第二話/ 沈黙のその先に
ロサナリア公爵の謀反は、表面上は「何もなかった」ことにされたが、この国の貴族全体に、何とも言えない後味の悪さを残した。彼がやったことは政治の理念に背くことである。しかし、もとはと言えば王室にも原因がある。貴族でさえそう思うのだから、庶民にとっては言わずもがなである。
貴族院が最も警戒したのは、民主化運動である。教会が煽った反王室の気運は、低所得層の若者たちの間で枝葉を成長させ、各地で王室を批判する過激な集会が勃発している。先月は、貴族の別荘で行われていたパーティーが襲撃され、庭園に松明が投げ込まれた。
幸い、火事にはならなかったが、これを機に大規模な宴会は自粛するようにとの通達が出た。ラウラのサロンもしばらく閉鎖し、王宮から出ないようにと言われている。しかし、そんな中でも国外からの賓客はやって来る。そのため、国王や王妃の身代として、接待せねばならない場面も度々あった。
そんなある日、ついにラウラが襲撃された。郊外の接待先から戻る途中、馬車に向けて石つぶてが飛んできたのだ。民主化運動の過激派ではなく、村の少年たちが投げたようである。
王都では有名な、薔薇の描かれた赤い馬車が目印になったのだろう。贅沢三昧の公妾をちょっと虐めてやれ、という程度だったかもしれないが、運悪く馬の顔面に石が当たってしまった。
「きゃああっ!」
馬が驚いて立ち上がり、御者がふるい落とされた。やがてもの凄い勢いで走り出し、車体が上下に飛び跳ねる。ラウラは舌を噛まないように歯を食いしばり、座席の床に這いつくばった。一頭立ての小さなキャリッジなので、リーザとドロテを別の馬車に乗せておいたことが不幸中の幸いである。
そのままどれくらい走っただろうか。馬の全力疾走は長続きしないと知ってはいても、恐怖と打ち付けられる痛みで、理性的に考えることができない。そのうち森の中に入ったのか、車体に木が激しくぶつかり始め、ああもう駄目だと思いかけた時、馬車の戸が外から蹴破られた。
「捕まれ!」
並走する馬を操りながら、サルーがラウラに手を差し出している。浅黒い肌に汗が張り付き、漆黒の乱れ髪の下から鷹の目が光る。その姿を見た時、ラウラは一瞬にして恐怖が霧散するのを感じた。
揺れる馬車の床に膝で踏ん張ると、ラウラはその手に縋りついた。やがてようやく指先が触れたかと思った瞬間、馬車が大きく弾け飛んだ。車輪が外れたのだ。ラウラの背に氷のような汗が噴出したが、その手首をサルーが掴んで引き上げた。空中でサルーの胸に引き寄せられながら、頭上を車輪が飛んでいくのが見えた。
直後、車体は木に衝突して砕け、間一髪でラウラは助かった。しかし、その反動でサルーも乗っていた馬から落ち、二人で斜面を転がり落ちた。衝突した場所の先が、崖になっていたようだ。
「……大丈夫か」
何度か障害物に弾んでは転落し、ようやく動きが止まって数分後、サルーが体を起こした。衝撃でしばらく放心状態だったラウラも、その声で正気に戻った。そして、声がした方を見ると、血まみれのサルーがこちらを覗き込んでいた。
「サルー、あなた……怪我をしているわ」
「俺のことはいい、あんたは無事か」
口調から敬語が抜けているのは、彼もまた混乱している証拠だろう。そう言われて体を起こそうとしたラウラは、足に強い痛みを感じて顔をしかめた。
「見せてみろ」
「待って、貴方の方がひどい出血だわ」
止めようとしたが、サルーは無遠慮にドレスのスカートを捲りあげ、ラウラの足を引っ張りだした。靴がどこかへ飛んでいき、絹の靴下だけになっていたが、それも躊躇せずに引き裂く。しかし羞恥より痛みが勝った。「うっ」という声がラウラの喉から漏れる。
「骨は折れていないようだ。立てるか?」
ラウラは頷いた。周りを見渡すと、崖下の林の中と思われる。どこか安全な場所で状況を確認した方がいいだろう。サルーの肩を借りて立ち上がると、思ったより歩行の痛みは感じなかった。それよりサルーの出血が気になる。
堅い革の防具を着けていたとはいえ、転落の間ラウラを庇うように抱きかかえていたため、あちこちが切れているし黒髪からも血が滴っている。頭の打撲は生死にかかわるため、あとでしっかり確認せねばなるまい。そのうちサルーが夜露を凌げそうな場所を見つけて、そこへ二人は腰を落ち着けた。
「今ごろ部下が俺たちを探しているだろうが、間もなく日が暮れる。最悪、今夜はここで夜明かしになるかも知れん」
壊れた馬車は一緒に崖下へ落ちたようだし、サルーの馬も逃げてしまった。手がかりが何もない状態で、真っ暗闇の中、森の捜索は命取りである。それはラウラも理解できた。そうであれば、お姫様のように座っているわけにいかない。
「おい、何をしている」
林の中に入ろうとするラウラを見て、サルーが驚いたが、お構いなしに進んでいく。
「もうすぐ日が暮れるんでしょ。だったら、今のうちに焚き木を集めておかなくちゃ。貴方、私より怪我がひどいわ。すぐ戻るから、動かないで、そこにいて」
サルーは呆れたようにため息を吐くと、その場にひっくり返った。やはり、相当な打撲を負っているようである。ラウラは集められるだけの枯れ木の小枝と、切り傷に効く野草を何種類か採取すると、サルーの怪我を確認した。
「擦り傷と切り傷はひどいけど、ざっと見たところ深手はないようね。でも、頭を切っているから、気分が悪くなったら言うのよ」
ラウラはサルーの服を脱がせ、出血部分を手当てした。幸いにも頭の傷は切り傷だけで、薬草を当ててしっかりと包帯で止血したため、ひどいことにはならないだろう。ただし、肩と脚のどこかの筋が切れているようで、それは医者でないとどうにもならない。
ちなみに、頭の包帯はラウラがペチコートを脱いで引き裂いたものだ。残り布で自分の足の捻挫も固定できたので、重ね着もたまには役に立つ。
「手際がいいですね」
やっとサルーの口調が戻ったが、何をいまさらである。取りあえずこれ以上できることはないので、サルーが熾した火で夜明かしの体制に入った。騎士団の護衛たちは優秀だ。きっと夜明けとともに助けが来るだろう。
「ロットレング領は、薬草の名産地よ。応急処置くらいは勉強しているわ」
もちろん、本当は名医ティティから直々に習った医術なのだが、ラウラはそっけなくそう答えた。実はさっきから、目の前の男が気になって仕方がないのだ。
手当のときは怪我のことで頭がいっぱいだったが、いつか訓練所で覗き見した裸体を間近で見てしまった。触ってみたいと思っていた肌は、国王やアレンの手ざわりとは全く違い、かっちりと盛り上がった筋肉や濃い汗の匂いが、ラウラにはひどく煽情的に思えた。
一方、自分はどうだ。ドレスは泥だらけであちこち破れ、髪も化粧もめちゃくちゃだ。その上、腫れあがった足は布でぐるぐる巻きになっている。およそ見られたくない姿ではあるのだが、このまま夜明けがずっと来なければいいのにという気持ちがどこかにある。今夜が過ぎれば、二度とこうして二人きりになることは叶わないだろう。
そんな尋常でない状況が、抑え込んでいた欲望の蓋を開けたのかもしれない。ラウラはいつもなら外さない、淑女の仮面を脱ぎ捨てたくなってきた。サルーと出会って以来、生まれて初めての感情に振り回されている。
「俺が火の番をしていますから、寝てください」
そう言ってサルーは自分のマントを地面に敷いた。模範的な騎士のふるまいである。しかしラウラの口からは、およそ彼の予想だにしなかった言葉が飛び出した。いや、ラウラ自身もそんなことを言うつもりはなかった。心の声が、するりと忍び出てしまったに違いない。
「一緒に、寝ましょうか」
しばらく沈黙が流れた後、サルーが火を木の枝でかき回しながら、ラウラの方を見ずに言った。
「それでは、誘っていると思われても仕方がない」
サルーの表情はいつものように、何の感情も含まないように見えたが、口調がまた戻っている。ラウラは内心、自分の暴走が信じられなかったが、死ぬまでに一度くらい、女として生きても罰は当たらないだろうと開き直った。明日からまた王宮という牢獄で、愛してもいない男の玩具になるのだ。
「誘っていると言ったら? それとも、国王陛下の使い古しは嫌かしら」
再び沈黙が流れた。枯れ木の爆ぜる音だけが、静かな夜の闇に吸い込まれていった。




