第七話/ 私が私でなくなる日
「何を戸惑うことがありましょう。貴女は何年も、淑女の教育を受けてきたではありませんか」
リヴォフ夫人の声に、ラウラは我に返った。まずは状況を整理しないといけない。
「仰るとおりです。しかし、貴族という身分は生まれながらのもので、教育を受けて授かるものではごさいません」
「通常であればそうです。男爵や騎士の一代爵位であれば、お金や功績で得られるものもありますが」
「では、どうして」
「ラウラ、よくお聞き」
そこからは、シャオ大老が引き継いだ。
「お前さんにはいずれ、貴族から夫を迎えるつもりだったんじゃよ。お前は賢く美しいが、儂の人脈を譲ることは叶わん。そのため後ろ盾となる権力が必要だ。貴族と縁ができれば、外部からの干渉は格段にしにくくなる」
資産がある平民と、縁組したい下級貴族は多くいる。ラウラが年頃になれば引く手数多であっただろうが、その時まで待てない。息子がなりふり構わずこの家を荒らす前に、手を出せなくしたいのだと大老は言った。
「それが先ほど仰った、私が貴族になるということですか?」
「左様、方法はかんたんじゃ。お前さんは子爵令嬢の替え玉になるのじゃ」
今度こそ、ラウラは混乱を極めた。あまりに話が突飛すぎて、冗談ではないかと思いそうだが、大老の目は真剣そのものだ。いったいどんな話が、この数日間リヴォフ夫人と大老の間で交わされていたのか。
「リヴォフ夫人がさっきハルシュカ家と言うただろ? もともとその子爵家には兄妹がおったが、跡継ぎの兄が昨年、落馬して死んでしもうたんじゃ」
そこで、普通なら妹が家を継いで婿を迎える。包括相続人という制度だ。しかしその妹は、幼少のころから山奥の修道院にある、療養所に入れられている。
表向きは体が弱いということになっているが、生まれつきの障害を持っていた。この国の貴族の家では、そのような場合は養子に出すか、修道院の療養施設に預ける。そのためハルシュカ家では目下、後継者問題が行き詰まっているらしい。
さらには領地経営の不振で、経済的にも困窮していた。そこへ手を差し伸べたのがシャオ大老である。そして、秘密協定が結ばれた。借金の肩代わりをする代わりに、ラウラが彼らの娘である、アリエタ・ハルシュカの身代わりになるというものだ。
「そんなことが……、通用するわけがありません! 見破られたらどうするのですか。それに、私はここから離れたくありません!」
安住の地から、また追い出されてしまう。その恐怖にラウラは抵抗した。貴族になど、なりたくない。大老もリヴォフ夫人も、何か考え違いをしているのだ。しかし、リヴォフ夫人は平然とラウラの訴えを退けた。
「見破られることは、まずないでしょう。誰も2歳以降のアリエタ嬢を見たことがないのです。10年経って、病が回復して帰ってきた娘ということであれば、家族との仲が、多少他人行儀であっても不自然ではありません」
正気なのだろうかと驚くラウラを余所に、なおもリヴォフ夫人の話は続いた。
「第一、貴女はここにずっといるわけにはいきませんよ。他の者たちのように、世間から咎めがあるわけでなし。若くて可能性があるのですから、広い世界を見るべきです。そのために大老は、貴女に教育を施したのです」
ラウラは大老を見た。数年前まで半白だった髭は、もうほとんど白になっているが、そこから覗く笑みは相変わらず温かくやさしい。
「ラウラ、お前さんをここに匿ったのは、成長するまでおかしな虫がつかんようにだ。もうお前には力があるだろう。これからは自分の才覚で、世の中を渡っていくことを覚えにゃならん」
「いや、いやです……、私はここに」
「儂はもう長くない。いつまでもお前を守ってはやれんのだ」
「お願い、そんなことを仰らないで」
枯れ木のような手を握りながら、ラウラは涙を流した。どんなに世界が広くても、大老のそばで皆と暮らすことが幸せなのだと駄々をこねた。しかし本当は、わかっていた。成長するにつれて見えてくる、新しい世界。その果てしない地平線へ、飛び立つ力が自分にあることも。
黒蝶館から巣立った時のことをラウラは思い出した。あの時は、馬車の外の世界へ踏み出した。今度はさらに広くて深い霧の中へ、その歩みを進めようとしている。ラウラの小さな双肩には、屋敷の仲間の命がかかっていた。
ロットレング領を治めるハルシュカ子爵夫妻とラウラは、その翌週に接見した。この国の貴族は、爵位よりも資産で勢力が左右されることが多いが、ハルシュカ家はどちらにおいても、芳しくない立場であった。
父親の伯爵位と領地を兄が相続し、次男のハルシュカ卿には長兄が継いだ複数の爵位の中から、形ばかりの子爵位と僻地のロットレング領が分け与えられた。官職にも就いていないため、一年中領地で過ごしている。貴族名鑑には載っているが、ほぼ中央貴族には忘れ去られた存在と言ってよい。
「お話は私がしますから、貴女は私が指示した時だけ答えなさい」
ハルシュカ家に向かう馬車の中で、リヴォフ夫人はラウラに言いつけた。前日、ようやく彼女は自らの素性をラウラに明かした。驚くことに、彼女はかつてバクリアニ王国の西方に存在した、タレス皇国の皇女であった。今から約40年ほど前、その国は北方のアレステア国との闘いに敗れ合併吸収されたのだ。
敗戦色が濃厚となった時、国と共に亡ぶ覚悟をした皇帝は、皇后と子女を隣国のバクリアニ王国へ逃すため、匿って国境を超えるための馬車を募った。その時、ただひとり手を挙げた勇敢な若者が、ユマ国から行商に来ていたシャオ青年だったという。彼は戦火の中、不眠不休で荷馬車を走らせ、自らも深手を負いながら皇帝の家族を隣国へ逃がした。
「今では母も兄姉たちも鬼籍に入り、私が最後のタレス皇族の生き残りです。私たちの命は、シャオ大老によって守られました。恩義に報いるのは当然のことではありませんか」
彼女もラウラたちと同じく、シャオ大老に生かされた人間のひとりであった。今まで素性を明かさなかったのは、それによって先入観を抱いたり、委縮させない気遣いであったという。
なお、リヴォフ夫人はバクリアニ王国へ亡命後、セレフツィ公爵家に嫁ぎ今は隠居の身ではあるが、王都の貴族界では知らぬ者はいない大物である。そのリヴォフ夫人が、ラウラの後見人として付いている。田舎の子爵にとっては、承諾するしかない取引だったことは間違いないだろう。
「シャオ大老のためにお引き受けした家庭教師でしたが、貴女はとても教え甲斐がありました。彼の娘であるなら、私にとっても身内です。何かあれば、頼りなさい。しかし言っておきますが」
そこで言葉を切り、リヴォフ夫人はラウラに微笑んだ。8歳から師事しているが、この人の笑顔を見たのは初めてではなかろうか。
「貴族を信用してはなりませんよ」
彼女自身も貴族なのに、どういう意味だろうかとラウラは首を傾げたが、ハルシュカ家に着いてその言葉の真意が理解できた。情や正義よりも、形骸的な建前を何よりも優先する。貴族とはそういう生き物であることをラウラは知った。
「よくいらっしゃいました、リヴォフ夫人。この度は貴女様とご縁が持てましたことを、私たちは大変うれしく思っております」
「縁者になったのは、私ではなくこのラウラです。私は後見をするだけですので、どうぞお間違いなく」
にべもなく、という態度であるが、ハルシュカ子爵夫妻は一向に気にする様子もない。上級貴族が来訪するなど滅多にないことらしく、おまけに借金も清算できるとあって、夫婦ともども恵比須顔である。
ロットレング子爵、ユーリ・ハルシュカは50歳を少し過ぎたくらい、妻のエルカ・ハルシュカはまだ30代の半ばだろう。彼らの治めるロットレング領は、王都の東側に位置する。未開な土地が多い田舎であるが、シャオ家からは馬車で1日以内に着く。ラウラにとっては都合の良い立地であった。
「お話は聞いておりましたが、ずいぶん美しい娘ですね」
「婿取りするのに、苦労がなさそうですな」
我が子として迎え入れるというのに、ハルシュカ夫妻はまるで商品を値踏みしているような目つきだ。あくまでも娘の代役としての道具で、卑しい平民の子を家族として扱う気はないらしい。ラウラもそちらの方がよかった。取引として冷静に割り切れる。
やがて夫妻とリヴォフ夫人の間で、ラウラが領地へ移る際の取り決めが話し合われた。公式に書簡が交わせないため、慎重にひとつの項目ごとに念押ししながら、長い時間をかけて合意を確認していく。
その結果、シャオ大老が存命の間は、ラウラはシャオ家の屋敷にいていいこと。相続した大老の資産はラウラ自身の所有であり、成人するまでの監督はリヴォフ夫人が行うこと。そしてもちろん秘密は一切口外無用であることなどが決められた。シャオ大老やリヴォフ夫人が入念に根回しを行ってはいたが、どこから漏れるとも限らない。
こうして交渉は全て滞りなく進んだが、最後に驚くような言葉が子爵夫人の口から飛び出した。療養院にいる、実の娘の処遇をどうするか尋ねたのに対する答えである。
「さあ、今のままでよろしいのではございません? 私も、もう何年も会っておりませんのよ。どちらにしても、あの子は世継ぎが産めないのですから、子爵家には縁がなかったのですわ」
これには、さすがのリヴォフ夫人も、眉間にしわを寄せていた。貴族を信用するなと言った彼女の言葉は、こういうことだったのか。彼らにとっては、お腹を痛めて産んだ我が子であっても、貴族という体裁を構成するための部品に過ぎないのである。
第二章 完