第六話/ 刺客
シャオ家の屋敷を襲ったある事件とは、被害で言えば犬が一匹死んだことである。そしてその原因を辿るうち、ある種の危険が迫っていることが判明した。ここ10年ほど何の動きもなかったシャオ大老の長男が、どうやらこの事件の黒幕であるらしい。
「かわいそうに、何ということだ」
雪の朝、シャオ家の愛犬であるハンが、矢で射られて死んでいるのが見つかった。普段は、夜間の番犬代わりとして母屋の塀の外で寝ているが、死体が見つかったのは門から遠い薬草園だった。不審な気配に気付いて、探りに行ったところを狙われたようだ。
「賊は、雪の夜を選んで侵入したようですね」
ヤンが敷地内を見回り、そう判断した。ハンの死体は雪で覆われ、足跡も降り積もる雪で消されていた。賊は母屋に侵入しようとしたが、ハンの様子がおかしいことに気づいたラジが吠えたため、諦めて逃走したようだ。犬が2匹いるとは知らなかったのだろう。
愛犬を殺された大老の怒りは凄まじく、それ以上にラウラも復讐心に燃えていた。ラウラが畑に出るとき、いつも護衛よろしく付き添ってくれたハン。老犬であったが、まだまだ一緒に暮らせると思っていた。こんな無残なことをした相手を、この手でくびり殺してやりたい。
その憤怒が執念となったのか、ラウラは外塀の近くで証拠物を見つけた。それは布でできた煙草入れで、ユマ国独特の形だった。そして、中に入っていた煙草の銘柄が、ユマ国のシャオ商会で扱っている最高級品であることがわかった。
「どうやら、的が絞れてきたな」
うんざりしたような顔で、シャオ大老が呟く。ヤンの表情にも影がさしている。事件の夜、門番が酒を飲んで居眠りしていたことも判明しており、屋敷の勝手をある程度知っている者が、計画的に侵入を試みたと考えられる。
ちなみに屋敷の警備は、近くの村の男たちが交代で行っている。その村はかつて山賊の隠れ里であり、街道を通る商人を襲って生計を立てていたが、シャオ大老の馬車を襲撃しようとして一網打尽にされた。しかし大老は彼らを牢獄に送るかわりに、屋敷の警備に雇うことで忠誠を誓わせた。
彼ら一族にとってシャオ大老は、命の恩人であり生殺与奪を握っている支配者だ。裏切れば死が待っているので造反は考えにくい。そこで当夜の門番を問いただしてみれば、
「門番小屋の近くに、酒の樽が置いてありまして……。母屋の人が運び忘れたのかと思って、一杯だけ頂戴しようと思ったところが……」
二杯が三杯、そして深酒になってしまったという、お粗末な話である。酒には眠り薬が仕込まれており、賊は門番が眠ったのを見て忍び込んだのだ。
今後は警備の強化を徹底するので、しばらくは敵も様子を見るだろうが、再び襲撃があるかもしれない。しかも向こうは矢を持っている。ハンの体からは毒薬が検出されたため、大老は屋敷の皆に厳重な注意を呼び掛けた。
そして同時に、ヤンに息子の動向を探らせた。諜報は彼の得意分野である。いくつもの国にまたがり商売を広めたシャオ大老にとって、何千、何万人という商人たちが耳であり目である。彼らの集めた情報を分析すれば、大抵のことは異国にいようとも手に取るようにわかった。
その結果、大老が一代で築き上げたユマ国きっての大商会は、大きな負債を抱えて風前の灯火であることがわかった。
バクリアニ王国へ移住した際、シャオ大老は商売にまつわる権利と蓄え全てを置いて出てきた。そのまま地道にやれば既に得た信用で、商いが大きくはなっても倒産する心配はなかったはずだ。しかし長男はあれほど父親が疎んだ阿片に手を出し、迂闊な儲け話に乗って身代を潰した。
「しかも、次男と三男、お二人が湯水のように財産を使い果たしたようです」
報告事項を述べるヤンの声が暗い。次男は賭け事、三男は不動産の詐欺で、莫大な金を失った。彼らを取りまとめていたはずの長男は、手に負えなくなって弟たちを放逐したが、もう取り返しのつかない状態にまで追い込まれているという。
「結局は、器ではなかったということじゃな」
大老にとっては、実の息子たちである。袂を分ったとは言え、辛い現実だろう。風の噂で商売が傾いているとは聞いていたが、まさかここまでとは。そして息子は遺産で当座をしのごうと、なかなか死なない父親を殺しに来たというわけだ。
その情報は、ラウラにも伝えられた。養女となった以上、大老が亡くなれば遺産はラウラにも権利が生ずる。もしかすると大老だけでなくラウラも亡き者にするつもりで、刺客を送り込んだ可能性がある。
「お義父さま、以前にお聞きしたことがありましたね。息子さんは、私が養女になったことを知ったら、不愉快に思われないかしらと」
ラウラがシャオ家の養女になった直後である。その頃は、まさかユマ国の商売が傾くとは思っていなかったので、大老も呑気なものだった。
「娼館から美しい娘を迎えたと聞けば、あの単細胞は助平なことしか考えん。まさか相続させる算段とは思いもせんだろうよ」
そう言って笑っていたのだが、今や事情が変わった。敵は死に物狂いで、シャオ大老の事業と屋敷を取りに来るだろう。しかしそれ自体は、大きな問題ではない。金や建物は、取られてしまったとしても所詮は物である。恐ろしいのは、ここに匿う人々の存在が、明るみに出てしまう事だ。彼らにとってそれは、すなわち死を意味する。
ラウラは決断を迫られた。ヤンやリーザ、ドロテ、リーフェンやティティを守りたい気持ちは、もうずっと前から固まっていた。彼らはすでにラウラにとってかけがえのない家族である。自分がここを相続すれば、そのまま静かに同じ生活が続く。そう思っていたのだ。
しかしその平穏を脅かす存在が現れた。きっと大老の長男は、ラウラを殺すか彼女ごと手に入れようと考えているだろう。ならば、闘うしかない。しかし、いったいどう闘えばいいのか。そうしているうちに、大老の命の残り時間は刻々と失われていく。
ラウラたちが警戒しながら、解決策を模索すること数カ月。シャオ大老が、ラウラを私室に呼んだ。数日前からリヴォフ夫人がやって来て、珍しく母屋で話し込んでいた。何か事件に関して進展があったのではと思っていたが、それが自分に関することだとは、この時のラウラは思っていなかった。
「ラウラ、お前がここへ来たとき、儂が頼みごとをしたのを覚えているかね」
「ええ、覚えています。あれから、きちんとお話しないまま、時間が過ぎてしまいました。改めてお返事します。私、相続をお受けします」
「そうか、ありがとう」
シャオ大老は、しわだらけの顔をさらにくしゃりと顰めて笑い、痩せて骨だけになった手を差し出した。それをラウラの手が、そっと包み込む。
「ただ、ちょっとばかり事情が変わってしもうた。まさか息子がここを奪いに来るとは思わなんだ。儂の先読みが甘かったということだ」
リヴォフ夫人は大老の枕元で、背の真っ直ぐな椅子に、しゃんとして腰掛けている。その普段通りの気高い佇まいが、この場においては心強く思えた。
「そこで、リヴォフ夫人と話し合ったのだが、お前に相続させるにあたって、息子が手出しできない身分を与えてはどうかということになった」
「身分?」
身分と言われても、ラウラには瞬時に理解できなかった。戸惑うラウラを見て、リヴォフ夫人がひとつ咳払いをし、おもむろにその意味をラウラに示した。
「貴女を、貴族の令嬢にしようと思います。ロットレング子爵ハルシュカ卿の娘になるのです」
ますます意味が理解できない。リヴォフ夫人は、聞き間違いでなければ、ラウラを貴族にすると宣った。襲撃されたキャラバンの残骸で拾われ、孤児院から奴隷に売られた挙句、娼館で小間使いをしていた自分が、どうやったら世界の違う向こう岸に渡れるというのだろうか。
ラウラは驚きに目を丸くして、リヴォフ夫人を見つめた。冗談を言う人ではないだけに、どう受け止めていいか困惑し、目の前がゆらゆらと霞むような気がした。