僕には夢がない(略称:はがない)
僕には夢がありません。
僕は今22歳、大学4年生です。就職活動を終えて、あとは卒業論文を提出するだけです。
今大学の研究室で取り組んでいる研究は、内定を頂いた企業の職種とはあまり関係なさそうな内容です。正直今やっている研究に全く熱意はなく、ただただ大学卒の肩書を貰うためだけにやっているだけです。
なぜ僕には夢がないのだろうか。さかのぼって考えてみると、それは幼稚園の時からだったと思います。
僕の通っていた幼稚園は、園児が誕生日を迎えると「将来の夢」を書かされました。
なので僕も毎年「将来の夢」を書くわけですが、僕はこれに毎年悩んでました。なんて書いたかはよく覚えていないのですが(確かお菓子屋さんとか、その時の気分でテキトーなことを書いていたのだと思います)、なんて書こうか悩んでいたことは覚えています。
ちょっと飛んで小学校の卒業文集の時です。
卒業文集には「将来の夢」について作文を書かなければいけません。しかしこの時になっても僕は夢がありませんでした。
当時、習い事で剣道や将棋、趣味で手品やゲームをやっていましたが、それらを職業にしようと思えるほどの熱意はなく、なんて書こうか悩みました。
そういえばこの時あたりから薄々気づいたことなのですが、「将来の夢」と抽象的なことを言っておきながら、結局は「将来自分がなりたい職業」を答えなければならないという暗黙のルールがあるんですよね。
その職業というのも「スポーツ選手」「医者」「パティシエ」など、いかにも子供らしい、なることが難しい、まさに「夢」といったものであるほど大人は喜ぶのです。
同じ原理で「戦隊ヒーローの主人公」や「魔法少女」などアニメや特撮に影響されたものでも大人は喜びます。「ああ、なんて無垢で、純粋で、子供らしくて可愛いのだろう!」と大人たちは手を叩いて喜びます。ただしこれらは小学校低学年くらいまでしか使えませんが。
間違っても「風俗嬢」「詐欺師」「テロリスト」ではいけないのです。「将来の夢はなんでもいいんだよ」「自分が好きなことが何かあるはずだ!」と大人は言うのですが、その実「世間的に良しとされる職業」でなくては認められません。
最近テレビで「最近の子供は夢がない。子供の頃から公務員だのサラリーマンだの……やはり子供は子供らしく大きな夢を持つべきだ。不況の時代で子供の頃から安定志向になってしまったのだろうか」などと言う評論家を見ました。
私には何が問題なのかわかりません。子供の中には本心から公務員やサラリーマンになりたい子がいるでしょう。その発言はそんな子供たちの心を踏みにじっているのではないだろうかと僕は思うのです。
話は戻って、小学生の僕は何か「将来なりたい職業」について作文を書かねばなりませんでした。
僕は「将来の夢、なのだから職業でなくてもいいはずだ!」と思い、周りの友達がありきたりな職業で「将来の夢」を書いていく中で、僕は「某カレーチェーン店の全トッピングをのせたカレーが食べたい」とか「バケツいっぱいのゼリーが食べたい」などを書いたのですが(これはまぎれもない本心です)、あっさりと先生から書き直しを命じられました。
僕は「将来の夢、なんだからなんでもいいはずだろう!」と世の中の理不尽ぶりに腹を立てましたが、僕だけ書かないわけにもいかず、仕方なく何か手頃な職業はないものかと探しました。
そこで僕が書いたのが「サラリーマン」でした。それも部長や係長とかそれくらいの役職。
僕としてはそこそこのサラリーマンくらいになって、家族を持って、普通の暮らしができればいいなという思いで書いたのですが、どうやら先生のお気に召さなかったようで、これも書き直しになりました。
なんということでしょう、僕がこれだけ真剣に自分の「将来の夢」を書いているというのに、先生は何一つ認めてくれない。この頃になると、もう僕の本心などどうでもよくなってきて、いかに先生が合格をくれる「将来の夢」を考えるか、になってきました。
結局僕が選んだ職業は「医者」でした。医者になってより多くの病気の人を助けたい、なんてことを書いたと思います。するとどうでしょう、先生は一発で合格をくれました。僕は医者になりたいなんて微塵も思っていなくても、きっと僕の学力と家の経済力ではどう頑張っても医者になれなくても、きっと先生には「子供らしくて、大きくて、立派で、そして分不相応な夢」であればあるほど嬉しいのでしょう。
子供に対して大人は高飛車に「将来の夢」を突きつけます。そしてその子供が青年になったとき、大人は「現実を見ろ」と言うのでしょう。
僕の「将来の夢」はそれから高校生になるまで「医者」で通しました。あれこれ考えず、反射的に「医者」と答えておけば、合格だからです。
さすがに高校生になると、そろそろ夢よりも現実を見ることがいいこととされる時期なので、とりあえず「医療関係の仕事」とかにしました。当然本心ではないのですが、やはり高校生になっても「将来の夢」を聞かれる機会があったので、新たに作ることにしました。「人の役に立ちたい」「困っている人を助けたい」などを言っておけば「将来の夢」として不合格をくらうことはありませんでした。世の中に人の役に立たない仕事は無いというのに……。
さて大学生になった僕は、工学部の電気系学科に進学しました。なぜこの学科かというと、一番就職率がいいからです。特になりたい職業がなく、夢も無い僕は、とりあえず就職に強いとこに進んでおけばいいや、と思って進学しました。
就活を終えて、結局僕は普通のサラリーマンになりそうです。大学で学んだことはおそらくあまり役に立ちません。今卒業のためだけに行っている研究など、この先の人生において全く必要の無い内容でしょう。
「将来の夢」のない僕にとって、所詮大学というのは、大卒という肩書きを持って就職するための、就職予備学校でしかなかったわけです。
一体僕は何のために大学を卒業するのか。もっと言えば、小学校から今まで勉強してきたのは何のためだったのか。大学入試のため塾に通い詰めた日々は何の役に立ったのだろうか。結局は、ただただ就職するためだけの踏み台でしかなかったのだろう。
最後に、なぜ僕がこんなエッセイを書いたのかを語らせてください。
先日、中学時代の友達と偶然会いました。友達は保育士になるための試験を控えているそうです。話を聞くと、友達は小学生の頃から保育士になりたかったらしく、大学も保育士の資格がとれる大学・学部を選んだそうです。子供の頃から明確な夢を持って、今現在に至るまで一貫して努力し、そしてそれを叶えようとしているのです。
正直僕は友達のことが羨ましかったし、とても眩しく見えました。僕も子供の頃に、本心から願い、そして周囲に認めてもらえるような「将来の夢」を見つけていれば、もっと充実した人生を送っていたのだろうかと思いました。
自分は何のために生きているのだろう。自分は人生の中で何をやりたいのだろう。生きる目的はなんだろう。そんな思春期の少年のようなことを、もう成人した大人が、夜な夜な考えているわけなのです。