第五話/ Diamant brut
ようやく屋敷での生活にも慣れたころ、ラウラへの英才教育が始まった。それは座学だけでなく、朝起きてから就寝するまで、上流階級の生活を身に着ける訓練でもあった。
後継者になる決心は、いまだ最後の一線で踏みとどまっている状態だったが、ラウラが今後どのような道を歩んでもいいように、自分が生きている間に全てを与えたいというのが大老の願いだった。
もとよりラウラは勉学に興味があり、人並み外れて頭の回転が速い。学ぶこと自体はやぶさかではなかったが、生活習慣や言葉に関しては、まるっきりの庶民であった。しかも黒蝶館で暮らした2年のうちに、淑女にあるまじき知識をあれこれ身に着けてしまい、それらを矯正することに最も力を費やした。
「ラウラ、上目遣いはおやめなさい。まるで媚びを売っているようです。それと、自分のことは『あたし』ではなく『わたくし』です」
ピシリと叱責され、ラウラの身が引き締まる。マナーや生活習慣、バクリアニ王国の貴族系譜など、淑女教育を担当するリヴォフ夫人は、シャオ大老の古い知人であり、屋敷の外から招く唯一の教師であった。
彼女は月に一度、家紋のない小さな女性用の馬車でやってきて、一週間泊まり込みでラウラを指導する。その間、ラウラの気の休まるのは寝ているときくらいであった。
「どこかの格の高い貴族のご隠居様だって聞きましたけど、近寄りがたい方ですよね。隙がないっていうか、背中に棒が入ってるみたいです」
ラウラの髪を結いながら、リーザがリヴォフ夫人を評する。教育が始まった当初、ラウラも素性を尋ねてみたことがあるのだが、
「貴女の勉学には関係のないことです。余計なことに頭を使う余裕があるのなら、手紙の季語のひとつでも覚えたら如何です」
と、取り付く島もなかった。彼女は大柄で骨太く、もう60歳近いと思われるが、その年齢にも関わらず、背筋をぴんと伸ばしてきびきびと歩く。少し古めかしい襟元の詰まったドレスのせいか、まるで学校長のような貫禄を醸しだしていた。
「御者と侍女も、口が固いんですよ。離れから出てこないし、謎のご夫人ですよね」
ドロテは別方面から攻めたようだが、徒労に終わった。ちなみに離れというのは、母屋の塀の外側に設えられた、ゲスト用の建物である。母屋の敷地へは滅多なことで外部の者を入れないため、通常の来客は離れで接待する。リヴォフ夫人の一行は、滞在中は離れに起居しており、ラウラの勉強も客用の応接間で行っていた。
リヴォフ夫人の教育は、非常に厳しく骨の折れる科目であったが、若く賢いラウラは彼女の教えを驚くべき速さで習得し、蕾がこぼれるように淑女の風格を備えていった。10歳を過ぎたころのラウラを見れば、元は孤児だったなど、誰も想像できないだろう。
また、屋敷の面々もそれぞれ得意分野でラウラの教師となった。
ヤンはユマ国の言葉を教えてくれた。話すだけでなく読み書きまで、実に彼らしく几帳面で丁寧に、そして辛抱強く面倒を見た。その甲斐あって、ほぼ2年も経つ頃には、ラウラはすらすらとユマ語を喋るようになった。
これは、ラウラが子どもの柔軟性を発揮したこともあるが、周囲にユマ国人が何人もいるため、耳で正確な発音を聞いて覚えたことが大きかった。やがてラウラは大老やヤンと話すときは、ユマ語を使うようになった。そしてそれが彼女の語学習得にさらなる拍車をかけた。
「目をつぶって聞いていると、まるでユマ人と喋っているようです」
最終的には、ヤンにそう言わせるまでラウラのユマ国語は上達した。同時に読み書きも覚えたラウラは、ユマ語で書かれた歴史書や医学書などを読み漁り、ユマ国の知識階級並みの情報量をその頭脳に蓄えた。
リーザからは、ダンスを習った。彼女は下級貴族ではあったが、親の見栄で一応の社交教育は施されていた。中でもいちばん得意だったのがダンスで、女性のステップだけでなく、男性のステップも上手にこなしてラウラをリードした。
「久しぶりに踊りましたが、楽しいですね。とうとう舞踏会で踊ることもなく貴族ではなくなったので、また踊れるなんて思いもしませんでした」
にこにこしながら踊るリーザを見ていると、ラウラまで幸せな気持ちになった。お陰で、暇さえあれば娯楽としてダンスに勤しみ、すっかり基本のステップは身についた。お披露目する機会があるかどうかはわからないが、もしもの時があっても恥をかかずに済みそうだ。
そんな中、普段は欲のないラウラがおねだりしたものが、ひとつだけあった。それはピアノである。
黒蝶館でマリスから習い、楽譜も読めるようになっていたので、腕を鈍らせるのが嫌だった。大老は直ちに王都の楽器店にピアノを注文し、ラウラが奏でる音色がシャオ家の屋敷に響くようになった。
音楽は床から出られない大老の慰みにもなったし、ユマ国の曲を奏でると、ヤンがじっと思い出を反芻するように聴き入っているのが印象的だった。意外なことにリヴォフ夫人もピアノが好きで、何冊も楽譜をラウラに与え、時には自らも演奏してくれた。ラウラは音楽を愛した。ピアノを弾いている時だけは、ただ音に没頭して無心になれた。
しかし、なんと言ってもラウラにとって、主力となった学問は、薬学と医療であった。もとから薬草には並々ならぬ興味があった。王都の薬店で混ぜものを見破ったのも、植物図鑑を読んで覚えていたからだ。
そんなラウラはティティのもとで、薬草園の管理から手伝うようになった。効能を知る前に、どのような植生かを学ぶべきだと考えたからである。
広いといっても敷地内にある畑なので、大老の解毒剤と王都の薬店に卸す少量しか収穫できないが、それでもラウラにとっては新発見の連続であった。いつか山に分け入り、天然の薬草を採取するのがラウラの夢である。
さらに、育てた薬草を薬にする勉強もした。それを人体にどう作用させるか、医療と同時進行でラウラは貧欲に学んだ。これは、ティティにとっても大変に嬉しいことだった。
自分で背負った罪とはいえ、医師として一般の患者を診ることは叶わなくなった。しかしラウラに知識を与えることで、再び医療や薬学に向かい会える時間ができたのだ。やがてティティはラウラを助手につけ、新薬の開発に着手した。
「無味無臭の毒は、植物だけでなく動物性のものも結構たくさんあります。しかし、天然毒は効能が失われるのが早い。空気に触れると効き目がどんどん落ちます」
「でしたら、空気は最高の解毒剤ではないですか」
「その通りです。ただし体の中に空気はないので、取り込んでしまった毒には効きませんね。ですから旦那さまには、解毒でなく緩和治療が必要なのです」
研究内容は、シャオ大老の症状を緩和する薬である。毒はもう抜けているが、毒で受けた内臓の損傷が命を脅かしている。その炎症を薬で抑えながら、なんとか小康状態を保つのが精いっぱいなのだそうだ。ラウラはどうにか大老を回復させようと、学術書と首っ引きで勉強を続けた。
「うちには優秀な医者が二人もいるから心強いわい」
朝からラウラが薬湯を持って診察に行くと、大老は嬉しそうに笑ってくれた。たまに熱が出たり吐いたりすることもあるが、ティティから正しい看護術を習っていたため、まるで熟練の看護師のように手際よく大老の世話を焼いた。
そのうちラウラは、風邪や便秘などの薬なら、一人で処方できるほどの腕になってしまった。患者に問診し、症状の原因を見抜く才能もあった。薬師の腕があっても見立てが苦手な人間は、良い結果を出せないことがあるが、ラウラはその点で傑出していた。
「素晴らしいです。王都で薬屋が開けますよ」
お世辞ではなく、ティティが手放しで褒めるほど、ラウラは薬学の才があった。あの気難しいリヴォフ夫人も、ラウラの診察により胃痛の薬を処方され、効き目が良かったので毎月自宅に持ち帰っていた。
こうして、ラウラはまるでダイヤモンドの原石が磨かれるが如く輝きを増して行った。この英才教育は彼女が12歳になるまで続き、リヴォフ夫人が
「そろそろ、どこに出しても恥ずかしくない程度に仕上がりましたね」
と太鼓判を押したことで、大老の最後の計画が動き出した。シャオ大老がラウラを養女にして約4年、リヴォフ夫人と共に密やかに温めてきたものだが、数カ月前にこの屋敷で起こったある事件によって、実行の幕が早々に切って落とされたのである。
※見出しの「Diamant brut」とは、ダイヤモンドの原石を意味するフランス語です。