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光のもとでⅠ 第十一章 トラウマ  作者: 葉野りるは
本編
33/120

33話

 携帯を持った手は重力に逆らうことなく膝に落下した。

 鈍い痛みに視線を向けたとき、ディスプレイに水滴がはじけて自分が泣いていたことに気づく。

 少し離れた場所でドアの開閉する音が聞こえ、携帯はスカートで、涙は袖で拭った。

 ぎゅむ、ぎゅむ、ぎゅむ、ぎゅむ――足音が近づいてくる。

 もっと寒くなり冬が近づけば、シャク、シャク、と枯葉を踏んだときの小気味いい音になるだろう。

 今はまだ乾燥には程遠い、湿り気を帯びた生きた葉のため、湿度を含んだ音になる。

 視界に秋斗さんの靴が入った。

「翠葉ちゃん、ここは日陰。冷えるよ」

 そう言って、肩に秋斗さんのジャケットをかけられる。

 ふわりとほのかな香りに包まれた。

「ありがとうございます……。日陰は本当に寒いですね」

 声を発して気づく。

 自分のそれが見事に鼻にかかった涙声であることに。

 笑みを添えて顔を上げたけれど、うまく笑えた気はしなくて、再度視線を手元に落としてしまった。

「手がかじかんで、うまくシャッターが切れないみたいです。だから、今日は諦めようかな……」

 そう言った瞬間、ジャケットの上から抱きしめられた。

 一瞬、身を引いてしまいそうになったけど、より強く感じた香りを知っている気がして、抱かれるままに額を秋斗さんの胸にくっつけた。

 この香りは知ってる――。

「零樹さんと静さんから話は聞いたよ。翠葉ちゃんらしいけど、こんなときまでそんなふうに笑わなくていいから」

 秋斗さんの声が頭上と胸からの振動を伝って二通り聞こえる。

「大丈夫です……大丈夫じゃなくちゃだめ――」

「……君は人には優しいのに自分には厳しいね。……とりあえず、一度部屋へ戻ろう?」

 言われて頷くと、秋斗さんはカメラケースを手に取り、そのまま私のことまで抱き上げた。

「あのっ、自分で歩けますっ」

「それはどうかな? ずっと座ってたから、足が痺れてるんじゃない?」

 そう言って歩きだしてしまった。

「……あの、いつから見ていたんですか?」

「ずっと――って言ったら気持ち悪いかな?」

 秋斗さんは少し困った顔で笑う。

「休んでいたんじゃ……」

「そのつもりだったんだけどね……。見ていたかったんだ。でも、君の邪魔をしちゃいけないと思ったから部屋にいたけど」

 建物の前まで来ると、私を抱えたまま器用にドアを開けた。

 部屋に入るとベッドの上に下ろされる。そして、秋斗さんは私の首にぶら下がっていたカメラを手に取るとケースにしまい、さらにはクローゼットへとしまいこんでしまった。

 私のところへ戻ってくると、今度は私のブーツに手をかけた。

「あ、ごめんなさいっ。自分で――」

「手、かじかんでてちゃんと動かないんでしょう?」

 笑ってはそのまま脱がされてしまう。なぜか靴下まで。

 足先に秋斗さんの手が触れた。

「足、だいぶ冷えちゃったね。ちょっと待ってて」

 秋斗さんは洗面所へつながるドアを開き、その奥へと姿を消した。

 部屋に戻ってきた秋斗さんは、

「足湯で温まろう?」

「そこまでしていただかなくてもっ」

 今、優しくされすぎると困る。泣き出してしまいそうで困る。

 声もまだいつもどおりではなく、目だって赤くて情けない状態に違いない。

「じゃ、俺も一緒に足湯に浸かろうかな」

 秋斗さんは私の隣に腰掛け、靴下を脱いでジーパンの裾をまくり始めた。

「そろそろかな」

 言うと、またしても私を抱え上げてそのままバスルームへと連れていかれる。

 この香りはどこで嗅いだことがある匂いなのだろう。

「こういうの、だいぶ慣れたのかな?」

「え……?」

「前は、こんなにおとなしく抱き上げられてはくれなかったんだよ」

「っ……今だって大丈夫なわけじゃないですっ。でも、秋斗さん、あたたかくて――」

「……くっ、俺で暖が取れるならいくらでも?」

 そんなふうに甘い笑顔を向けられると困ってしまう。

 心臓が駆け足を始めるから、困る……。

 秋斗さんがあたたかくて、なんだか懐かしい香りがしたから――。

 その香りに纏わる記憶をたどろうとしたら、抱え上げられたことが霞んでしまっただけなのだ。

 バスルームは湯気でモクモクとしていて、バスタブには三十センチほどお湯が溜まっていた。

「蒼樹情報より抜粋なんだけど、シャワーの温度は三十五度からでOK?」

「はい……」

「蒼樹から翠葉ちゃんの話を聞かされ始めてからは結構長いから、翠葉ちゃん情報は蓄積されているんだ。スカートだけは持っててね?」

「あ、はい」

 秋斗さんは温度設定を済ませると、シャワーを足に当ててくれた。

「わっ――赤くなっちゃったけど大丈夫っ!?」

 足元から見上げられてコクコクと首を縦に振る。

 お湯を当てて赤くなるのはいつものこと。三十五度くらいからなら低温火傷にはならない。

 そこから徐々に温度を上げて四十度を超えた頃、

「よし、じゃ、スカートだけ持っててね?」

「え……?」

 次の瞬間には両脇に手を入れられふわりと身体が浮いた。湯船に入れられ、その縁に座らされる。

 秋斗さんも同じように湯船に入っては縁に腰を下ろした。

「あったかいね」

 そう言って笑う表情が優しくて――止まったはずの涙が溢れ出す。

 あたたかいのと優しさが重なって相乗効果。

 困る、泣きたくないのに――。

 こんなに情けない自分は見せたくないのに。人に心配をかけるような自分は嫌いなのに。

「泣きたいだけ泣いていいよ」

「はい」と差し出されたのは、フェイスタオルをお湯で濡らしたものだった。

 私はスカートをたくし上げ膝の上に乗せると、両手でタオルを受け取った。

 それは手にもあたたかく、顔に当てるとじんわりと肌に沁みた。

「せっかく連れてきてもらったのに、ごめんなさい……」

 タオルに顔を押し当てたまま、くぐもった声を発する。

 こうすることで涙声もごまかせる気がした。

「翠葉ちゃん、今回ここには療養に来たんだよ」

 秋斗さんの優しい声音がバスルームに反響して聞こえる。それはまるで、声に包まれているような錯覚を起こす。

「君は身体を休めるためにここへ来たのであって、写真を撮りに来たわけじゃない」

 療養――。

「思い出して? 君は木曜日に病院へ行かなくちゃいけないほどひどい発作を起こしたんだ。そして、三日間ゆっくり休むようにって言われたよね? 横になってる必要はないみたいだけど、逆に仕事をしていいとも言われていない。むしろ、ダメなんじゃない? ……ごめんね。俺は翠葉ちゃんが写真を撮りたいんじゃないかなと思って声をかけただけだったんだけど……。前回来たときは写真を撮ることに熱中してしばらくは戻ってこないくらいだったから」

 やだ、謝られるのは違うっ――。

「秋斗さん、謝らないで。謝ったらやだ……」

 この人に謝られるのは胸がぎゅってなる。

「……さ、そろそろ足もあたたまったよね?」

「はい」


 バスルームを出ると、前を歩いていた秋斗さんが振り向く。

「少しお昼寝したらどうかな? 本館の部屋に戻る? それともここで休む? どっちがいい?」

 本館のお部屋はまだ見ていない。そっちも気にはなるけれど、ここは横になっても空が見える。

 周りの景色もきれいに見える。見えないのはこの部屋の北側だけ。

 ここで休めたら幸せ。きれいな景色を見ながら横になれるなんて……。

 でも、私がここにいたら秋斗さんは休めない気がする。

「……本館へ戻ります」

 そう言って、私は秋斗さんを追い越した。すると、後ろから手首を掴まれる。

「翠葉ちゃん、俺はどっちがいいかを訊いたんだよ?」

 どっち――。

「ここにいたいならここでかまわないんだ。俺がいないほうがいいなら蒼樹か若槻を呼ぶし」

「違うっ――秋斗さんがいるからとかそういうことじゃなくて」

「じゃぁ、何?」

「……私がここでお昼寝しちゃったら秋斗さんが休めないから」

「なんだ、そんなこと?」

 秋斗さんはきょとんとした顔で手首を離した。

「俺は何もしないで過ごせる時間があればそれでいいんだ。翠葉ちゃんの『休む』は身体を横にして休むことが前提なのかもしれないけれど、俺は違う。ただ、頭を使わずのんびりと過ごせるだけで十分休養になる」

 ……そうなの?

「だから、ここで休みたいならそうすればいい。ほら、冷えないうちに布団に入りな?」

 秋斗さんはソファへ向かった。

 本当にいいのかな……。

「そんな顔をしてると添い寝してほしいのかと勘違いするよ?」

 少し意地悪な笑みを浮かべられて慌てる。

 添い寝はちょっと困るというか、すごく困る……。だから、そうされる前にベッドへ入った。

 横になっても視界いっぱいに外の景色が広がる。

 きれい……。

 病院が全部こんな病室だったらいいのに。

 ふと考えて、それじゃだめだと思った。

 こんなにきれいな景色が見えるところだったら居座りたくなる人がいるかもしれない。病院に長居は無用だ。

 ……でも、病気で外に出られない患者さんにはとても嬉しい環境だろうな。

 そんな病室があったとして、利用できる患者さんなんてきっと一握り。そう思うと、やっぱり現実的じゃないな、と思った。




「翠葉、そろそろ本館へ戻ろう」

「……蒼兄?」

 自分のいる場所を認識してから目を開ける。と、

「俺もいるよー! 迎えに来たんだ」

 蒼兄の隣には唯兄がいた。

「秋斗さんは……?」

「ここにいるよ」

 少し離れた場所、ソファから声がした。

 身体を起こすと、テーブルの上には私と秋斗さんのカップに加えてふたつカップが増えていた。

「よく眠れたみたいだな。俺たちが来ても起きなかったよ」

 蒼兄の手が伸びてきて、頭を撫でられる。

「うん。……空がきれいで――緑から赤に変化する途中の紅葉もみじがきれいで、それを見ていたはずなのに、知らないうちに寝ていたみたい」

 窓の外は薄暗い。部屋の三ヶ所にオイルランプが灯っていた。

「今何時?」

「四時過ぎ」

 答えてくれたのは唯兄。

「昇さんが五時半には治療を始めようって言ってたから、足元が見えるうちに本館へ戻ろう」

 蒼兄の言葉に、コクリと頷いた。

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