第三話/ 赤い髪の女と黒い髪の男
「いつも、こんな風に男を誘うのか」
くつろげた前をそそくさと整えながら、サルーが背中越しにラウラへ言葉を投げた。ラウラはいまだ熱を宿した体をのろのろと起こし、めくれ上がったドレスのスカートを引き下げる。
本当ならあと少し、二人でマントにくるまっていたいところだが、いつ野生動物に襲われるかわからない林の中では、そういうわけにもいかない。サルーはあっという間に身支度を整え、また火の番に戻ってしまった。まるでちょっと用を足した程度の顔をしている。実際そうなのだろう。それがラウラには口惜しかった。
「あるわけないでしょう、そんなこと」
ラウラはなるべく感情を込めずに答えたが、内心では身悶えしていた。時間にすれば、わずか十分そこらの行為だったかもしれない。侍女がいないのでドレスを脱ぐわけにもいかず、地面に敷いたマントの上で、獣のように体を繋げた。淑女にあるまじき蛮行である。
しかしそれは、ラウラが経験したことのない感覚を呼び覚ました。かつてラウラにはアレンという夫がおり、現在は国王ローレスカヤの妾である。孤児の時代に凌辱された経験は別としても、それなりに男を知っていると自負していたのだ。
けれど、違った。サルーに与えられた感覚は、激流に飲み込まれるような興奮と、未知に対する少しの恐怖、そして女性としての歓びを開花させた。そのような別次元を知ってしまったことは、きっと不幸を招くであろう。なぜなら、その黒い髪の男はもう二度とラウラを抱くことはないからだ。
「全く、どんな阿婆擦れだと思われているのかしら。私は、親の決めた男しか知らないわ」
もしくは、暴力で私を嬲った男、とラウラは心の中で呟いた。全く、男にも様々な種類があるものだ。貞操など遥か彼方に捨て去った娼婦が、一人の男に溺れて身を持ち崩す心境を今なら理解できる。
「なんで、俺を誘った」
サルーが生木を火に焚べた。目にしみる白煙が立ち、ラウラが手巾で鼻を覆う。まもなく夜が明ける。捜索の者たちに居場所を知らせるためだろう。
「さあ、なんでかしらね」
ラウラはわざと、興味なさげに答えた。「貴方に触れてみたかった」などと言えば、全てがお終いになる。お互いに、気まぐれで起こした一夜の過ちとして、秘密を共有せねばならないのだ。
「籠から逃げた小鳥が、連れ戻される前に空を飛んでみたかったのかもね」
「なるほどな」
「最初の夫は父親ほど年が離れていて、菊熱であっけなく死んだわ。ようやく喪があけて、子どもたちと静かに暮らせると思ったら、今度は国王の妾に召されてしまった」
サルーは黙って聞いている。目線をくれないのが、ラウラにはありがたかった。腹の中で渦巻く澱を、燻る火の中に吐き出してしまいたかった。
「産んだ子を自分で育てることもできず、運よくお褥すべりが叶っても、またきっとお爺さんと結婚させられるのよ。少しくらい羽目を外したって、罰は当たらないでしょう」
ラウラは自虐的にそう言うと、わざと笑ってみせた。それで話は終わったはずだと思っていたのだが、サルーの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「肩の傷は、どうした」
ラウラは硬直した。烙印の手術痕の事を言っているのだろうが、ほんの少しはだけた程度の肌を見て、サルーは何かを見抜いてしまったらしい。何度も肌を晒したアレンや国王でさえ気づかなかった、細い線だけの傷痕を。
ラウラが答えずにいると、サルーは続けた。
「昔、似たような傷のある女を買ったことがある。ユマ国の娼婦だった。奴隷の烙印を消したそうだ」
何か答えた方がいいのか、答えない方がいいのか迷って、ラウラは後者を選んだ。サルーは確信している、ラウラが肩書き通りの女ではないことを。だからといって、どうこうするつもりもないだろうが、秘密にさらなる罪深さが加わった。
「迎えが来たようです」
騎士の敬語に戻ったサルーが立ち上がり、ピュウと指笛を鳴らした。やがて崖の上から声が降り注ぎ、サルーの部下がロープを伝って降りてきた。夢の時間の終焉である。
王都に搬送されたラウラは、すぐさま王宮の医療院に収容され手当を受けた。足の怪我はひどい捻挫で、全身に打撲も見られたが、命に関わるものではない。
それより、サルーが思ったより重症で、肩と足の筋が切れて肋骨も折れていた。頭の傷はラウラの応急処置で大事には至らなかったものの、騎士団の療養所に一週間の入院となった。
「可哀想なことをした、もうあのような目立つ馬車には乗せぬ」
騒ぎの根源である、赤い馬車を拵えた国王も、今回ばかりは反省したようである。その機に乗じてラウラは、国王にある約束をさせた。馬に石を投げた子どもを罰することがないよう、議会に嘆願書を出してもらうことにしたのだ。
「ただでも王室に逆風が吹いております。ここは寛大なお裁きをなさいませ。ましてや、小さな子どものやったことでございます。反省して国に貢献せよと、諭し導くことが民の尊敬に繋がりますわ」
しかし国王が勅を下す前に、貴族院は既に杓子定規な規律を優先させていた。石を投げた村の子どもを捕まえて、王都の広場で縛り首にしてしまったのだ。その子は、わずか8歳であった。
この事件は民主化運動の炎に、さらなる油を注いだ。怪我をさせられた公妾が、国王に訴えて子どもを処刑したという噂は全国を駆け巡った。
そして、悲劇は連鎖する。怪我の治療のため安静にしていたラウラを見舞った国王が、大人気ない行動に出た。
「人払いをせよ」
いつもならそれは、渡りがある日の暗黙の了解である。しかしラウラは怪我人で、打撲がまだ癒えていないため、安静に過ごすよう医師から言い渡されているのだ。
「陛下、ラウラ様のお体はまだ……」
「下がれと申しておる」
国王がそう言えば、侍女も護衛も下がるしかない。ラウラは諦めて天を仰いだ。ほんの数日前に「可哀想なことをした」と言った人物が、痛みに苦しむ妾に無体をはたらこうとしているのだ。
所詮、彼にとってラウラは玩具の一種に過ぎない。目の前にあるのに、なぜ遊んではいけないのかということなのだ。その善悪を国王に理解させる術をラウラは知らず、ただ歯を食いしばって痛みに耐えるばかりであった。
数日後、ラウラのシーツが血で染まり、リーザが医師を呼びに走ったが、すでに手遅れの状態だった。
「流産なさったようです。事故で打撲を受けておられましたし、精神的なものもあるかと……」
医師はそう言葉を濁したが、決定的な原因は国王の行いである。怪我をして発熱の続くラウラを、彼は容赦なく弄んだのだ。
その結果、微熱がひどい高熱に変わり、母体が命を育めなくなった。いくら頑健なラウラであっても、限界というものがある。そしてその原因となった本人は、また無責任な発言をして場を凍り付かせた。
「おお、可哀想なことをしたな。しかし健康になれば、またいくらでも産めるから心配はいらぬ」
国王のことはただの一度も慕ったことはないが、ラウラの中で恨みが募りはじめた。たとえ我が手で育てられないにしても、女が赤ん坊を失う悲しみがいかほどのものか、甘やかされた君主は想像さえ及ばないのだ。
いつもは気丈なラウラであったが、この時ばかりは精神が正常を保てなくなった。様々なことが一度に起こり、悲しみが深すぎて、眠ることも食事を取ることもできない。
日増しに痩せ細り、眼だけが爛々と禍々しく輝く。あと一歩で狂気に達するという間際で、その淵から救い出してくれたのはサルーだった。
サルーは騎士団の療養所から出た足で薔薇宮に赴き、半狂乱になりつつあったラウラを見舞った。本来であれば、国王しか入室を許されない寝室に入ると、ベッドの天蓋を上げて別人のようにやつれたラウラを見降ろした。
「少し、外してくれ」
背中越しに、侍女へ向けられたその言葉は、淑女の寝室において無礼極まる態度であったが、明らかに国王のそれとは異なる。リーザもドロテも否とは言わなかった。
二人きりになった寝室で、虚ろな目をしたラウラの頬を、剣だこのできた硬い手のひらが撫でた。
「忘れろとは言わん。泣け」
そう言うと、サルーはラウラをそっと抱き寄せた。あの日と同じ、汗の匂いと厚い胸板に、一瞬の記憶が蘇る。ラウラはしばし呆然とし、やがて堰が切れたように泣いた。声を上げて、肩を震わせて、サルーに縋りついて泣いた。
子爵令嬢でもなく、母でもなく、国王の公妾でもなく、この男の前では、ただの裸の女でしかない。女は子を失えば泣くしかないのだ。ラウラはひとしきり泣き叫んだ後、気を失った。サルーはその小さな背中を、ベッドに横たえて宮を去った。
リーザとドロテは、同じ女として二人の間に起こったことを感覚的に理解した。あの事故の前から既に、ラウラがサルーに対して特別な感情を持っていたことも、知らない振りをして見過ごしていた。
しかし、セミル・ブライガにとっては納得がいかなかった。毎日のように薔薇の花束を抱えて見舞いに通う自分ではなく、サルーが無礼な行いを以てラウラを宥めたことに、一人の男として強烈な不快感を覚えていた。




