第七話/ 樹上の人影
ラウラが匿われた館には、二人の女中と三人の護衛がいた。母屋の二階には主寝室と浴室、衣装部屋があるだけの、こぢんまりとした造りの家である。
しかし、部屋のドアには廊下側から閂がかかり、窓には鉄格子まではめられている。まるで牢獄のようなこの部屋は、かつて精神を病んだ王女のためのものであったらしい。なるほど、厄介者の公妾を監禁するにはもってこいの場所だ。
ラウラはこの部屋で、書き物をしたり本を読んだりして過ごした。たまには護衛を従えて庭を散策することもあったが、彼ら とは打ち解けて話せる間柄ではないため、ほとんどの時間が孤独であった。
そんなある日、ラウラは読書中に目に光が刺さるのを感じた。窓から差す日光ではなく、作為的な反射光だ。ラウラの勘が何かを察知した。
ラウラは読みかけの本を膝から落として立ち上がり、窓際へ駆け寄った。木立の間から、チカチカと鏡に反射する光が見える。しかし遠すぎて光を操る人影が見分けられないため、ラウラは目を眇めて焦点を合わせた。やがて光の点滅が止み、人影が明確に見えてきた。ラウラに向かって大きく手を振っている。
「……ヤンさん!」
ラウラが8歳のころ20代半ばだったので、既に四十路を超えているだろうが、しなやかな肢体と涼しげな瞳は、今も青年のように見える。リーザとドロテが姉妹ならば、ヤンとティティは兄である。屋敷の塀を見下ろす高い木の枝の上で、黒い服に身を包んだその腕が、ゆっくり大きく動かされた。
『見えますか』
瞬時にラウラは『見えます!』と腕を動かした。シャオ家の人々が、リーフェンとの会話に使う手話である。これなら遠い場所でも十分に会話ができる。ラウラは驚きと興奮に任せて手話を続けた。
『どうしてここがわかったのですか』
『商人に聞けば、わからない事などありません』
『シャオ家のみんなは、知っているのですか』
『いいえ、私のほかは誰も知りません』
山奥の一軒家ではあっても、食料や燃料は必要になる。機密に守られた荷馬車で運ばれてくるとはいえ、いつもと違う物品の流れがあれば、近隣の商人は勘づいてしまうのだ。きっとシャオ家の伝手を使って調べたのだろうが、その秘密を一人の胸に抱いたまま、彼はラウラに会いに来たらしい。
『リーザとドロテが帰ってきました』
ラウラの体が一瞬だけ固くなった。ロットレング領を経由して、シャオ家に戻ったのだ。無事に帰せてよかったという安堵と、会いたくて切ない気持ちが交錯する。
『私は、あなたをそこから連れ出せます』
ラウラの意思を確かめるように、ゆっくりと手が動く。連れ出してくれと頼めば、数日もしないうちに彼らは手筈を整えて、永遠にラウラを匿ってくれるに違いない。しかしラウラは首を横に振った。
『私は、ここに残ります』
もしもここから逃げ出せば、ここぞとばかりに国はラウラに罪をなすりつけるだろう。国王は公妾に唆されて血迷った、貴族たちもそれに倣っただけだと、全てラウラが悪いことにされてしまう。貴族といっても、たかが子爵の娘だ。真実はどうであろうと、保身のためには容赦なく切り捨てる。それが支配階級の考え方である。
そうなれば、残された子どもたちはどうなる。ロットレングの領民はどうなる。自分一人が悪者になって済むなら、それでいい。いかなる処罰も甘んじて受けよう。しかし、愛する者が世間の誹りを受ける事だけは、何としても避けたかった。
『あなたは、それでいいのですか』
『あなたたちを守ることが、私の為すべきことです。きっと、大老が生きていたら、同じようにします』
樹上の人影は、しばらく動きを止めていたが、再びゆっくりと腕を動かした。
『何か、私にできることはありますか』
ラウラの気持ちを理解してはいても、納得はしていない、そんな心情が伝わってくる。それでも静かに見守ってくれるのが、彼の精いっぱいの愛情である。ラウラはしばし考え、おもむろに腕を動かした。
『ひとつだけ、お願いしたいことがあります』
その夜、ラウラは再び深い思考の淵を彷徨った。シャオ家に頼らずとも、ここへ来るまでに逃げ出すことは可能であった。しかしそれをしなかったのは、愛する人々を守るためである。
ラウラの予測では、恐らく王政は覆される。そうなれば自分は、悪ければ処刑。生きていたとて流刑か修道院、あるいは投獄であろう。
万が一、自由になったとしても、死ぬまで悪評がつきまとう身である。蔑みが家族に波及するのを避けるためにも、領地を離れ隠遁の暮らしを選ばざるを得ない。
可能性は少ないが、仮に王政が維持されたとすればどうか。国民の支持を回復するため公妾制度は廃止され、自分は世間から隔絶された場所に追いやられるはずだ。そして恐らく、病気などの理由をこじつけて亡き者にされる。
その場所こそ、ここではないかとラウラは予感していた。つまり、どう転んでも二度と愛する者たちと共に暮らす未来はない。
「ターニャ、スウェン、エイデン……」
愛し子たちの顔を思い浮かべ、ラウラは涙した。そして、我が手に抱くことすら許されなかったが、一日たりとて忘れたことのない、国王との間に生まれた赤ん坊のことを想った。
彼の行く末は、とりわけ心配である。なまじローレスカヤの血を引いているだけに、政治的な魂胆で利用される可能性がある。
何度も、何度も、涙を拭いながら、ラウラは彼らの安全が脅かされない方法を考え続けた。そしていつも辿り着く先は、何も知らないふりをしながら、莫迦な公妾を演じるが吉という結論であった。悔しいが、それが現実である。
いかに美しかろうが、賢かろうが、それが幸せをもたらすとは限らない事を、今までの人生でラウラはうんざりするほどに知っていた。
ラウラが山奥の館で子らを想い涙を零していたころ、王都のとある酒場の二階で、民主派の頭領であるキリールが頭を抱えていた。
キリールはもともと王都郊外の田舎町、イサルト領の農夫の倅であったが、兄弟が多かったため、9歳で王都の鍛冶屋に弟子入りした。それから20年。真面目に修行し、親方に次ぐ二番手を任されるほどの腕になった。
しかし昨今の重税や菊熱の余波で、鍛冶屋は倒産。妻と子を養うために日雇い労働をしていたが、無理がたたって妻が死んでしまった。現在はこの酒場の二階で、二人の息子たちと身を寄せ合って暮らしながら、相変わらず日雇いで細々と糊口をしのいでいる。そんな市民は、今の王都には履いて捨てるほどいるのだ。
王政に不満を持っていたキリールは、いつしか民主化運動に傾倒していった。妻の死を忘れたい想いもあった。そして持ち前の賢さと人徳で、つい数ヶ月前までいくつかの派閥に分かれていた周辺の民主化グループを、キリール率いる一派が取りまとめて王都で最大派閥となった。
彼らは税金を食いつぶす王室を廃止し、重税を強いる貴族を排斥せよという、正攻法の派閥であったが、同じ民主化グループでも中には意見の合わない連中もいる。
最近ではそれらの衝突が激しくなり、とうとう今日は死人が出てしまった。更には不埒な者たちが、民主化に託つけて暴徒となり、商店や倉庫を襲撃する騒ぎが起こり始めている。それがキリールの頭を悩ませる直近の難題であった。
正しい民主化とは、政権を掌握することが目的ではなく、その先にある国民の豊かな生活であるとキリールは常に考えている。しかしこのままでは、早晩民主化運動は内側から破綻してしまう。自分たちが唾棄する貴族と同じように、利権に群がろうと手ぐすねを引いている連中がうようよといるのだ。
それらの問題を一掃するために、キリールは最も建設的な手段を選んだ。養護院や救済院の設営を通じ、民に寄りそって来た唯一の政治家、セミル・ブライガ上院議員に面会を申し込んだのである。
果たしてその声は聞き入れられた。ある日の昼下がり、キリールとセミルは王都郊外の旅籠で会談し、それからすぐに民主派と貴族院それぞれの代表で、正式に会談を行う場が整えられた。
これが後世に語り継がれる「7人会議」であり、この時の参加者が後の新政府を導く、実質上の中核メンバーとなった。




