第五話/ その日は青い空だった
セミルがラウラの部屋から帰った朝、王都中の立て札に王政廃止の詔が掲げられ、字の読めない者たちへは役人から街頭演説が行われた。そして夜には教会で臨時ミサが開かれ、国王ローレスカヤの逝去と、王族の処刑が発表された。
「国王が自決? さんざん好き放題して、最後まで勝手なもんだな! なぶり殺してやりたかったぜ」
「でも残った王族は処刑されるんだろ? 一人目は、あの贅沢三昧の公妾らしいじゃないか。いい気味だよ」
ラウラが予想した通り、民は国王の身勝手に激怒し、その鬱憤の矛先がラウラの処刑に向かった。通常ならば発布から数カ月の猶予が置かれるが、すぐそこにアレステア国との開戦が迫っているため、急遽王宮広場で準備が進められ、その週末の朝にラウラの処刑が決行されることになった。
議員や民主派の者たちは、「本当にこれで良いのか」と戸惑っていたが、暴動が鎮火し、民主派の有志による自警団が市内を巡回したことで、暴徒による略奪もなくなった。何よりシュクリ砦へ軍隊を最大数派遣できたことが心強かった。全力の軍隊であれば、アレステア国など瞬時に蹴散らしてくれるだろう。
全てラウラが描いたシナリオ通りに事が運んだ。そのため、誰もが心を麻痺させて、これで良かったのだと無理に思い込もうとした。そして、新しい民主国家がもたらす希望に胸を膨らませた。忌み嫌う公妾の手のひらで躍らされているとは知らぬまま、国民の心はひとつになっていた。
そんな騒ぎの中、あの約束から三日後の夜となった。セミル・ブライガはラウラの元へ向かうため、家人や侍従の目につかぬよう、ひっそりと裏口から庭へ忍び出た。
この貴族街の邸宅は、元々ブライガ家の曽祖父が購入したものだが、父であるカラバフ公爵が上院議員になったのを機会に、セミルたち兄弟も領地の屋敷から移り住んだ。青春時代から三十路の今に至るまで、様々な思い出がある。もう二度と帰ることはないと思えば寂しくもあったが、ラウラを守りたい気持ちの方が遥かに大きかった。
ただ一つの心残りは、娘のヴァルマの事である。とうとう父親らしいことはしてやれなかったが、せめて健康に育ってくれと心の中で祈った。
セミルはそっと裏木戸を閉めると、足早に歩き出した。いつものように馬車を出すわけには行かないので、ラウラと合流した後で辻馬車を雇い、王都郊外の河畔にあるブライガ家のボートハウスへ向かうつもりだ。
そこから釣り用の船で南下し、山岳地帯を抜けて隣国へ逃れようと考えていた。そのため、服装も平民のような旅装である。ラウラのために女中の普段着も用意した。ゲートルを巻いて大荷物を背負った様は、まさか公爵令息には見えないだろう。
セミルが貴族街を抜けて、貴族院のある王宮広場の方面へ進もうと思ったとき、路地にうずくまる老婦人が目に入った。こんな夜中に捨て置くわけにも行かず、セミルは婦人の背後から声をかけた。その行動は、セミルの育ちの良さゆえの美点であり、一方で弱点でもある。
「奥様、どうなさいましたか?」
言い終わらないうちに、セミルは背後から伸びてきた腕に羽交い締めにされ、鼻と口に布を押し付けられた。強い薬品の匂いがして、これはまずいと思ったところで、次第に意識が遠のくのを感じた。その夜、セミルが記憶しているのは、そこまでである。
翌朝、ブライガ家では密かな大嵐が吹き荒れた。侍従が当主のカラバフ公爵に、セミルの不在を報せに来た。セミルはたまに酒を過ごして、他所の家に泊まることがあるが、それなら使用人を介して連絡が届くはずである。
公爵は悪い予感に従い、息子の部屋に足を踏み入れた。眠った様子のないベッドや、片付いた机の上、そして狩猟の際に着る服が消えていることに、違和感を覚えた。可能性としては、ただひとつ。彼がラウラを連れて逃亡したという事が考えられる。
父親として、もしそうであれば無理に追わずにいようと思った。たとえ国境で拘束されたとしても、上院議員のセミルなら強制送還と議席剥奪程度で済むだろう。ラウラにしても、予定通り処刑が行われるだけだ。もう十分に苦しんだ息子が、追い詰められて選んだ悪あがきを、とても邪魔立てする気にはならなかった。
ところが、カラバフ公爵が貴族院へ登院してみれば、ラウラはゲストルームにいるではないか。ここでカラバフ公爵を不安が襲った。息子は何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。しかしこの国の大事な時期において、公爵家内部の問題を公にするのは憚られた。
公爵は「息子は急な病で臥せっている」と周囲に伝え、自身の私兵にセミルの捜索を命じた。もし自ら出奔したとすれば辻馬車を使ったはずなので、人相を伝えれば向かった先がわかるだろう。しかし、処刑の行われる金曜日になっても、セミルの行方はわからないままであった。
その日は前日の雨が嘘のような快晴で、王都広場には憎き公妾の死に様を一目見ようと、王都内外から観衆が押し寄せた。広場の中央の柵の中には、高床の舞台が組まれており、周囲どこからでも処刑の様子が見えるようになっている。
やがて10時の鐘が鳴り、民主派の代表としてキリールが新政権樹立の宣誓をした。次に、民主各派閥の代表者が舞台に上がる。それぞれ新政権の創成期議員として、旧貴族院選抜議員たちと共に、新しいこの国を立ち上げていく面々である。
その中からジャンゴが一歩前に出て、大きな声で観衆に向かって処刑の宣言を行った。彼は王族の処刑を訴えていた派閥の代表として、刑の執行人を買って出たのだ。
「おい、みんな! とうとう王室をぶっ潰したぞ! さんざん俺たちを苦しめた責任を取らせるために、今から悪い奴らの処刑を行う。一人目は、国王を誑かして贅沢三昧していた毒婦だ! こいつが子どもを吊るし首にしたことは、みんなも覚えているだろう!」
悲鳴が入り混じる歓声の中、白い簡素なドレスを着たラウラが舞台へ連行されてきた。赤い髪は後ろでひとつにまとめ、何か所もしっかりと紐で縛られている。ラウラが予想した通り、ジャンゴはポケットから小刀を出して、その髪を根元からばっさりと落とした。歓声が一層大きくなる。
「クソ女がぁ!」
後ろ手に縛られたラウラを、ジャンゴが殴り飛ばし、よろけたところを引き寄せて、手に持ったままだった小刀で、左の耳を切り取った。血しぶきがあがり、白いドレスを赤く染める。これにはさすがに舞台下に控えていた宰相から怒声が飛んだ。
「やめんか! 処刑は拷問ではない、貴様の私怨をぶつけるな!」
「うるせぇ、どうせ死ぬんだ、せいぜい苦しんで逝きやがれ!」
そう言ってジャンゴが再びラウラの肩をつかんで、もう一方の耳も切り取ろうとしたとき、ジャンゴにだけ聞こえる声で、ラウラが「薄汚い教会の犬め」と呟いた。これにジャンゴが激高し、斬首のために用意された剣ではなく、手の中の小刀をラウラの腹に突き刺した。二度、三度と刺し、白いドレスは既に赤く染まっている。
「やめろっ!」
たまらずキリールが飛び出し、ジャンゴを舞台から蹴り落とした。そしてラウラを見やれば、血の海の中にうずくまっている。このまま放っておけば、失血によりじわじわと死ぬだろう。キリールが宰相の方を見ると、縋るような表情でゆっくりと頷いた。
キリールは深く息を吸い込み、覚悟を決めて、舞台に置かれた剣を手に取った。自らが丹精込めて鍛えた、ラウラを屠るための剣である。その鈍い輝きが、宙を舞った。
「――御免」
ラウラは鈍い痛みの中で、全てがうまく行ったことを確信していた。ジャンゴという男が、浅慮な野心家であることも利用した。感覚が朦朧とする薬を飲んでいたので、耳を切られた程度ではさほど痛みは感じなかったが、さすがに腹をやられると意識が急速に遠のき始める。
いつかシャオ大老が言っていた。人は死の間際になると、生まれてからの出来事を思い出すのだと。ラウラは、うずくまった視線の先に青空を見た。それは本物の空ではなく、昨日の雨でできた水たまりが映した青であったが、いつか子どものころに見た空を思い出させた。それが、ラウラが見たこの世で最後の景色だった。
その日の夜、バクリアニ聖教大本山の奥深い部屋で、枢機卿カナーン・レイルズが、さっきまで宰相だった男と対峙していた。ラウラの計画は、処刑によって王都の暴動を鎮圧することだけではなく、むしろ死んだ後が本番であった。その真実を聞かされた枢機卿は、ただ呆然とするばかりであった。
やがて元宰相、セレフツィ公爵が立ち去ると、レイルズは秘書官を呼んで緊急の通達を出した。
「今夜は誰も立ち入るな。そして、明日の早朝の祈祷に、王都中の司祭以上全員を集めろ。いいか、一人残らずだ、急ぎ伝えろ!」
そう言われた秘書官は、転げるように走り去った。これから下級の聖職者たちは、夜を通して伝令に走り回ることになるだろう。そして枢機卿も徹夜で説法の原稿を書き換えねばならない。
明日の午前の大ミサでは、教会の最高権力者である教皇が、新政権樹立の祝辞を華々しく述べる予定であった。しかし、一転バクリアニ聖教を代表して懺悔をすることになってしまった。
教皇は高齢であるため、組織を実質的に掌握しているのは枢機卿である。最近では朦朧とすることの多くなった教皇が、どこまでこの窮地を理解できるか不明であるだけに、枢機卿の肩に伸し掛かる責任は重大であった。




