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公妾/maîtresse royales  作者: 水上栞
◆ 第一章 奴隷の少女、ラウラは娼館に売られた
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第二話/ 奴隷の烙印

 


 ラウラが教会を出たのは、まだ月も沈まぬ早朝であった。教会の人々は寝静まっており、読み書きを教えてくれた若い助祭が、村の広場まで送ってくれた。ここでラウラは荷馬車に積まれて、次の街まで運ばれるのだ。



 初めて見る教会の外の景色を、ラウラは興味深く眺め渡した。王都の外れの小さな村ではあるが、きっと日中は賑やかなのだろう。市井の暮らしを知らないラウラにとっては、薄暗い広場が夢の舞台のようであった。



「体に気をつけて暮らしなさい。お前は賢いから、きっとご主人のお役に立てるだろう」



 そばかすの頬に笑みを湛えて、助祭がラウラの頭を撫でた。ラウラは聖職者たちの中で、この助祭がいちばん好きだった。階級の上がらない終身助祭のせいか、欲のないところが安心できた。やがて驢馬の引く荷車が来て、ラウラは3年過ごしたイサルト領に別れを告げた。






「降りろ」



 太陽が頭上に照り付けるころ、ラウラは荷車から下ろされ別の荷馬車に乗せられた。御者台には目つきの悪い中年男、荷台にも見張りの男が乗っており、奥の方にはラウラより少し年上の少女がいた。その足が縄で縛られているのに驚いていたら、荷台の男がラウラの足も縛り上げてしまった。



「いいか、逃げ出そうなんて思うなよ」



 ラウラは無言で頷いた。逆らうと容赦なくぶたれると本能が告げていた。荷馬車は街道を半日ほど進み、ラウラたちは乾パンと水を与えられ、足を縛られたまま堅い荷台で野宿をした。粗末な幌の向こうから、男たちの下卑た笑い声が聞こえてくる。



「あのチビはずいぶん上玉だな」


「ちっと値段を吊り上げてみるか」


「よせやい、あの旅籠の女将を怒らせたくねぇや」



 自分のことだろうと耳をそばだてていると、奥で寝ていると思った少女が小声で話しかけてきた。彼女はエスターという名で8歳らしい。



「ねえ、あんたどこに売られるの」


「知らない。孤児院から奉公に出されたの」


「ふーん、でもあの人たち人買いだよ。あたしが働いてた家の女将さんが、お前は奴隷として売り飛ばすって言ってた。あんたもきっと、奴隷に売られたのよ」



 ラウラは奉公と奴隷の違いが理解できず、黙って聞いていた。エスターはべらべらと身の上話を語った。不安を誤魔化したかったのかもしれない。


 エスターは村の代官屋敷で下働きをしていたが、母親の薬を買うために主人の財布から金を盗み、その返済の形(かた)として売り飛ばされたそうだ。



「お母さんのために盗んだのに、お母さんにもう会えないのよ。死ぬまで会えないのよ」



 そう言ってエスターは泣き始め、やがて疲れて眠ってしまった。その翌日、小さな町の外れでエスターは下ろされ、迎えに来ていた男の人に連れて行かれた。






 ラウラが目的地に着いたのは、そこからさらに川に沿って進み、陽が傾いた頃だった。がっしりとした石の塀がめぐらされた大きな館で、背後には鬱蒼とした森が迫っている。  



「ここは狩猟の客を泊める田舎の一軒宿だ。一番近くの村までお前の足では2日かかるし、その前に獣に食い殺されるだろうよ」



 足の縄を解きながら、男がラウラに脅しをかける。逃げられないぞという意味だろう。ラウラは馬車に揺られて疲れ果てていたので、もうどうにでもしてくれという気分であった。




「なんだい、随分見てくれのいい娘だね。ここは娼館じゃないんだよ」



 建物の中に入り、人買いの男がラウラを引き渡すと、女将と思しき女がそう言った。上背も横幅も大きく、熊のように逞しい。その後ろで髪が薄くやせっぽちの男が、ギョロギョロとした目つきでラウラを眺め回した。この宿の主人だそうだ。




「まあいいわ、ご苦労さん。じゃあ、お前はこっちへおいで」



 女将がラウラを奥の部屋へ入るよう促した。物置のような部屋だ。やがて、ギョロ目の主人が棒のようなものを持ってきた。その後のことは、あまり覚えていない。ラウラは奴隷の所有権を表す烙印を入れられ、あまりの痛みに失神してしまったからだ。


 気がつけば、蚕の棚に似た三段ベッドが並ぶ部屋で寝かせられていた。やがて水桶を持って10歳くらいの少女が部屋に入って来た。麦わらのような髪をひっつめにした、痩せて背の高い娘である。彼女はジェンと名乗った。



「しばらく熱が出るかも。ここへ来た子は、みんな最初の日に焼かれるの。痛いけど我慢よ」



 ジェンはそう言って水で布巾を絞り、印を押された右肩に当ててくれた。その瞬間はわずかに楽になったが、火傷の痛みは耐え難い苦痛だった。しかし、幸いにも昼間の疲れがひどかったため、痛みより眠気が勝ったのが有り難かった。ラウラは3日ほど高熱で朦朧としながら痛みに耐え、なんとか山場を乗り越えた。




 その間、ジェンだけでなく数人の子どもがラウラのもとにやって来て、ミルクや麦の粥を与えてくれた。その時に聞いた話では、ここには5歳から10歳まで男女合わせて8人の奴隷がいるという。



「小さいうちは養うのに金がかからないし、宿屋なら力仕事がないから、ガキの奴隷で十分だ、って旦那が言ってた」



 そう教えてくれたのは、9歳のテートだ。貧農の村から口減らしで売られてきた。ここの子どもたちは大人と同じ仕事ができる年になれば、余所へ転売されて新しい子がやってくる。ラウラもその一人であった。




 熱が下がったラウラは、早速きつい労働を課せられた。しかし、孤児院でも掃除や洗濯は日常であったし、働いてさえいれば叱られることもなかったので、精神的には楽だった。何しろ孤児院と違って、ここでは食事をお腹いっぱい食べられる。粗末なパンやスープではあったが、満腹になるということがラウラにとっては初めての体験であった。



 そんな生活が淡々と続き、やがて年が明けてラウラは数えの6歳になった。その頃のラウラのささやかな楽しみは、くたくたに疲れて奴隷部屋のベッドに寝転び、眠りに落ちるまでの僅かな時間に交わす、仲間とのお喋りであった。


 子どもたちは様々な事情で売られており、ラウラはこの世が聖書の唱える理念ではなく、不条理で満ち溢れていることを学んだ。悲しいことに、奉公と奴隷の違いも知った。あの時、教会で感じた違和感は正しかったのだ。ラウラは自分を騙した司祭が呪われればよいと思った。




 そんなある日、ラウラは偶然に主人の秘密を知ってしまった。きっかけは床磨きの最中、客室で拾ったコインがポケットから落ち、帳場の机下に転がったことだ。



 客室を掃除していると、たまに忘れ物や落し物を見つけることがある。本当は女将に届けなければいけないのだが、そのコインは異国の物らしく、珍しい文字が彫ってあった。ラウラはそれが気に入り、こっそりポケットにしまっておいたのだ。


 しかし縫い目が破れていたようで、主人から「こっちへは来るな」と言われている帳場へ転がり込んでしまった。普段なら仕方ないと諦めるラウラだが、幸い女将も主人も近くにはいなかったので、こっそりとコインの行方を探した。その時、帳場の床板がずれていることに気づいたのだ。



 床下の空洞には、紙の束のような物が詰まっていた。ラウラはそれが何であるか、直感で理解した。女将や主人は、まさか6歳の孤児が計算に長けているなど思いもしないため、平気で帳簿や宿帳をそこらに放り出して用事を済ませる。しかし賢いラウラは何度かそれらを目にするうちに、宿に泊まった人数と帳簿の売上が合わないことに気がついた。



 この旅籠では売上の過少申告をするために、二重帳簿をつけていたのだ。もちろん、床下にあるものが本物である。とんでもないものを見つけてしまったと思ったが、ラウラは何も見なかったことにした。




 孤児院を追い出されたとき、美しさや賢さは決して有利にはたらくばかりではないことを学んだ。この旅籠では、ラウラは読み書きも計算もできない、ただの奴隷の孤児として、息を潜めて生きることに決めていた。





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