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悪夢と祠と

 それから二、三日ほど経った昼下がり、通信販売で注文を受けた本の発送を終え、中央郵便局前のパーキング・メーターからライトバンを出そうとした真樹啓介は、ふと、局の出入り口のあたりに、見覚えのある人影があるのに気づき、窓から身を乗りだして頭上のカンカン帽を振ってみせた。相手は、どこからかの往診の帰りらしい、坂東医師であった。

「やあ、真樹さん。出荷終わりの帰り道ですか」

 白衣の襟へはみ出した、開襟シャツのカラーを指でなおしながら、坂東医師が真樹へ尋ねる。

「そんなとこです。量が多かったもんで、車庫からこのオンボロを出してきたんです。よかったら乗っていきませんか。今日はこれが済んだら店じまいなんで、暇なんですよ」

「よろしいんですか。じゃ、お言葉に甘えて……」

 誘いに乗った坂東医師を助手席に乗せ、かかりの悪いスターターを二、三度回してどうにか発進すると、真樹の運転するライトバンはゆっくりと、昭和通りの電車道を南に向かって走りだした。

「どっかの子供が、アイスの食べ過ぎでおなかでも下しましたか」

「まさか! 患者は大の大人ですよ。……ただ、ちょっとばかり気になることがありましてね」

「気になること?」

 前方の赤信号に気付いて、効きの鈍いブレーキを踏みこむと、真樹は隣に座った坂東医師に、

「まさか、この前のあの患者さんとかじゃあないでしょうね。ほら、大沢さんとかいった……」

 と、座った声で質問をぶつけるのだった。しばらく、坂東医師はアイドリングの音を背にだまりこくっていたが、やがて軽い溜息をつき、

「……真樹さん、どうも今度の一件は、僕のような医学者の領分ではないような、そんな気がするのです。ひとつ、お話を聞いていただけませんか」

 若い友人に、ひどく弱り切った両の目をロイド眼鏡越しにのぞかせるのだった。

「断る理由がありませんよ。先生とはずいぶん、いろんな目に遭ってきましたからね」

 目の前の信号が青に変わったのを見ると、真樹は派手にアクセルを踏み込み、手慣れた調子でギアを切り替えながら、裏通りに面する坂東医院の方へハンドルをさばくのだった。

「――休診のところを呼び出されたので、何かと思いましたがね。電話越しに奥さんから聞いてみると、どうもただならない様子だからすぐに来てほしいということで、慌ててタクシーを拾ったんです」

 普段ならかしましく動き回っている看護師たちもおらず、いたって静かな坂東医院の二階、小さなバーカウンターのついた応接間のソファに身を預けながら、坂東医師はストローを差した瓶入りのウーロン茶を片手に、つい先刻の出来事を真樹へと話し始めた。

 坂東医師の話は、ざっとこのようなものだった。

 九時少し前、大沢の妻からの電話で自宅へ呼び出された坂東医師は、大沢が急に顔を青くして倒れ込み、荒い息をしているという話を聞き、軽い診察を行った。そして、軽いショックを受けて血圧が低下していると見るや、大沢をそばの籐椅子へ座らせて、手際よくカンフル剤の注射を行うのだった。

 どうにか効果が現れ、顔に赤みのさしたのを見届けると、坂東医師は大沢の妻に、いったい何があったのか、少し離れた場所でそっと尋ねた。

「――それが、よくわからないんです。植木鉢の朝顔へ水をやっていたと思ったら、急になにかブツブツ言いだして、そのまま倒れ込んでしまって……」

「奥さん、どうやらまだ、ご主人は悪夢からお目覚めではないらしいですよ」

 話を聞きながら、遠くで大沢のうめくような呟きの漏れてくるのに気づいた坂東医師は、ふすまの影からそっと、大沢の妻ともども様子をうかがった。

「……悪かった、ヨウちゃん、コンちゃん、メイやん……おれが悪かった……」

 しまいには目から涙のあふれるのを見て、耐えきれなくなった大沢の妻は主人の元へ駆け寄ろうとしたが、カンフル剤を打った直後はあまり刺激を与えない方がよい、という坂東医師に制され、その場へへたり込んでしまった。

「奥さん、今出たようなニックネームのお方、ご主人のお知り合いでお心当たりはありませんか? たとえば、同期入社の特に仲がよい人だとか、定年間際の付き合いの方だとか……。失礼ですが、なにかショックの引き金になるようなことはご存じじゃありませんか」

「さあ、私は一向に……。あ、でも」

 おろおろしきりだった大沢の妻が、何かを思い出して坂東医師の方を向き直る。

「先生、良人(たく)から聞いておりませんかしら。この頃、子供のころのことを思い出して夢を見るって……」

「ええ、存じております。……そうか、その時離れ離れになった友達の……!」

「そうじゃあないでしょうか。――あんなに悲しい顔をしているのは、初めて見ました」

 下手に揺さぶって起こすわけにもいかず、坂東医師と大沢の妻は、夢にうなされる大沢の寝姿を、遠目でじっと眺めているよりほかになかった。

 そのうちに、十分ほど経って大沢が目をしばつかせたのを見ると、坂東医師はそばへ駆け寄り、こちらの声が聞こえるかどうか呼びかけたり、瞳孔におかしな様子がないか、小さな懐中電灯でそっと診、どうやら心配はないらしい、と大沢の妻へ優しげな顔を向けるのだった。

「あなた、あなた、大丈夫ですか」

 しばらくして、ゆっくりと起き上がった大沢に駆け寄ると、大沢の妻は夫の無事を喜び、うっすらと目元をにじませるのだった。

「――ああ、お前か。なに、大丈夫さ」

「いきなり倒れて、びっくりしましたよ。先生がいらしてくれなかったらどうなっていたか……」

 妻の目線の先にかかりつけ医の姿があるのに気づくと、大沢はしきりに礼を述べた。そして、壁にすえつけた手すり越しに玄関まで出ると、先に妻へ奥に戻るようすすめてから、ふと、坂東医師にこんなことをもらしたのだった。

「――先生、私はもしかしたら、あの世に片足を突っ込みかけていたのかもしれません」

「えっ?」

 一瞬、急に倒れ込んで命の危なかったことを言ったのかと坂東医師は考えたが、それにしては大沢の様子がひどく神妙だったのが気にかかり、口をついて、どういうことです、と疑問をぶつけた。

「いや、なに、年寄りの妙な考えですよ。気になさらず……」

「は、はあ……」

 それ以上追及するような空気でもなく、坂東医師は仕方なく、大沢の家を離れたのだった。

 帰る道々、坂東医師は白衣のすそをはためかせながら、大沢の言葉の真意を考えた。が、なかなかよいものが浮かばずに、いつしか小さな小川の上にかかる、かろうじて車が通り抜けられる程度の道幅の、細い橋の上へと差し掛かった。

「――おいっ、もうちょっとそっちに頼むよっ」

 不意に、橋の下からあがった太い声に、坂東医師は革靴のつま先をアスファルトのざらついた路面にひっかけ、あたりをうかがった。そして、その声の主がお盆の時期に行われる、灯籠流しのための足場を組んでいる、町内の青年団の若い青年だとわかると、坂東医師は白衣のポケットへ右の手を突っ込んだまま、岸辺に打ち込まれる太い孟宗竹の杭や、かんなのかかった、真新しい木材の甘い香りを、のんびり眺めていた。が、そのうちに、

 ――まさか、そういうことじゃないだろうなっ。

 この暑さを忘れてしまうような涼しさにくるまれると、坂東医師は青い顔でその場から走り出し、近くの中学校の前から拾ったタクシーに飛び乗ると、運転手へある地名を告げるのだった。

「――市民会館までお願いしますっ」

 ドアの閉ざされたタクシーは、かげろうの立つ通りの上を、白煙をあげて走り出すのだった。


「僕自身、そんなにあのあたりへ足を運ぶことはないんですがね。最後に行ったとき、真新しい装いの会館に似つかわしくない、くすんだ色をした祠のようなものがあったのを、灯籠流しの支度を見ているうちに思い出したんですよ」

 合間合間に口に含み、すっかり空になったウーロン茶の瓶を片付けると、カウンターへ場所を移し、坂東医師は真樹へ作り置いたアイスコーヒーを差し出しながら、話をつづけた。

「案の定、市民会館の車寄せから降りてみると、駐車場の片隅に祠がありました。で、中を見ると、くすんだ石組みの祠の中に、小さなお地蔵さんが二人、手を合わせていたんです」

「――たしか、むかし事故があって亡くなった子供たちの、慰霊のためのものでしたね。あんな立派な建物ができる前は、機関車庫のすぐ近くにあったそうですが」

 一緒に受け取ったストローを使わず、グラスへ直接口をつけながらアイスコーヒーをなめていた真樹は、こともなげに祠のいわれを語ってみせた。

「ああ、やはりご存じでしたか。で、大沢さんの話と、その祠を見るうちに、僕はちょっと、こんなことを考えたのですよ」

 自分の分のアイスコーヒーを手に持ったまま、坂東医師はカウンターの内側へ置いた小さな椅子へ腰かけ、自説を披露した。

「――大沢さんが実に寂しい別れ方をしたと思った友達は、実は、そもそもこの世のものではなかった。すでに亡くなって、あのあたりをさまよっていた子供たちの幽霊だったんですよ。転勤が多くて、友達らしい友達のいなかった大沢さんは、その子たちに惹かれていったが、運よく、父親の転勤もあって傘岡を離れた……」

「で、その幽霊たちが何十年もたった現代になって、突然、彼の記憶に現れだした……こういうわけですか」

 あまり芳しい反応を見せていない真樹に、そこまで自身満々に語っていた坂東医師も、やっぱり、飛躍しすぎましたかねぇ、と、うなだれてしまった。

「しかし、そうとは言わずとも、何かしら心理的なひっかかりになっているのは間違いないでしょう。でなければ、倒れている間の夢でその子たちのことが浮かぶとは思えない。坂東先生、ひとつあなたにはしばらく、医学者として大沢さんのことを見守っていてくださった方がいいかもしれません。こいつは僕の専門らしい……」

「じゃ、真樹さん……」

 立ち上がった真樹啓介に、坂東医師はロイド眼鏡を直しながら尋ねる。

「なにも僕だって、狐狸妖怪や故事ばかり追いかけてるわけじゃありません。ひとつ、生まれついてのトラブルシュータ―として、大沢さんの悪夢の正体を追いかけてみようじゃありませんか」

 そういって、グラスの中身を飲み干すと、真樹は坂東医師と固い握手を交わしてから、調子の悪いライトバンのスターターをまわし、坂東医院を離れるのだった。


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