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公妾/maîtresse royales  作者: 水上栞
◆ 第一章 奴隷の少女、ラウラは娼館に売られた
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第四話/ 黒き蝶のシャングリ・ラ



 ラウラを買った黒いドレスの女性は、王都ではちょっと名の知られた高級娼館「黒蝶館」の女主人であった。さっきは薄暗くてわからなかったが、よく見れば目鼻立ちのくっきりした美人である。年の頃は30代後半であろうか。すらりと背が高く、佇まいに迫力がある。しかしそれでいて潤んだ色香の漂う、魅惑的な女性であった。



 女主人がラウラを連れて外へ出ると、どこからともなく大柄な男が現れた。筋骨隆々として、隙のない強面だ。着ているものは上等だが、貴族にも商人にも見えない。ラウラが警戒したのを見て、女主人があごをしゃくって二人を紹介した。



「ロッカ、この子は新入りだよ。お前、名前は何て言うんだい」


「ラウラです」


「ラウラ、このロッカはうちの用心棒だ。見てくれはいかついが、女と子どもには甘いから安心しな。そのかわり、敵に回すと狂犬みたいに噛みつくけどね」


「またずいぶんと青田買いをしたもんですね」



 ラウラをみて、ロッカがニヤリと笑う。目尻に皺がより、鋭い眼差しが幾分やわらいだ。女子どもにやさしいというのは強ち嘘ではなさそうだ。ロッカはラウラたちを先導し、路地の入口に停めた馬車へと向かった。



「たまにはね、こういう気まぐれがしたくなるのさ」




 馬車の戸をロッカが開け、女主人が乗り込むのを手伝った。そして、ラウラをひょいと片手で持ち上げ車内へ詰め込むと、自分は御者台へと上がる。用心棒と御者を兼ねているらしい。



 馬車がガタガタと走り出した。ラウラが今まで何度か乗せられた馬車とは、まるで趣の違う豪奢な内装だった。座席は葡萄酒のような色の天鵞絨で、座ると尻が沈み込んだ。それが却って居心地悪く、ラウラは本題を切り出した。



「あの、ご主人様、さっき言っていたお金の話ですが……」



 その言葉尻を切るように、女主人の声が重なった。



「私のことはマダムとお呼び。うちの女たちも使用人も、みんなそう呼ぶ」


「わかりました、マダム」


「金の話は着いてから聞くよ。まずその前に、あんたの身の上だ。そうでなきゃ、話の要領を得ないだろう」



 ラウラはこの新しい主人に好感を持った。おそらく仕事には容赦がないのだろうが、言うことに筋道が通っている。ラウラは孤児院からこれまでの、自分に起こった出来事を正直に伝えた。この人には隠し事や脚色は通用しないと感じたからだ。




 マダムは黙ってそれを聞いていたが、「なるほどね」と言ってラウラの顎をつかんだ。



「お前は人並外れて美しいから、それを欲しがる連中の餌食になりやすい。賢いのもヘタに立ち回れば諸刃だよ。でもね」



 マダムの指が、ラウラの赤銅色の髪をそっと撫でる。ラウラが嗅いだことのない甘く濃厚な香りが漂い、眩暈がしそうな気分になった。



「お前がこれから行く先は、美しさと賢さが最大の武器になる。あたしがお前にその使い方を、骨の髄まで叩き込んでやるよ」



 それからほんの10分ほどで、黒蝶館に着いた。マダムの雰囲気から、怪しげな建物を想像していたが、その予想に反して糸杉の木立に囲まれた白い館は、こざっぱりとして静かな佇まいだった。木の葉一枚ないほど清掃が行き届いた車寄せには、家紋のない小型の馬車が何台か停まっている。




「うちの客は、貴族のお忍びが多い。誰だろうなんて、詮索するんじゃねえぞ」



 馬車を珍しそうに眺めていたら、ロッカに注意をされた。もしもお客に出くわしたときは、「いらっしゃいませ」とだけ言って、顔を伏せてやり過ごすのがルールらしい。



「あの、ここは何のお商売をしているのですか?」



 ロッカの目が丸くなった。この館の女たちは成人してから来る者がほとんどなので、小さなラウラが娼婦の何たるかを理解しないまま売られてきたことが、ロッカには不憫に思えた。マダムの言う通り、この男は人情家なのである。



「まあ、そうだな。……男の客が、女を買うんだ。と言っても奴隷にするんじゃないぜ。一晩とか数時間とか、部屋で楽しいことをするんだ。ああ、うまく説明できねぇや」



 頭をかきむしるロッカの背中から、マダムの声が飛んできた。



「そういうことは、あたしがきちっと教えるよ。ラウラ、こっちへ来な」




 ラウラたちは表玄関を通り過ぎ、裏手の小さなドアから中へ入った。館で働く人間の通用門だ。小さな鈴を鳴らすと、ドアの覗き窓から誰かがこちらを伺い、銀髪をきれいに結い上げた中年女性が主人を出迎えた。



「おかえりなさいませ、マダム」


「ただいま、アリー。この新入りを風呂に入れてやって。頭に虱がいるようだから、念入りにね」


「かしこまりました」


「今日はもう遅いから、明日の朝、私のところによこしてちょうだい」


「はい、部屋は私と一緒でようございますか」


「任せるよ」


「かしこまりました」



 そう言ってマダムは奥へと消えていった。残されたラウラがもじもじしていると、アリーが浴室に連れて行ってくれた。そこはラウラの知らない世界だった。


 何しろ、湯を張った浴槽に浸かるのも初めてだったし、石けんで洗われたこともなかった。今までは井戸の水を頭からかぶるか、絞った布で拭くだけだったので、ラウラは温かい湯の心地よさに驚いた。そしてアリーがラウラの体を洗ってくれることに恐縮し、自分でできると主張したが、思いのほか強い力で押さえつけられた。



「ちゃんと櫛でとかしながら洗わないと、虱は落ちないんだよ。後で薄荷の油を塗ってあげるけど、一匹もいなくなるにはしばらくかかるだろうね」



 さっきは畏まった口調だったが、普段のアリーは気風のいい下町風で、ラウラにはそちらの方がなじみ深かった。そのアリーが、途中でラウラの烙印に気がつき、「おや」という顔をしたため、いたたまれない気持になった。奴隷が風呂など身分不相応だと思われただろうか。



「あの……ごめんなさい、私……」



 ラウラは慌てて烙印を隠そうとしたが、アリーはその傷跡をそっと撫でてくれた。



「あんた、小さいのに苦労をしたようだね。マダムは厳しいけど情のある人だから、ここに来たからには、安心していいんだよ」



 その言葉を聞いて、ラウラはこれまでの緊張が一気に解き放たれ、湯に浸かったまま大泣きしてしまった。6歳の少女が、やくざな大人相手に大立ち回りをしたのだ。気丈に振舞ってはいても、精神的な消耗は大抵ではなかった。






 その夜はもう遅かったが、ラウラは特別に夜食を出してもらい、これもまた生まれて初めての白いパンを食べた。教会で司祭が食べていた、柔らかな憧れのパンだ。一緒に出してもらったミルクは濃くて甘く、それまで飲んでいた水割りのミルクとは別の飲み物だった。館の人々から見れば、パンとミルクだけの簡素な夜食だったが、こんなに美味しいものが世の中にあったのかと、ラウラは一口ずつ噛みしめて食べた。




 ラウラが食べている間、アリーはこの館の人々について教えてくれた。住み込みの女中はアリーだけで、あとは通いの掃除婦や洗濯婦が数人。男の住み込みは、ロッカの他に料理人が一人いるという。



「働き手の女は7人。入れ替わりは多いけど、だいたい7~8人はいつもいるね。たぶん明日、マダムが会わせてくださるよ。今日はゆっくり寝な。いいかげん、疲れただろう」



 欲張ってパンを二つも食べたせいか、ラウラのまぶたは重たくなってきた。旅籠を出たのがはるか昔のことに思えるが、まだほんの数日前である。ぼろを着て、虱だらけで床磨きをしていた孤児が、湯船に浸かって白いパンを食べるなど、誰が想像しただろう。




 その日最後の驚きは、アリーと共用の女中部屋だった。旅籠の三段ベッドや孤児院の藁ベッドとは違って、分厚いマットが敷いてある。横になるとふかふかで、硬い床が背中に当たることもなかった。しかも、白いさらさらの敷布がかけてあり、どこも破れていないし臭いもしない。



 この「黒蝶館」は、何もかもが夢のようだった。もしも夢なら永遠に醒めないでくれと思いながら、ラウラは深い眠りの世界へ落ちていった。





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