第四話/ 夜着のうちの柔肌
その夜、ラウラの元にセミルが訪ねて来た。もうずいぶん遅い時間で、ラウラは夜着に着替えていたが、すぐにガウンを羽織ってセミルを招き入れた。
「今夜はもう下がってちょうだい。責任者には私が命じたと言って良いので」
部屋付きの女中が、一礼して出て行った。夫婦でない男女が一対一で会うときは、使用人が同室するか部屋のドアを開けておくことが、上流階級の常識となっている。そのため、宰相やキリールが訪問した時もドアを開けて体裁を整えた。しかし、セミルの表情を見れば人に聞かせて良い話でないことが見て取れる。ラウラは、世間体を気にせず、人払いをすることにした。
とは言え、厳格にしきたりを守るのは嫁入り前の令嬢くらいで、既婚の貴族は男女ともに自由恋愛を楽しむ者が少なくない。ましてやラウラもセミルも気楽なやもめ同士である。よほど大っぴらに羽目を外さない限り、咎める者はいないだろう。
「召し上がりますか?」
女中が気を利かせて置いて行ったデキャンタを、ラウラが持ち上げた。酒精の高い上等な蒸留酒である。セミルは深いため息をついて「いただきましょう」と返事をした。飲まずにいられないのはよくわかる。今日の会議で、彼は初めてラウラの計画を知ったのだ。
酒を2杯、一気に飲んだところで、ようやくセミルは今夜の本題に入った。
「貴女が私を頼ってくださらなかったことに関しては、もう何も言いますまい。きっと、お考えがあっての事だと思います。しかし私は、それを受け入れることができません」
そう言われることは予想していた。だからこそ、彼を遠ざけていたのだ。ラウラは改めて、セミルを真正面から眺めた。初めて彼に会ったのは、ハルシュカ家の養女になって間もなく。義兄の墓参りに来た彼が、ラウラを見染めたのだ。
あれから、10年以上の月日が流れた。その間、お互い結婚をしたり子どもが生まれたり、様々な出来事を経て今に至る。出会った頃は、まさかこれほど長い付き合いになるとは思わなかった。最も驚くべきは、彼が変わらない愛情をラウラに注ぎ続けていることだ。滅多に他人に心を開かないラウラにとって、セミル・ブライガは数少ない大切な人間のひとりと言っていいだろう。
「セミル様」
セミルは片方の眉を上げて先を促した。甘いカラメルのような髪のすき間から、ラピスラズリの瞳がラウラを見つめている。上背ばかり高くて、ひょろりと細い体。求婚すると言われたときは、戸惑いはしたが、嫌な気持ちはしなかった。この人の手を取れば、望んでいた平穏な暮らしが手に入るのではと、ひと時の夢が見られた。
「セミル様、ごめんなさい」
セミルはグラスに残っていた酒を飲み干し、4杯目の蒸留酒を自ら注いだ。瓶の中の琥珀色が蝋燭の火を反射して、ラウラはいつか舞踏会で見たシャンデリアの飾りを思い出した。彼と二人で踊った日の輝きは、もう遠い記憶の中でぼやけている。
「なぜ謝るのです。何か私にいけない事をなさいましたか」
「貴方を、悲しませたくはないのです」
「そうですか、でしたら、おっしゃった事を撤回してください。私はずいぶんと悲しみましたし、今も悲しんでいます。きっと、明日も明後日も嘆きながら暮らすことになるでしょう、さあ撤回してください!」
少しばかりの酔いも手伝ってか、いつもの穏やかなセミルからは考えられないような、荒々しい声が出た。ラピスラズリの瞳が、青い炎のように燃えている。
「セミル様……」
こうなることは、ラウラにも予想がついていた。しかしセミルは公爵家の教育を受けた政治家である。一時は悩んだとしても、私心より国益を優先すると考えていた。実際、求婚の目前でローレスカヤに召し上げられた時も、屈辱を飲み込んでラウラに寄りそってくれたのだ。しかし、もはやセミルの辛抱は限界をとうに超えていた。そして何よりラウラへの想いが深すぎた。こればかりはラウラの誤算であった。
「ラウラ様、私と共に国を出ましょう」
「えっ」
「私と共に隣国へ逃れましょう。すぐに手筈を整えて、貴女を迎えに参ります。伝手がありますし、国境を越えることは難しくありません」
「それでは、セミル様のお立場が――」
「構いません。私にとってブライガ家や国政は、命と同格だと信じてきました。しかし、それよりも貴女が大切なのです。貴女が私を愛していないことは、承知の上です。それでも……、それでも人として、男として生きるためには、貴女が必要なのです」
全てを捨てる決心をしたセミルの表情は、怖くなるほど清々しい。ラウラは気迫に押されて言葉が出なかった。
「公爵家のセミルではなくなりますので、贅沢な暮らしは約束できません。でも、私は幸い健康です。農夫でも木こりでもして、貴女を養いますからご安心ください」
それを聞いて、ラウラの心の中で何かがぐらりと揺れた。かつてここまで、異性から純粋な愛情を与えられたことがあっただろうか。熱病のようにサルーを求めた時とは違う、乾いた大地に水が沁み込むような衝動が、ラウラの背中をそっと押した。
「嬉しゅうございます、そこまで私を――」
気がつけば、ラウラはセミルの胸に飛び込んでいた。咄嗟にその背に回したセミルの手のひらに、薄い夜着越しのラウラの体温が触れる。やがてラウラのエメラルド色の瞳がセミルを見上げ、あとは言葉を必要としない時間が訪れた。
「もっと早く決断するべきだったのです。そうすれば、貴女を公妾になどさせなかった。初めてお会いしたあの時から、心は決まっていたのに」
長年恋焦がれた赤銅色の髪に鼻先を埋めながら、セミルの瞳は涙を湛えていた。腕の中にラウラがいることが、もしや夢ではないだろうかと、何度も抱きしめずにはいられなかった。そんなセミルの痩せた胸板を、ラウラの指がそっとなぞった。
「……今さら言っても、詮無い事ですわ」
「その通りです。これからの事だけを、考えましょう」
明け方、暫しの別れを惜しむようにラウラの髪に口づけて、セミルは部屋を出ていった。三日後の夜、再びここを訪れると約束をして。
ラウラは気怠い体を起こしてベッドから出ると、夜着のまま机に向かって便箋に何やら書き付け、デキャンタに残った蒸留酒をテラスの窓から下の草むらに捨てた。そして再びベッドに入ると頃合いを見て、枕元のベルで女中を呼んだ。
「悪いけど、二日酔いなの。ちょっとロットレング薬湯店まで、ひとっ走りしてくれるかしら。これ、頭痛薬の処方箋よ」
空のデキャンタをちらりと見て、女中は「なるほど」と納得した。昨夜はお楽しみだったのだろうと思ったが、貴族院で雇われるほどには訓練された女中なので、顔には出さなかった。
「かしこまりました」
駄賃に銀貨をもらって上機嫌の女中は、貴族院から目と鼻の先のロットレング薬湯店へと朝一番で駆け込み、言いつけどおりに処方箋を渡して薬を受け取ってきた。彼女はその処方箋が、ラウラからシャオ家に宛てた暗号文であることを知る由もなかった。




