不思議と空腹やのどの渇きは感じないけれど、手足がまるで自分のものではないように感覚が鈍く動かしにくい。
酷い倦怠感を感じていて、できることならば立ち止まり、倒れこんでしまいたい。
だけど、本能が立ち止まるなと告げてくる。
足を止めてしまえば、二度と戻れなくなると……。
理屈では語れない本能の囁きと、誰かに呼ばれているような感覚にすがるように重い足を動かす。
どれほどの時間をそうして過ごしてきたのか。
それは一瞬のようにも永遠のようにも感じた。
だんだんと時間の感覚が薄れるとともに、徐々に自分という感覚もあいまいになっていく。
(なんで、俺はこんなに必死になっているんだろう)
視界を埋め尽くす白に、思考まで白く染められていくようだ。
(前に……まえ………に……。………………前ってどっちだったっけ?)
だって辺り一面は真っ白で何もなくて……。まっすぐに進んでいるかも………よくわからない。
もしかして、同じところをぐるぐる回っているだけじゃないのか?
だって、いつまで経っても、この白い空間から抜け出せない………。
ジワリ、と忍び寄ってきたのは絶望。
(だいたい、誰に呼ばれているっていうんだ。だって、自分が何者かすらも思い出せない………)
ゆっくりと踏み出していたはずの足が止まりかけ、もつれて倒れた。
受け身をとる余裕もなく、倒れ込む。
(ああ…………………つかれた………)
一度止まってしまえば、ずっと感じていた倦怠感がひどくなった気がした。
もう、立ち上がれる気がしない。
(もう………いいかな……………。だって、こんなに頑張ったんだ………。もう、動けないし……なんのために頑張っているのかも…………わからないし…………)
ゆっくりと体の力を抜けば、そのまま地面に沈み込んでいくような気がした。
(ああ、つかれた……な…………)
ほう、と大きく息をついて、それでも無意識に前を向いていた顔を横に向ける。
目を閉じようとした、その時、目に飛び込んできたのは柔らかな金と深い菫色。
上着の袖から覗いたそれは、金糸の混ざった組み紐で菫色の石を編み込んだブレスレットだった。
(これは………なんだ……………?)
けして高価なものには見えない手作りのそれが、いつからそこにあったのか……………。
『マリオン様』
ふいに耳元に澄んだ声が響き、まるで天啓を受けたかのように、白に染まりかけていた思考が戻ってくる。
(そうだ。私の名前だ)
何度も自分を呼んだその声。
それは、誰よりも大切な人の声だったはずだ。
『マリオン様が無事に帰ってきますように………』
別れの日に泣きそうな笑顔で、そういって手作りのブレスレットをつけてくれたのは………。
「…………レイ……ラ…………」
無音の空間にかすれた声が響いた。
『マリオン様!』
その声に応えるように、今度ははっきりと声が聞こえた。
途端に、霞がかかったようだった記憶がはっきりと戻ってくる。
(そうだ。なんで忘れていたんだ。私はマリオン。ジルパイン王国の第5王子。これをくれたのは……)
マリオンは、力の入らない手足を無理やりに動かすと体を起こした。
膝に手をつき、どうにか立ち上がる。
「レイラ。私は約束したんだ……きみの元に戻ると………。レイラ!」
その瞬間。
白い霧が晴れ、辺り一面に光が溢れた。
「……………ここは」
目を開けると、木を組んだだけのむき出しの天井が見えた。
体を起こそうとした途端、ひどい痛みが走り、うめき声が漏れる。
「マリオン!目が覚めたのか!!」
歯を食いしばって痛みに耐えていると、よく知った声が耳に飛び込んできた。
のろのろと首を横に向ければ、フィリアスが扉の方から駆け寄ってくるのが見える。
「フィリ……」
名を呼ぼうとして、乾ききったのどが耐えられず咳き込む。
咳の反動で体が動いたことでさらに激痛が襲い、あまりの痛みに涙がにじんだ。
「マリオン、大丈夫か!」
慌てたようにフィリアスが、体を横向きにして背中をさすった。
どうにか痛みの波をやり過ごしたマリオンの唇に、湿った布が触れた。
「体を起こしてやりたいが、辛いだろう?これを吸えるか?」
滴るほどに濡れた布を唇に押し込まれ、マリオンはその布を噛む。
にじむ水がカラカラに乾いた口の中をわずかに潤した。
本能の赴くままに吸いつけば、どうにか吸い取れた水がのどへと流れていく。
慎重に飲み込んで、ほうっと息をついた。
ひりつく痛みを訴えていた喉が潤っていく。
布が取り上げられ、再び水気を帯びて戻ってきた。
ただの水のはずのそれが、今の乾ききったマリオンにはまるで甘露のように感じる。
夢中で吸いつくマリオンの様子を見ながら、フィリアスは、数度同じことを繰り返したあと、手を止めた。
「ここまでにしよう。いきなりだと体がびっくりして吐いてしまうから。また、あの激痛を味わいたくないだろう?」
渇きは癒えたとはいえ、まだ満足していなかったマリオンは、恨めし気にフィリアスを見つめるが、無情にも首を横に振られてしまった。
「もう少しして、吐き気が無かったら、な」
痛みに悶絶したときににじんだマリオンの額の脂汗を丁寧なしぐさでぬぐいながら、言い聞かすようにフィリアスは語りかけた。
「聞きたいことはたくさんあるだろうけど、今はもう少し眠れ。ここは安全だから」
乱れた掛布を直されて、宥めるように髪を撫でられる。
まるで聞き分けの無い幼子にするようなしぐさだが、不思議と反抗する気になれなかったのは、フィリアスの隈の浮いた目元に浮かぶ、安堵の表情のせいだろう。
ふいに脳裏に浮かんだのは、闇の中の襲撃と喧騒。
そして、その最中に落ちた水の冷たさ。
傷のせいでうまく浮かぶ事ができずに、早い流れに揉まれるように流されていった。
濁流に沈む寸前に捉えた声は、フィリアスのものだった気がする。
「わか・・・・った」
襲ってくる強い眠気に、マリオンは抗うことなく瞳を閉じた。
聞きたいことは確かにたくさんあるけれど、体は休息を欲していた。
ここはフィリアスに従った方がいい。
安全だとフィリアスが言い切るのだから、そうなのだろう。
だけど、これだけは、とどうにか伝えたい言葉を一言だけ残して、マリオンは意識を失った。
「あり………が……と。フィリ…………」
「馬鹿野郎……。それはオレのセリフだって」
小さな声を聞き取ったフィリアスは、複雑な表情でつぶやいた。
粗末な木のベットに寝かされたマリオンの体は、厚い包帯でぐるぐる巻きになっていた。
「本当に、意識が戻ってよかった・・・・・」
その姿を見つめるフィリアスの脳裏に、あの夜の出来事がまざまざと蘇った。
それは、新月の闇の中で行われた襲撃だった。
見張りは立てていたものの、数の暴力に押しきられてしまった。
仮眠に入っていたフィリアス達が天幕から飛び出した時には、すでに野営地は戦場と化していたのだ。
暗闇に慣れぬ目でどうにか応戦するが、不利は否めない。
混戦になる中、出来るだけ背中合わせに戦っていたのだが、いつの間にか川のそばまで押しやられ味方の数も少なくなっていた。
そこに、フィリアスめがけて死角から矢が飛んできたのだ。
気づいたマリオンが、間に飛び込み、半数の矢を剣で払ったものの、ご丁寧に黒く塗られた矢までは目が捉える事ができなかったのだろう。
数本の矢が、マリオンの体へと突き刺さった。
自分の盾になり矢を受けたマリオンが、バランスを崩し川へと落ちていく様子が、フィリアスには不思議とはっきりと見えた。
落ちながらも自分の方を見て無傷なことを確かめ、かすかに笑ったその表情までも・・・・。
「本当に馬鹿だろ、お前。守られるはずの王族が、自ら盾になってどうする」
あの時言えなかった悪態をつきながら、青白い顔を眺める。
少し、表情が和らいで感じるのは、一度でも目を覚ましてくれた安堵からだろうか。
「マリオン!!」
川に落ちたマリオンを追って、すぐさま剣を投げ捨ててフィリアスも飛び込んだものの、思ったよりも流れは速く、暗闇の中何度も見失いそうになった。
だけど、本当に見失ったと思った瞬間、きらりと闇の中に何かが光って見えたのだ。
それに誘われるように目をやれば、そこには沈みそうになるマリオンの姿があった。
突然の夜襲に、軽鎧姿だったことも幸いしたのだろう。
いつもの重装備だったら、泳ぐこともままならず2人して水底に沈んでいたはずだ。
意識の無いマリオンをどうにか掴まえ抱き込むと、激しい流れに逆らうことを諦めて、フィリアスは天に運命を任せることにした。
濁流の中、岩に打ち付けられる時はせめて盾になろうとしっかりと胸にマリオンの頭を抱え、力を抜く。
そうして、下手にもがかずに流れに身を任せたのが良かったのか、二人は不思議と、うまく岩の隙間を抜けることができたのだった。
幾度かは避けられずぶつかったものの、うまく足で蹴りやれたり、背中だったりと致命傷は避けられた。
やがて、川幅が広がったおかげか流れが少し緩やかになり、岸へとたどり着く事ができた時は、安堵のあまり、フィリアスは体中の力が抜けたようにしばらくぐったりと体を投げ出していた。
そして、神に感謝する。
暗い川の中でマリオンを見つける事ができたのも、今こうして自分たちが生きて川岸にたどり着けたのも奇跡以外の何物でもなかった。
だけど、その奇跡に浸っている暇はなかった。
腕の中にあるマリオンの体は、あの冷たい水の中にいたにもかかわらず、まるで燃えるように熱かったのだ。
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