【純文学】コロコロ神田川
人を避けて歩くのが上手くなった。
東京の駅構内を移動しながら、佐古狼助は自嘲した。
行き交う人々にぶつかることなく、流されることもなく、彼は駅を出て、タクシーを拾った。
「出張ですか?」
「……ええ、そうです」
運転手の質問に、素直に答えることはできなかった。
コロナウイルス全盛のご時世、仕事以外の理由で都道府県をまたぐなど、歓迎されるはずもないと考えたからだ。
私服が少ないため、なんとなくスーツ姿で上京したが、結果的に正解だった。
さりげなく話題を変えるように、佐古は、
「東京は変わりましたね」
「いやぁ、変わらないですよ」
「そうですか? 前に来た時より、人がおらん気がしましたけど」
「まあ、ね。人は減ったかもしれませんね。あの……テレワーク……だっけ? それが流行ってるみたいだし、夜遅くまで開いてる飲み屋もないですしね。まあ、でも、それだけです。肝心の中身は変わっちゃいません」
「中身って?」
「んー。何て言うか……人の心、かな。ソーシャル・ディスタンスだなんだと言うけれど、相変わらず満員電車は走ってるし、そんな電車に飛び込むサラリーマンもいるじゃないですか。中途半端なんです。根本的に国を変えようとしてないから、結局コロナが流行る前と同じような社会のままなんですよ」
* * *
かつて佐古が通っていた大学の近くには、居酒屋が多く建ち並んでいる。
もちろん、現在はどこも閉店しているが。
人気の少ない景色をコロコロ太った満月が照らす。
佐古はそこに数年前の面影を探そうと目を凝らした。
「あの頃は……何もかも輝いてたな」
ただそこが東京というだけで。
だが、今なら、別の感想が思い浮かぶ。
「東京なんて大したことないな」
声をかけられたのは、その時だった。
「お前、変わったな」
「あ……」
懐かしい声の響きに、思わず、気分を高揚させた……も束の間。
佐古は激しい動揺に見舞われた。
そこに立っているのは旧友・柊小次郎。
面影はある。
ひと目で彼とわかる。
それでも、思わずにはいられない。
「あんたも変わったな」
前向きなニュアンスではない。
くたびれた身なり。
やつれた表情。
柊は明らかに変わってしまっていた。
だが、それより気がかりなことがある。
「あんた、しんどいん? 咳しとるやん」
「懐かしいな、お前の関西弁」
「はぐらかすなや。まさかコロナに感染しとんやないやろね?」
「平気だ。病気になってる場合じゃねぇからよ」
「わけわからんわ。そもそも、マスクしてないんもおかしいやんか。品不足で買えてないん?」
「商品を無駄にするわけにいかねぇだろ」
柊はそれ以上の質問を許さず、歩き始めた。
後に続く佐古があれこれ問いかけても、返事はない。
案の定、道行く人から、
「マスクしろよ、カス!」
などと凄まれることが何度かあった。
柊は俯いたまま歩き続け、それを相手にしない。
代わりに佐古が謝り、適当に言い訳し、どうにかやり過ごした。
━━おかしい。
佐古は眉をひそめる。
かつては自信に満ち溢れ、マナーとルールに従順で、しかし、主張すべきことははっきりと主張する気持ちのいい学生だった。
服装だって、かつてはおしゃれに余念がなかった。
それが今ではよれよれの服。
あまりにも変わってしまっているではないか。
変わらないところと言えば、
「この国はどんどん終わりに近づいてるぜ。このままじゃダメだ。今、変わらなきゃいけねぇ。政治を正すんだ」
ふわっとした信念。
佐古は不安に駆られる。
━━柊、この数年の間に、あんたに何があったん?
* * *
佐古は大阪の出だ。
わざわざ高校卒業後の進路を東京に定めたのは、自由を求めたから。
「佐古くんってトランスジェンダーなの?」
問われるたびに苦笑する。
性的少数者の存在が知られるようになってきていることは喜ばしいこと。
その一方で、いや、だからこそと言うべきか、ただ自分のしたい格好をしているだけという立場に、居心地の悪さを感じてしまう。
長い髪。
スカート。
メイク。
どうしても、それらは女性の符号として映ってしまう。
「お前、かっこいいじゃん」
心を掴まれる瞬間は、突然、訪れた。
2年生の折り、教養科目で、偶然となりに座った人から声をかけられた。
冷やかしの可能性も考えられたが、彼の表情に侮蔑の色はなかった。
「メイクって独学?」
「んー、まあ、ね。YouTubeとかで」
「あ~。YouTubeって何でもあるもんな。ってか、何学部? 何年? 名前は? 俺のこと知ってる?」
「知らんね……」
柊小次郎。
そう名乗った学生は、佐古とは同学年ながら、学科が違うため、それまで出会うことがなかった。
凛々しい眉毛。
明るく染めた髪とツーブロック。
学生にしては高級そうな服装。
チャラいような真面目なような柊のどこかに、佐古は気高さを感じた。
「お前は今日、俺を知った。すっげぇついてるぜ。なんせ、俺はいつか有名になるんだからよ」
「芸能人とか目指しとん?」
「政治家」
柊は自信満々で答えた。
* * *
都会は田舎よりも多様性に寛容。
これは間違い。
都会の人間は他人に無関心。
これも間違い。
正確に言えば、人は他人の目を恐れている。
ただそれだけのこと。
佐古がそれを身を以て理解したのは、ありたい姿で生きられる喜びを全身で感じたくて、都内のあちこちを散歩していた日のこと。
誰からも笑われることがない。
これこそ都会の長所だと感動していた。
だが、人気の多い繁華街から、人気の少ない裏通りに差し掛かったところで、過酷な現実に襲われた。
「きもー!」
ぎょっとした。
━━私のこと? でも、ここは東京やんか……。
気を取り直し、堂々と歩き続けた。
「男でしょ?」
前を塞がれた。
「男の骨格だから、女の子には見えないねー」
退路を絶たれた。
要するに、2人の若者に絡まれたわけだ。
それ自体は故郷で経験していたことだから、免疫がある。
問題は、ここが東京だということ。
信じきっていた存在に裏切られ、佐古は激しく動揺していた。
罵倒されるがままで、逃げることも言い返すこともできない。
相手は巧妙だ。
決して暴力は振るわず、侮辱とは断定できない言葉を用いて佐古をからかう。
「男なら男らしい服を着てればよくね? なんでそうしねぇの?」
「きみ、ガタイいいから、普通にパンツとかタンクトップとか着てればかっこいいと思うよー?」
佐古の心が限界を迎える寸前だった。
「お前らはかっこよくねぇけどな」
どこからともなく颯爽と現れたのは……
「政治家になりたいやつ」
「柊、な」
服の上からでもわかるほど盛り上がった筋肉。
堂々とした立ち居振舞い。
いかにも強そうな柊を見て、不良2人は威勢を失った。
「何? ホモ?」
「そうだぜ」
相手の挑発をたやすくかわし、柊は佐古の肩に手を回して、
「俺の男にちょっかい出してんなよ」
そのまま佐古を引っ張って行った。
* * *
必死で抑えていた涙が溢れたのは、神田川に架かる橋を渡っている途中だった。
道行く人々は佐古を一瞥すれども、決して声をかけることも笑うこともない。
混乱。
決まりの悪さ。
怒り。
感情がごった返して、整理できない。
そんな佐古の肩を、柊は優しく抱いて、
「人間って弱いんだよ。不特定多数の人に見られてるところじゃ、借りてきた猫になってる。悪さしたら、自分が批判されるからだな。でも、人の目が届かねぇところじゃ、やりたい放題だぜ」
「……東京なら、こんなことないと思ってた……」
「どこに行ったって、人間性が変わるわけじゃねぇ」
「悔しいよ」
「安心しろ。このくだらねぇ世界を俺が変えてやる」
政治家になるからな……と、柊は胸を張った。
「……」
「おい、何か言えよ」
柊には地盤がない。
看板もない。
鞄もない。
「コネは?」
「それもねぇな」
つまり、何もない。
「そんなこと、言われなくったって、わかってるっつーの。でも、しょうがねぇだろ。有名になるのも、資金を稼ぐのも、簡単じゃねぇんだから」
「……検索したら?」
「何を?」
「『政治家 なり方 簡単』とかで。YouTubeなら、いい感じの動画もあったりして……あっ」
「ん?」
「YouTuberになればええんやない?」
YouTuberになれば、有名になれるし、お金も稼げるのではないか?
ほんの思い付きだった。
だが、柊は目を丸くして、
「お前、天才じゃんか!」
一瞬で、その気になってしまった。
「よし、今日から始めるぞ!」
「えぇ……。あんた、そんな気軽に━━」
「取りあえずチャンネルとTwitterの告知アカウントは作ったぜ」
「早すぎるやろ」
「じゃ、これから企画会議しようぜ」
「私も? いや……私はやらんよ?」
話すのが得意ではないから、という理由で。
だが、柊は引かない。
「得意不得意なんて、関係ねぇよ。やらなきゃ、変わらねぇ。なら、やるしかねぇだろ」
「……いや、けど……私、Twitterのフォロワー、12人しかおらんし」
「見ろよ、佐古」
柊は神田川を指した。
「このしょぼい川は、いつかでっけぇ海に流れるんだ。俺達もいつかは……」
佐古がYouTuberになる決意をしたのは、大物になりたかったからでも、世界を変えてやろうと意気込んだからでもない。
ただ、隣にいる男の親切な行為に、報いたかったからだ。
一筋の涙が、佐古の頬を伝って、そして、川に落ちた。
* * *
「コロコロ神田川、今日からYouTube始めます!!」
チャンネル名は「コロコロ神田川」。
これは、2人の名前━━佐古狼助と柊小次郎━━の中から共通する音を取り出し、そこに夢を誓った場所を足したもの。
「えー、このチャンネルでは、世の中をより良くするために、色々とメッセージを発信していけたらなーと思います」
「ふわっとしすぎちゃう?」
「で、一発目の企画なんですけど、ハンバーガーをドカ食いします」
「おかしいやろ」
政治的主張を喋るだけでは面白くないので、他のチャンネルの企画を真似する方針となった。
「私はモグモグみんなが自分の着たい服をモグモグ着て生きられるような社会がモグモグ」
「政治がモグモグダメなんだよ。俺がモグモグ出馬して国をモガッ……ゲハッゴホ」
「やっぱ、この企画、無理あるて」
駄菓子を大人買いしてみた。
話題のアニメを観た感想。
1週間5・7・5でしか話せない生活。
お酒飲み比べ。
大学生あるある。
佐古のコーディネート動画。
思い付いた企画を片っ端から実行した。
結果、チャンネル登録者数2人。
累計コメント数3。
コメントの中身は、
「つまんね」
典型的な泡沫チャンネル。
状況を打開するために、まずは大学構内で、学生に声をかけた。
「俺らYouTubeやってんだ。登録してくれよな!」
「もしよかったら、Twitterのフォローもお願いします」
だが、冷ややかな反応が返ってくるどころか、ただただ無視されるだけであった。
過密地域に特有の「他人と関わろうとしない姿勢」が、ここでは仇となった。
残された手段は……
「炎上?」
それが柊の口癖になってしまった。
「最悪やで、そんなん」
「取りあえず30人は殴る」
「やめや」
「でも、炎上でもしねぇと、注目されねぇだろ」
「社会を良くするためにやっとんのに、社会に迷惑かけとったら、本末転倒やん。……ねぇ、自分が言い出しといてなんやけど、私らにYouTubeは向いてないんやないかな」
「……」
「……どうすんの?」
「まあ……諦めたくはないかな」
そう言われれば、佐古には頑張る選択しかなかった。
━━柊のために、もうちょっと恥かいたろか。
腹を括り、佐古は母親に電話をかけた。
「あ、もしもし? 私よ。あんな、お願いしたいことがあってな、いま私YouTubeやっとんやけど……知っとる? やったら、あれチャンネル登録して、近所の人とかに━━」
《やめてほしいわ》
「……え?」
《気持ち悪いから》
「……」
《女の人の格好せんといて》
「……うん。やめるね。……ごめん……」
コロコロ神田川。
活動期間はわずか4ヶ月だった。
* * *
数万人単位の学生が通う大学で、学部が異なれば、滅多に顔を合わせることはない。
YouTubeチャンネルの解散以降、2人はほとんど関わることなく、卒業した。
佐古が長い髪を切ったのは、就職活動の時。
髪と共に、自分らしく生きる情熱を捨てた。
柊と再会したこの日も、佐古は短髪に男性用スーツというありふれた出で立ちであった。
「世のため人のために善かれと思ってやっとったけど、その世の中が敵やとは思わんかったな」
夜道を歩きながら、佐古は苦笑して、
「あの頃、家族からもめちゃめちゃに言われたで。そんな子に育てた覚えはないやの、わしらのお墓は誰が守るんやの」
「お前、仕事は何だ?」
「え……。それがな……言いにくいけど、旅行業よ」
コロナ禍において、最も影響を受けた業種のひとつだ。
「儲かったのか?」
振り返りもせず、柊が尋ねる。
その声はしゃがれている。
「んー。まあまあかな。もちろん、今は最悪やけどな」
「損切りしろ」
「……え?」
「旅行業がいかに脆いか、身に染みてわかっただろ。コロナは終わりが見えねぇし、コロナが終息したとしても、いつまた同じようなことが起こるかわからねぇ」
「……うん」
「安定してなくたって構わねぇのは、それがガッツリ稼げる仕事だったらの話だ」
言い方にこそ違和感を抱いたものの、この話題は佐古にとって不利益ではなかった。
「実はな、転職しようかな思っとんよ」
これこそ佐古が上京した理由だった。
転職は人生において、非常に大きな転機。
簡単には実行できない。
だからこそ、あの日、神田川でしてくれたように、もう一度彼に背中を押してもらえれば……と願っていた。
「お前、特技は?」
「自慢するほどやないけど、語学力やね。大学で外国語を勉強したからな、ちょっとは喋れるんよ」
「なら、俺と組め」
柊は頬のこけた顔を佐古に向けて、
「このくだらねぇ世界を変えようぜ」
* * *
柊が佐古を招き入れたところはトランクルームだった。
5帖の空間に、ぎっしりとマスクの在庫が置かれている。
「何してんの、こんな……」
「月々およそ5万で借りれる。ここも手狭になってきたから、別のところに移ろうかと考えてるけどな」
「聞いてへんわ」
てっきり、柊の自宅に案内されるもとの思い込んでいた佐古だったから、残念そうな表情を隠しきれない。
「自宅? こんな遅くには呼べねぇよ。壁が薄いからな。それに、見てもらった方が早いと思って」
「どういうこと?」
「職場見学だろうが」
「いやいやいや……。これって転売ヤーってやつやろ。やったらあかんやつやん」
再会直後から抱いていた不安が、とうとう誤魔化せないほどの大きさになってしまった。
大量のマスクの在庫。
貧乏そうな服装。
更には、
「政治の腐敗が国を壊すんだぜ。このままだと、いずれ日本って国は滅びちまう。今こそ、若い俺達が老いぼれ政治を終わらせなきゃならねぇ」
相変わらずの、ふわっとした主張。
どうやら、柊はまともな社会生活を送っていないようだ。
「あんた、仕事は何やっとん?」
「政治家」
「ちゃうやろ。そうやなくて、普段の勤務先や。あんた、まさか……」
「お前がいたら、外国の会社と取引できるようになる。これはデカイ。稼ぎの幅が広がる」
「博打やっててもしゃぁないやろ。ちゃんと定職に就こうや」
「俺は政治家になる!!!!」
「あんたには無理や!! 供託金も払えんもん!!」
「それがどうした! 世の中、結果がすべてじゃねぇか!! ここで稼げば、選挙に出れるんだぜ!!! そうすりゃ人生大逆転━━」
「飛沫、飛ばさんといて!!! マスクしぃや!!!」
「ない!」
「あるやろ! ここに! いくらでも! 売るほどあるわ!!」
「これは商品なんだよ!!」
柊の息切れが激しい。
佐古も疲れた。
しばらく黙って、2人は荒い呼吸を整えた。
やがて、柊が胸を張って、
「俺は諦めないぜ」
佐古は答えない。
大学生だった頃から何ひとつ成長していない人間に、期待できることなどあるはずがないからだ。
相変わらず、彼には地盤、看板、鞄、コネがない。
おまけに、現実を直視する力もないようだ。
「お前は諦めたのか? このクソみてぇな世の中を放置するつもりか? 夢も持たねぇで、毎日毎日会社にコキ使われて、精神を磨り減らして、本当の自分を見失って、それでも生きてるって言えるのか?」
鬼気迫る柊。
だが、その質問に佐古が答えることはなかった。
突如、柊がひどく咳き込み始めたのだ。
* * *
「熱冷ましや」
自動販売機で買ったペットボトルを柊の脇に挟んだ。
その時、彼の腕の細さを感じた。
「ご飯ちゃんと食べとるん?」
「……最近……飯が不味くて……」
「絶対コロナやん」
新型コロナウイルスの症状のひとつ。
味覚・嗅覚の消失。
トランクルームの床に横たわる元相方のそばに座って、佐古は溜め息をついた。
「あんたも東京を離れた方がええかもな。人口が少ないとこやと、他人の目を気にせんで済むやろ。見栄を張らんで生きてけるんやで」
「夢を捨てろって言うのか!?」
「あんたはとっくに夢なんかなくしとる」
目を血走らせる柊を、やんわりと窘めて、
「あんたが夢やと思っとんは夢やない。幻覚や。私ら、もうとっくに大人やんか。もう夢なんか見てられる年齢ちゃうねんで」
例えば、ここにあるマスクの山。
これを感染予防に使える道具の在庫ではなく、お金儲けの道具としか認識できない。
それもまた、幻覚。
「青春時代は終わりや」
外から、救急車のサイレンが聞こえる。
佐古が呼んだからだ。
「入院して、よく寝てよく食べたら、バチーンと治るやろ」
「ここで終わらせるわけにはいかねぇ」
「私の転職ついでや。あんたの就職も世話したる」
「ここで終わったら、俺の人生は何だったんだ」
「柊!!」
咳き込みながら、体を震わせながら、柊は必死に立ち上がった。
そして、マスクを片っ端から投げ飛ばした。
佐古の制止も効かない。
「作戦変更だ。マスクはもういい。もっといい商売があるはずだ」
マスクを着けないまま、柊はトランクルームを飛び出した。
* * *
━━どこにそんな力があるんや。
佐古をドン引きさせるほど、柊の走りは凄まじかった。
病人とは思えない。
健康である佐古の方が追いかけるのに精一杯だ。
東京の空は暗い。
星の代わりに街を照らすのはネオンだった。
しかし、今の東京にはそれすらない。
コロコロと太った丸い月だけが2人の視界を明るくしている。
「どこに行くつもりや、柊!」
呼び掛ける佐古だが、内心ではわかっていた。
きっと、柊に行く宛などない、と。
「捕まえたで!」
「離せ!」
飛びかかって、押し倒し、逃げられないよう、両手首を掴んだ。
奇しくも、そこは神田川の橋の上。
「俺はここで終わりたくないんだよ!!」
叫び抗う柊を佐古は自由にしない。
「私が責任もって、あんたを終わらせたるわ!」
両者共に華奢である。
第3者の介入がなければ、きっと、揉みくちゃの争いはいつまでも続いていただろう。
現れたのは、無表情で行列する集団。
彼らが手に持つプラカードには、
「ステイホーム」
都の職員だ。
「コロナウイルスが流行しています」
「あっ……はい」
突然のことに、佐古は先程までの勢いを失い、呆然としてしまった。
その一瞬の隙を見逃さず、柊は佐古を突き飛ばした。
そして、職員に向かって、
「俺を都知事にしろ!!!」
「あんた、何言うとるん!?」
「行政改革だ! 茶番を終わらせてやる! 死ぬのは俺じゃねぇ! コロナ、てめぇだ!!」
「やめや!」
案の定、彼が相手にされることはない。
「コロナウイルスに感染すると、老若男女を問わず、重症化する恐れがあります」
「柊小次郎! 今日から都知事! よろしくな!」
「帰宅しましょう」
そして、職員らはプラカードを掲げた。
「ステイホーム」
佐古に羽交い締めにされながらも、柊は止まらない。
「俺は都知事だぞ! 命令するな! お前らが帰れ!」
「都知事の意思に基づいて、私達はあなたの帰宅を促しています。つまり、民意です」
「俺も都民だぞ!」
シラフだが、まるで酒に酔っているかのように、柊はくどくどと持論を展開した。
そこに内容はない。
相変わらず、ふわっとした主張。
まともに働いている社会人を感化できるはずはなかった。
しかし……
「転売ヤーをしている? そんな人間に政治は無理でしょ。きちんと自分を省みて、身の丈に合った人生を歩まれてはどうですか?」
頭ごなしに元相棒を否定されるのは耐えがたかった。
「決めつけはやめてください! そりゃ確かに、今のこいつはどうしようもないアホですけど、がむしゃらに頑張るとこがかっこええし……政治家になる可能性はありますよ!」
「そんなことより、彼、体調が悪そうですよ」
「それは多分コロナのせいです!」
ちょうどその時、柊が崩れた。
何も言わず、呻き声さえ発することなく、膝を折り、倒れた。
「あかん……。意識がない! どうにかしてください!」
「あなたも濃厚接触者に該当する可能性があります。すぐに帰宅して、感染を広げないように注意してください」
「帰宅しろって……いや、まずは救急車を━━」
「近づかないで!!」
職員が一斉にプラカードを掲げながら、下がった。
「ステイホーム」
「ステイホーム」
「ステイホーム」
「ステイホーム」
「ステイホーム」
「ステイホーム」
佐古は震えた。
握りしめた拳を開いて、マスクに手をかけた。
そして、マスクを外し、大きな声を出した。
「こんな世の中、間違っとる!」
「マスクを着けろ!」
「どいつもこいつも、人間を何やと思っとんや!!!」
「感染を広げるつもりか!?」
「あんたらにも感染させたるわ! それが嫌なら、もういっそ、私らのこと殺してくれ! 簀巻きにして、この神田川に叩っ込んでくれや!!」
コロコロと太った満月が神田川に浮かぶ。




