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花火が終わった

作者: 青野菜穂

 花火が終わった。

 暗い夜空には煙が漂っている。元々天気が悪く曇り空だったことも相まって、澱んだ空は少し汚い。

 いや、少しではない。

 私の目にはとても汚く見える。怒りを覚えるくらい不快な空だ。

 みっともない。本当に見苦しい。何でこんなにも醜いのだろうか。

 こんな汚くなるのなら花火なんてしなければよかったのに。もうこんな最悪なもの見ていたくない。

 見上げていた頭を下ろすと、鈍く痛みがした。


 周りの人たちは花火が凄かった、祭りが終わって悲しい、また来年も一緒に見よう、なんて似たようなことを繰り返し話している。

 花火の最中から思っていたが、人は集まるととても喧しい。そして話したがりのくせに似たり寄ったりな会話ばかりしている。同じ内容ならもう口を閉じてほしい。

 静かなところに行きたい。

 早く帰りたい。

 慣れない浴衣を着てきたせいで息が苦しい。火薬の臭いが気に障る。人混みの中だからより空気が薄く感じる。

 ずっと立っていて足も腰も痛い。祭りに来てから飲まず食わずで、喉も乾いてお腹も空いた。熱中症になってもおかしくない。

 もう本当に最低だ。なんで私はここにいるのだろう。

 花火が始まったときに帰ればよかった。

 そもそも祭りなんて来なければよかった。


「約束なんて、するんじゃなかった」


 呟いた言葉は私の耳にさえ届かないほど微かで弱々しいものだった。

 馬鹿なことをした。

 口約束を信じてしまったのだ。

 浮かれて浴衣なんか引っ張り出して、来ない人を楽しげに待って、何を話そうか何をしようかなんて屋台を眺めて考えた。

 いくら待っても来なくて、ようやく自分がとんでもないことをしたとわかってからは恥ずかしくて仕方なかった。

 なのに諦めきれずにぐずぐずと祭り会場に残って、最後まで花火を見てしまった。なんて惨めでみっともない。吹っ切って一人で楽しむこともできなかった。


 連絡は何も無かった。

 当たり前なのかもしれない。

 口約束は記憶にしか残らない。

 トークアプリや通話の履歴という証拠は何もない。


 そもそもあれは約束ですらなかったのかもしれない。

 ただ会話の流れで口走っただけで、本当は私と祭りに行こうだなんて思っていなかったのかもしれない。

 いや、間違いなくそうだったのだろう。

 ここに私が一人でいることが照明している。

 昨日約束をして別れてから動かないトークアプリもそうだ。


 私はなんて馬鹿なのだろう。

 今日の朝にでも確認の連絡を取ればよかった。

 アプリを開いてちょっと指を動かすだけで伝えられるのにどうしてできなかったのだろう。

 連絡をして、あの人から約束をした覚えなんてないと笑われるのが怖かったのか。それでもきっぱりと断られたらここにはいなかった。


 でもこうなってみると連絡を取らなくて正解だったかもしれない。

 黙っていれば勘違いが伝わることはない。

 私が一人で祭りに来たなんて知られることもない。

 集合場所だと話していた場所からずっと離れなかったなんてことも、花火が始まって周りに人が溢れて動けなくなったことも、終わってからもそのせいで中々帰れないことも、何もかもあの人が気づくことはない。

 連絡しなくてよかった。

 今とても惨めだが、まだマシな方のはずだ。

 だから大丈夫。

 私は馬鹿だけど大丈夫だから落ち着こう。


 静かに深呼吸を繰り返す。

 悲しみや怒りでいっぱいだった胸が少しすっとした。

 その頃にようやく人混みが動き出した。やっと帰ることができる。

 助かった。人の流れは緩やかでまだまだ先は長そうだが、動くだけまだマシだろう。

 歩き出すとあちこち痛む体も楽になれた。


 ぞろぞろと進む人の列の一部になってから数分、やっと出口が見えてきた。

 無心で歩いていると思ったよりも早かった。

 そのまま何事もなく会場を出て、駅へ歩みを進める。

 会場を出てしまえば人混みはバラバラになった。

 祭りで交通規制があり、車道も歩けるのが大きい。後ろには祭り会場しかなく、反対方向に行く人は基本いなくて歩きやすかった。

 また駅である程度の人数が集まることになるとは思うが、その頃にはかなり分散しているはずだ。

 下駄がコロコロと鳴るのを聞きながら、たまにせっかちな人に抜かされながら、駅に無事着いた。




「あ」


 ICカードがすんなりと取り出せず、人のいない壁際に寄った時だった。

 声が聞こえてきた方に何となく顔を向ける。

 その顔を見て驚いたが、不思議と心は凪いだままだった。


「ごめん」


 その人は謝ってきた。

 何も言い訳をしなかった。


「ううん」


 だから、私はただ受け入れた。

 特に言うことが見当たらなかった。

 何も感じない。全く心が動かない。


「本当に、ごめん」


 静かに謝罪をするその姿をただ眺めた。

 何か理由があったのかもしれない。

 気まずそうな、申し訳なさそうな顔をしている。

 少し息が上がっていて、もしかしたら私を探していたのかもしれない。

 すっぽかしたのは本意ではなかったのだろうか。


 でも、それでどうしろというのだろう。

 私が一人馬鹿みたいに待っていたことに変わりはなくて、正直ここで謝りに来るのならさっさと連絡をくれた方がよかった。こんなみっともない姿を見られたくなかった。

 スマホが電池切れになったり無くしたりしたのかもしれないが、そんなこと私には関係がない。


 でもこの感情だって、あの人には関係の無いことだ。

 浴衣を着てきたことも、さっさと帰らずに終わりまでいたことも私の勝手で、連絡すればよかったのは私も同じだ。


「もういいよ」


 私も悪かったのだ。

 だからもういい。

 早く帰りたい。

 もう疲れた。


「大丈夫だから。またね」


 手を振って、そのまま別れた。

 ちゃんと笑えていたと思う。

 あの人も『また』と返してくれた。

 ICカードをかざして改札を通り抜けて、後ろは振り返らなかった。

 あの人がそのまま立っていてもいなくても、どちらも見たくなかった。



 そのまま来た電車に乗り込んで、ぼんやりと外を眺める。

 動き出してホームを離れると、窓に浴衣姿の私が映りこんだ。

 頑張って着付けた浴衣。綺麗に結べるまで何度もやり直した帯。


「何も言われなかったな……」


 思わず漏れてしまった言葉を誤魔化すように、ため息を吐いた。

 何も感じないなんて嘘だった。

 もう心の中はぐちゃぐちゃで、何も表に出せなかっただけだ。


 祭りを楽しみたかった。

 浴衣を褒めてほしかった。

 一緒に花火を見たかった。


 でも、あの花火は空を汚くするだけだった。

 家を出るときは綺麗だったこの浴衣も、今はくすんで見えた。

 あの約束は確かにあったのだとわかっても、もう空しさしか感じない。



 だから、もういい。

 終わったのだ。

 祭りも花火も、何もかも。




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