第三話/ 影の支配者
「お呼びでしょうか」
ダルーシャが領主の執務室に、滑り込むように入室した。年の頃は30歳前後。黒っぽい髪を油できちんと撫でつけ、型の古いスーツを着ている。主人との服装に差をつけるための使用人の倣いであるが、主人であるユーリ・ハルシュカ子爵も着古しなので、あまり見た目には違いがない。
ダルーシャの父親もかつて、この家の家令であった。老齢で隠居したため、10年ほど前から息子が仕事を引き継いだ。ダルーシャはそれ以前も従僕として仕えており、子爵家にとっては信頼のおける使用人だった。
そのダルーシャが横領を行っていたとは、まだ信じがたいが事実である。あの後、ラウラから裏付けとなる証拠を、論理的に突き付けられた。領主として看過することはできない。ユーリは深く深呼吸をして、本題に入った。
「帳簿を見せてもらえるかね」
無表情だったダルーシャの顔に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
「どうしてでしょうか。帳簿はいつも通り、滞りなく私の方で管理しておりますが」
「領主が帳簿を見るのが、そんなに不思議なことかね。領地経営がどうなっているのか、把握しておくのは私の仕事だろう」
ダルーシャは表情こそ変えなかったが、声が狼狽えていた。いつもは主人の用事には迅速に対応する男だが、立ったまま動かず言いつけを拒んだ。
「急に言われましても、困ります。記帳の途中ですし、私しかわからない形式で書いてある部分もあるので……」
「いいから、持って来なさい」
それ以上、命令に背くこともできず、ダルーシャは自室から帳簿を持ってきた。そもそも、家令が自分の部屋に帳簿を保管することが間違っているのだ。それはラウラから指摘されて猛省しているが、何年かぶりにじっくり見た帳簿は、ラウラが炙りだした不正の証拠があちこちに散らばっていた。
シャラマン商会の名前こそ出てこないものの、代官の徴税記録と突き合わせてみれば、中抜きが行われていることは一目瞭然であった。頭がくらくらするような怒りをこらえて、ユーリは粛々と帳簿の不正点を暴いていった。
「シャラマン商会は、お前の弟のものだね? 他領に横流しした小麦や木材の内容は、既に調べがついている」
ダルーシャは何も答えない。ユーリは続けた。
「隣の領で商会の登記をして、うちの集積所から流していたそうだが、うまくやったものだな。いくら横領したんだ」
「私はそんな、信じてください、決して横領など」
「一昨年、川が氾濫した際の護岸工事も、費用だけは計上されているが、見に行ったら工事の形跡はなかったよ。第一、もう何年もあの場所は氾濫していないそうだな」
ダルーシャは、とうとう何も言えなくなった。ぼんくらだと思っていた領主は、すべての裏を取っていた。もう言い逃れはできないと観念したのだ。
その夜、ハルシュカ家の執務室で、家族会議が行われた。これまでは、ユーリとラウラの二人で密談を進めていたが、ダルーシャを解雇するに当たり、妻のエルカに知らせないわけにいかない。ダルーシャは少年時代からエルカの気に入りだったので、どんなに嘆くかと思われたが、意外にも彼女は冷酷に切り捨てた。
「あんなに可愛がってやった恩を仇で返すなんて、なんという恥さらしでしょう。鞭で叩いてやればよいのです。それより、お金は返って来るのですか?」
落ち込んでしょんぼりしている夫に比べ、よほど現実的な考えである。ラウラがその問いに対し、義父に代わって答えた。
「もちろんシャラマン商会の資産からは返還を求めますが、全額は無理でしょうね。裁判をすれば別ですが、そうすると領内外にこの不始末が知られてしまいますわ。お義母さま、それはお困りになるのではなくて?」
「ラウラ、貴女は大人のようなことを言うのですね。ええ、そうよ。これは世間に知られず処理しなくてはいけません」
「でしたら、お金は諦めてください。それより、差し当たってダルーシャの代わりに家令を誰にするかという話なのですが」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
12歳の養女に領地経営の話を仕切られて、居心地悪そうに領主のユーリが止めに入った。
「今回のことは、よく気づいてくれたと感謝している。しかし、お前はまだ12歳の子どもだ。しかも、ここへ来たばかりではないか。いずれは家を継ぐだろうが、家督はお前の夫が取り仕切ることになる。余計なことは考えなくていい」
しかし、ラウラは黙っていない。そんじょそこらの12歳の少女とは、頭の出来も踏んできた場数も違うのだ。
「だから申し上げているのです。私の代になった時、領地の経営が傾いていれば、婿入りしたい男などおりませんでしょう。この機会に立て直すのです」
呆気にとられるハルシュカ夫妻の前で、ラウラはぴしゃりと啖呵を切った。
「お忘れにならないでください、私はあのシャオ大老に見込まれて教育を受け、リヴォフ夫人に磨かれたのです。その私が子爵家の跡取り娘になったのですから、このまま貧乏な田舎の領地で終わるわけにいきませんわ」
結局、ダルーシャは密やかに解雇され、シャラマン商会から幾何かの慰謝料を取っただけで、この事件は箱の中にしまいこまれた。領地経営に関しては、信頼に足る有能な人物を追々募ることにして、当面の方針はラウラが決定することになった。
「世間体というものがございますから、表向きはお義父さまが取り仕切る形にするのです。今回のことも、そうしましたでしょう」
ダルーシャを言い逃れできなくする証拠集めは、全てラウラが手配し、それを子爵本人が行ったように見せかけた。若い娘が知恵をひけらかすことは、世の中から好意的に見られない。しかし地位のある年かさの男なら、手腕を認められて経営にもよい影響が出る。釈然とはしないやり方ではあるが、それが現実だ。ラウラはこれまでの経験で、うまい立ち回り方を体得していた。
「しかし、そうは言っても……」
「あら、いいじゃありませんか」
渋る夫とは対照的に、妻のエルカはあっけらかんとその提案を受け入れた。
「先祖から受け継いだ財産が守られて、対外的に格好がついているなら結構じゃありませんか。だれが帳簿をつけているかなんて、家の外からじゃ見えませんもの」
ああ、この人は骨の髄から貴族なのだと、ラウラは何度目かになるか知れないため息を、心の中で吐いた。