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六人の友達

「――ねえ真樹さん、あなた、子供のころに思いがけない別れ方をしたような友達はいたりしますか」

「どうしたんです先生、そんなこと聞いて……」

 季節外れの燗酒が入った徳利を握ったまま、真樹啓介は向かいに座った友人、開業医の坂東祐太医師のちょっと戸惑ったような表情を、穴の開くように眺めていた。町の名物である傘岡の大花火大会が終わり、あとはお盆休みを迎えるばかりとなった八月のある日の夕方、行きつけの個室居酒屋での一コマである。

「――ごめんなさい、やっぱりこの質問は止しておくんでした。刺身がぬるくなります、早いとこ食べちゃいましょう」

 オールバックに撫でつけた前髪に、裸電球のまばゆい明かりを反射させながら、坂東医師は注された熱燗を猪口で受け取り、ひと息に飲み干してからはぁ、と深く深呼吸をしてみせる。それからしばらく、二人は黙々と箸を使っていたが、

「察するところ先生、何か変わった出来事でもあったんですね?」

 盛り合わせの赤身を肴に一杯やっていた真樹がぼそりとつぶやくと、坂東医師は額を撫でてから、

「――ハハハ、やっぱり真樹さんに隠しごとは出来ないなぁ」

 と、笑って真樹の手元へ熱いところを注いでやるのだった。

「長い付き合いですからね。何かあったな、というのはたいてい察しがつきますよ。で、いったいどうしてまた、そんな質問を?」

「真樹さん、実は昼間に、こんなことがありましてね……」

 ひと口含んでから、箸をおいておもむろに口を開いた坂東医師は、真樹を前にして、昼間の出来事をぽつり、ぽつりと語りだした。


 午前の部の診察も終わりに迫ったころ、坂東医師は鼻かぜの治った老婦人を玄関先まで見送ってから、ふと、あることを思い出して、受付の小窓越しに看護師たちへこんなことを尋ねた。

「そういえば、大沢さんが見えないね。たしか十一時半の予定だったでしょう」

「――ああ、それならちょうど今電話がありましたよ。家を出る間際にごたごたがあったとかで、ちょっと遅れるそうですって」

 健康保険関係の書類へ目を通していた、一番年長の看護師が慣れた調子で伝えると、坂東医師はひっくり返しかけていた「只今休憩中」という札を元へ戻し、大急ぎで診察室の机に向かい、用意してあったカルテをめくりだした。

「……大沢さん、前と特に変わりはないと思うんだがなぁ」

 午前最後の患者は大沢という温和な紳士で、定年退職ののち、老妻とゆったりした日々を過ごしている、絵にかいたような悠々自適の老後を送っている人物であったが、彼も寄る年波にはさすがに勝てず、こまごまとした体の不調を見てもらうべく、こうして坂東医師の元へ通っているのだ。

「――先生、お見えになりましたよ」

 若い看護師の言葉にカルテを閉じると、坂東医師は襟を直し、診察室へと通されてきた大沢を、いつものような柔らかいほほえみで出迎えるのだった。

 診察そのものは淡々と進み、このところの暑さでやや寝不足気味だという大沢に、なるべく水分をとってから眠りにつくよう伝えると、坂東医師はもう午後まで患者の来ないのを幸いと、他愛もない世間話をメモ書き片手にしはじめるのだった。

「――ほう、先生は将棋もお差しになるんですな」

 坂東医師が麻雀好きだと話していたのを思い出し、大沢が関心してみせると、

「といっても、これがとんだヘボ将棋でしてね。この前なんか、知り合いの高校生の子と一局やって、物の見ごとに負けてしまいました。いくら好きとはいっても、勝てないんじゃあなんだか張り合いがないでしょうね。ひょっとすると、お情けで付き合ってもらってるのかもしれませんよ」

 坂東医師は襟足を掻きながら、恥ずかしそうに笑ってみせる。

「まさか! 先生ほどのお人をそんな風に見る人はいないでしょう」

「だといいんですが、その子に限っては割合、年の割にドライな面もありましてね……まあ、賭け金なんかがないのが幸い、というところです」

 そこで話にくぎりをつけると、坂東医師は診察室と受付の部屋の間にある、小さな窓越しに処方箋の書付を渡し、また何かあれば来るように、と大沢へ告げるのだった。

「案外、寝る前に一勝負、奥様となさるとぐっすり眠れるかもしれませんよ。いろいろと考え事をしたりして、寝付けないうちに水分が抜けていく……ということもありますから」

「はは、それもいいかもしれませんなぁ。ただ……」

 それまで陽気な調子だった大沢が急に表情を曇らせたのを見て、坂東医師はおや、と身構えた。いちおう、大沢夫人も坂東医院をかかりつけにしている一人なのだが、もしかすると、何か体調が優れずに、どこかの大学病院にでも入っているのではなかろうか……。気軽に話を振った自分の甘い判断を、坂東医師はひどく悔いた。ところが、

「家内は付き合ってくれるでしょうが、それでもどうも、わたしゃよく寝付けないようなきがしてならんのです。――先生、もうちょっとばかり、話を聞いていただけませんかな」

 どうも風向きが見当違いのほうに向いているのに気づくと、坂東医師は椅子へ腰かけるようすすめ、日ごろ雑多なメモ書きなどをまとめてある、フールス紙の大学ノートへペンを走らせた。

「わたしが国鉄、いまのJRの職員だったのはご存じだと思いますが、うちの父親も定年まで国鉄づとめでしてね。戦前の、まだ鉄道省と言った時分の入省ですから、わたしの年もばれようというもんです。おかげで、仕事の都合であっちこっち、ずいぶんと引っ越しましたよ。実は、小学校のころにほんの半年ばかり、傘岡にいたことがありましてね」

「あ、それじゃあ大沢さん、根っからの傘岡育ち、というわけではなかったんですね」

 いわれてみれば、大沢の言葉には並の人間なら多少は出る、お国訛りのようなものが感じられない。物心つく前から各地をまわったりしていた人にまれにある、言葉の平坦化というやつらしいと坂東医師は納得しながら、しきりにペンを走らせた。

「――本籍は北海道で、戸籍の出生欄には傘岡のかの字もありません。JRになったとき、籍を置いていたのがいまの東日本管区だったので、その流れで定年後に、傘岡で家を買って、のんびりしとるというわけです。そのころから大概栄えた街でしたが、ここ十数年はなかなか目を見張るものがありますね」

「大沢さんの子供時代となると、まだ傘岡駅の南に、大きな操車場があったころじゃありませんか。インターン時代に父が、入れ替え中の貨車から落ちた係員の手術をした話、何度か聞いたことがあります」

「まさにその時期ですよ。いや、今にして思うとなかなか危なっかしいことを平気でやっていたんですなあ」

 今でこそ、貨物列車というのは東京ゆきなら東京方面ゆきの荷物だけ、大阪ゆきならその方面への荷物だけが積まれて運行されているが、昔は一つの貨物列車にさまざまな場所――それこそ九州ゆきから大阪ゆき、仙台ゆきに名古屋ゆきと様々な具合で――へ向かう貨車がつながれていて、それを途中の駅でばらばらにして、その方面へと向かうよう整理する「入れ替え」という作業が必要だった。

 そのための作業を省力化するため、日本では長らく、貨物操車場の端に作られた人工の坂、ハンプから貨車を自重で走らせ、それに係員が飛び乗って足でブレーキペダルを踏んだり、あるいははしごの上に置かれたブレーキハンドルを回して速度を下げ、貨物列車の組み換えを行っていた。

 が、当然、走っている貨車から落ちて足を失ったり、命を落としたりする者も多く、貨物輸送の近代化に伴い、昭和六十年を前に日本ではハンプ・ヤード式の貨物列車は姿を消し、必要のなくなった操車場の跡地は、各地では駅前の再開発の格好の舞台として変貌を遂げたのだった。例にもれず傘岡の街にあった国鉄・傘岡南操車場も、今では往年の姿形は微塵もなく、市民の交流施設「傘岡市民会館」と、隣接する小規模なスポーツセンターへと変貌を遂げている。

「やあ、どうもわき道にそれていけませんな……。で、小学生のころ、ほんの少しばかりこの傘岡にいたときなんですが……」

 そこまで調子よく話を紡いでいた大沢の口が重くなったのに気づいて、坂東医師はペンを止め、そっと様子をうかがった。

「国鉄の社宅からほんの少し歩いたところが、例の操車場だったんですがね。あの頃は戦災復興の時期で、貨物量の特に増えたころでしたから、もっと貨車の置き場が入用だと、ひっきりなしに工事をしていたんです。そのための砂利が積んである場所を、私たち子どもは『ジャリ畑』と呼んで、よく遊び場にしていたもんです」

「砂利が積んであるとなったら、子供の背丈じゃあ相当な高さでしょう。よくけが人が出ませんでしたね」

 手で子供の背丈はこれくらい、とでも言いたげなジェスチャーをしながら、坂東医師が驚いた顔をしてみせる。

「ハハハ、まあ、かすり傷くらいならあったでしょうが、それで騒ぐような時代じゃありませんでしたからな。私だって大なり小なりのかすり傷はこさえましたよ。で、そのころの私には、同じくらいの年頃の、仲の良い友達が六人いましてね。毎日のように、学校から帰るとジャリ畑で落ち合って遊んだものです。地区割りの関係で、私は学校がその子たちは違いましたから、いわば、放課後だけの友達、というわけでしたな……」

「そういえば、あの辺りはちょっと前まで、小学校がもう一つありましたね。今の少子化のご時世とはずいぶんな違いがありますね」

「ええ、あの頃はずいぶんにぎやかでした。毎日のように、その子たちとあのジャリ畑でかくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたりしたもんです。ところが……」

 そこで、再び大沢の表情が曇ったのを見て取ると、坂東医師は眼鏡を直し、なにかあったんですか、とおもむろに尋ねた。

「そんな折に、父の転勤が急に決まりましてね。九州のほうへ明後日には出る、ということで、遊びに行ったついでに、その子たちに別れの挨拶をしようと思ったのです。ところが、わたしにはその別れがつらすぎて、その子たちとのかくれんぼの最中、とうとう臆病風に吹かれて、家に逃げ帰ってしまったのです。さすがに、夜になって冷静になるうちに、これはきちんと謝りに行った方がいい、と思ったのですが、悪いことにその日からしばらく、ひどい雨で外には行きようがなかったのです。その子たちの家も知らないから、会うにも会えず、結局、私はそのまま、挨拶もせずに傘岡を出て行ってしまったのです。

 もちろん、そのことはしばらく尾を引きましたが、さすがにもう何年もたてば忘れてしまいます。そう思っていたはずなのに、この頃よく、そのころの夢を見るようになりましてね。投げ出してしまった、かくれんぼのことを……」

「なるほど、それでよく寝付けない、とこういうわけでしたか。こんなことを言っては何ですが、人間、そういう苦い思い出が、忘れたころに夢に出てきたりすることはよくあるものです。こうやって、人に話してみれば、少しは苦しみが軽減されることもありますから、きっと今夜あたりはよく眠れるんじゃあありませんか」

 気軽に言ってはみたものの、坂東医師も内心、穏やかではなかった。子供のころの苦い思い出というのは、案外尾を引くもので、百戦錬磨の営業マンであった人物が、ほんの六つのころの些細な出来事があるときぶり返し、すっかり気弱になってしまった、というような話は、医学の世界にはごまんと転がっているのだ。

「僕でよければ、また何かあればお話は聞きましょう。それこそ、電話をよこしてくださってもかまいませんから……」

 大学ノートを閉じて大沢のほうへ笑顔をみせると、それにつられて、大沢もいくらか気がまぎれたのか、坂東医師にしきりに礼を述べると、そのまま軽い足取りで医院をあとにするのだった。


「――というようなことがありましてね。その時はまあ、丸く収まったわけなんですが、今になってちょっと、軽い調子で言い過ぎたんじゃあなかろうかと、自責の念に駆られておるわけなんです」

「ははあ、そういうわけでしたか」

 話を終えた坂東医師が猪口の中身を飲み干すと、真樹は腕を組み、まあ、悪いことはしてないでしょう、と、まじめな性格の年上の友人をしきりに慰め、新しい酒を注すのだった。

「先生はいたって普通の、職業的良心からそういう話を持ち掛けたわけです。なにか腹に一物抱えて……というわけじゃないんだ、なにを怖がる必要があります」

「真樹さん、あなたのおっしゃる通り、まったくその通りのはずなんです。ただ、なんだか今日に限って、そのことがひどく気にかかるんです」

 軽く熱燗をなめたきり、再び沈み込んでしまった坂東医師へ、真樹はしばらく考え込んでから、

「……真夏の憂鬱、というやつですかなあ」

 と言って、通りがかりの店員に追加の注文を命じるのだった。

「なんです、それは」

 聞きなれない言葉に坂東医師が不思議がると、真樹啓介は少し座りなおしてから、滔々と言葉の次第を語って見せた。

「――朝の早いうちからセミの鳴き声や強い日差しに起こされる。歯を磨いていると、どっかの公園でラジオ体操をしている子供たちの声が聞こえる。日が高くなればこんどは、子供たちが外ではしゃいで、プールあたりで遊んで帰ってくるような声もする……。実に平和な、活動的なシーズンのはずなんだが、そんな時期だというのになぜか、ひどく気分の沈むこともある。だもんで、僕はそういう風になる人に、そりゃあ単なる『真夏の憂鬱』だろうというようにしてるんです。で、そいつにはとっておきの特効薬がありましてね」

「いったいなんです、その特効薬というのは……?」

 身を乗り出す坂東医師に、真樹はちょっと真面目な顔をしてから、そばへ大皿を抱えて現れた店員の姿を一べつするなり、こう言い放つのだった。

「――大いに吞み、食べ、騒ぐこと。これに勝る特効薬はなし、とでもいうべきか……」

「ハハハ、なるほど! そういえば、しばらくぶりでしたからね、こうして一緒に飲むの。ひとつ大いに楽しもうじゃありませんか」

 そういって、改めてお互いの手元に熱燗を注ぐと、二人はお互いの健康のために、と高々掲げた猪口の中身を、一息に胃へ落とし込むのだった。

 粘るような、昼の暑さを残した風が軽く流れる、ある晩のことである。


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