32 Side Soju 01話
「んじゃ、俺、事務所にいる人たちに挨拶してくるわ」
建物内部の案内をしてもらい、外観も粗方見終わった俺たちは一度そこで別れた。
唯は唯で、仕事上で関わる人たちとの絡みもあるのだろう。
「家族旅行に憧れてる」なんて言っていたけれど、「仕事」も忘れはしない。
「先輩が見込んだだけのことはあるのか、それともそう仕込まれたのか……」
どっちかな?
時計は三時を指していた。
携帯を手に取った瞬間にメールを受信する。
件名 :楽しまれてますか?
本文 :こっちは文化祭の準備で
てんてこ舞いです。
今、やっと休憩をとることができたので
メールしてみました。
翠葉は楽しそうにしていますか?
体調は大丈夫そうですか?
桃華さん……君からのメールって必ず翠葉のことが書いてあるよね。
いや、全然かまわないんだけど、少しだけ翠葉に嫉妬しそう。
「あぁ……歴代の彼女たちってこんな気持ちだったのかな……」
でも、きっとこんな子だから俺は付き合えるんだ。
翠葉を大切に思ってくれる子だからこそ、よりいっそう愛おしくなる。
リダイヤルから番号を呼び出し通話ボタンを押す。
『はい』
凛とした声が聞こえ、
「今、大丈夫?」
『はい、休憩中ですから。誰にも文句は言わせません』
「言われません」じゃなくて、「言わせない」というところが彼女らしい。
そして、「翠葉は?」と開口一番に訊かれるんだ。それは毎度のこと。
「翠葉は今、秋斗先輩と森林へ行っていて、俺たちとは別行動なんだ」
『大丈夫なんですかっ!?』
「たぶん、今のところバイタルに異常もないし、何かあっても栞さんと昇先生がいるから平気だと思う」
『体調のこともですけど――その、気持ち的なことも……』
「んー……若干いっぱいいっぱいぽいけど、でもきっと大丈夫」
『どうしてですか?』
「どうして……か。そうだな、秋斗先輩も少しは変わったと思うから、かな」
『私は不安です。また何かあったらどうしようかと思っちゃいます』
「……なんていうかさ、これ以上ひどい状態にはなりようがない気がするんだ」
記憶をなくす以上にひどいことってどんなだろう。
それを考えて想像できない時点で今が最悪……。
記憶を取り戻したらいい方へ進むのか――自分に問いかけたところで「Yes or No」の答えすら出せない。
もう、何が起きてもそれをありのままに受け止めるしか方法がない。
『がんばってるんですね?』
「ん?」
『翠葉離れ』
「あぁ……努力はしている。俺には与えてやれないものがたくさんあるって気づいたから」
翠葉の世界はもう家の外にもあるんだ。だとしたら、俺がすべてである必要はない。
俺は兄でしかない。家族でしかない。
同年代の友達にはなってやれないし、彼氏になれるわけでもない。
そういったものを得られる場所を見出したのなら、そこで得られるものはそこで得るべきだ。
俺に家族以外の世界があるように、翠葉にもそういう場所ができたのなら……。
それがあるべき姿――。
『それで蒼樹さんは大丈夫なんですか?」
「俺、かぁ……。そうだな、桃華がいるから大丈夫ってことにさせて?」
『心からそう思ってもらえる日が来たら嬉しいです』
「心から思ってるよ。でも、桃華は翠葉の代わりじゃないからね」
翠葉はあくまでも妹で、桃華は好きな人、だ。代わりになるわけがない。
翠葉が俺を必要としている間は離れるつもりなどなかった。また、「翠葉離れ」とは言ったものの、翠葉が手を伸ばせばいつでも手の届くところにいるつもりでいる。果たしてそれを、「翠葉離れ」と言っていいものか――。
『翠葉、学校でものすごくがんばってます。たまに間違ったほうにがんばってるんじゃないかと思うこともあって、見てる私はドキドキさせられっぱなしですけど。でも、不思議とみんな、周りは翠葉のペースに流されていることもあって……』
「呼び出しの件、だよね」
翠葉は俺たちに何も話さない。それを案じてか、桃華が俺に教えてくれる。けれど、それで俺が翠葉に何かを言うこともない。
「桃華、ありがとう」
『え?』
「こうやって桃華が学校での翠葉を教えてくれるから、今のところは大丈夫なんだと思う。自分が信頼できる人間が、翠葉の側にいて見てくれているっていうのはすごく大きいよ」
『そんな……私は翠葉が好きだから一緒にいるだけです』
「うん、それでも――ありがとう、かな。……桃華、そっちに帰ったらデートしよう?」
『……デート、楽しみです』
「あとさ、紅葉祭に行ってもいい?」
『……紅葉祭、絶対に来ると思ってたんですけど、違ったんですか?」
「いや、行くつもりではいたけど――そうじゃなくて、桃華のフリータイムに合わせて行ってもいい?」
『えっ……?』
彼女にしては珍しく大きな声だった。
「翠葉がさ、付き合っているのは秘密なのかって訊くんだ。だから、俺はそのつもりはないけど、桃華はどう思ってるのかわからないって答えたんだけど……」
『……自分から誰かに言うってのはなんだか恥ずかしくて……。隠しているとかそういうわけでは――』
うろたえる彼女がかわいい。
「じゃぁさ、紅葉祭で俺は彼氏面していいのかな?」
『……問題ないです』
小さな声で、どこか機械的に話す。
そんな桃華がかわいいと思った。
「じゃ、フリータイムは俺と校内デートね」
そんな約束を取り付けて電話を切った。
電話を切ればメールを受信する。
「……先輩? 何これ。件名からして意味わかんない……」
件名 :大丈夫だけど助けて
本文 :翠葉ちゃん、写真撮れないみたいで
精神的に少し不安定みたい。
今はベッドで寝てるけど、
蒼樹か若槻が側にいたほうが
安心すると思う。
襲ったりしないけど、
なんつーか……。
目の前ににんじんぶら下げられてる気分。
俺が無害な熊から狼に変身する前に
ぜひ、救助願う。
熊から狼って、いったいどんなだよ……。
宛先には俺と唯のアドレスが表示されていた。
つまり、これと同じメールを唯も読んでいるのだろう。
そこへ今度は唯からの電話が鳴った。
「はい」
『何、このメール』
「俺が訊きたいよ」
『秋斗さんはどうでもいいんだけど、リィが写真撮れないって何?』
「あぁ……翠葉はプレッシャーに弱いからなぁ……」
昔、ピアノのコンクールを目前にピアノが弾けなくなったことがある。
コンクール当日も青ざめた状態で会場へ赴き、俺と父さんは緊張に震える翠葉をホールから見送った。
母さんの話だと、支度をしている間中もガタガタと震えている状態だったらしいけれど、ステージに立った翠葉はフラットな状態に近く、いつもどおりの演奏をすることができた。
しかし、演奏が終わってステージをはけた直後に倒れて病院送り。結果、高熱が三日間続いた。
電話連絡で入賞したことを知ったものの、翌日の受賞式には出席できず、あえなく辞退。
そのあとは、「もう出たくない」という翠葉の意思を尊重し、コンクールなどには一切出なくなった。
ピアノの先生もコンクールを重視する先生から違う先生へ変えた。
その翠葉が紅葉祭で歌を歌うという。
ピアノ演奏ならまだ理解できた。でも、歌となるとまた別だろう。
しかも、吹奏楽部や軽音部、フォークソング部との合わせもあるらしい。
また、変にプレッシャーを感じないでくれるといいんだけど……。
心配だけど止めはしない。
翠葉、行けるところまで行ってごらん。転んだらがんばって自分で立ち上がるんだ。
もし、どうしても立ち上がれなかったら、そのときは俺が手を差し伸べるから――。
『あんちゃん、聞いてるっ!?』
「あぁ、聞いてる聞いてる」
『嘘だね、絶対に聞いてなかったでしょ』
あれ……?
気づけばその声は携帯というよりは真後ろから聞こえてきた。
「ほら、リィのとこ行くよっ!」
ガツ――とどつかれ振り返ると、すぐそこに唯が立っていた。
森へ続く小道を歩いていると、その先から話し声が聞こえてきた。
先輩だ――。
「竜田……? どちら様でしょう」
間違い電話か何か……?
ガラス戸から少し離れたところで携帯を耳に当てている先輩は、かなり不機嫌そうな顔をしている。
たぶん、俺たちにメールをしてきた時点で物音を立てないようにしていたのだろう。
そこにかかってきた電話、ってところかな?
「――悪いけど記憶にない。基本、自分より優秀な人間しか視界に認めないから」
なんだかものすごくひどい言いようだ。
俺は未だかつて、秋斗先輩が人に負けるところなど見たことがない。だとしたら、その視界には誰も入ったことがないのではないだろうか。
「それにしても、どうしてこの携帯の番号――あぁ、そんなことがあったような気がしなくもない。でも……万年次位か――。仕事、あるにはあるよ。でも、すごくきついけど……それでもやる?」
先輩は悪そうな笑みを浮かべていた。
「なーんか特大な蜘蛛の巣に獲物が引っかかっちゃった感じ?」
そんなたとえをするのは唯。
「わかっていると思うけど、使えなかったら即切るから」
先輩はにこりと笑って言い放つ。
「じゃ、月曜日に高校の図書棟、図書室奥に来て。午前中ならいつでもかまわない」
そう言って通話を切った。
「なんですか? 今の物騒な電話」
唯が話しかけると、
「使えればの話だけど、若槻たちの仕事が少し楽になるかもしれない人材が転がり込んできた。どうやら俺と同期で同じ科専攻してて万年次位だったらしい。俺よりは劣るけど、それなりには使えるんじゃない?」
「あぁ、やっぱり……。蜘蛛の巣に獲物がかかった」
「若槻、俺と同期の竜田誉って人間、あとで調べておいて」
「了解」
「では、いざ眠れる森の美女のもとへ」
なんて言いながら先輩が建物のドアを開けた。
この時点で起きるんじゃないか、と思った。けど、翠葉は起きることなく、今も寝息を立てている。
「あーあ……相変わらず無防備全開だよ、まったく……」
と、唯が翠葉の頬をつつく。
それに、「ん……」と反応はしつつも、目覚める気配はなかった。
車に乗っていただけとはいえ、やっぱり疲れたのかもしれない。
「若槻、お茶」
先輩がパックを渡すと、唯はあたりを見回して入り口近くのストーブに乗るケトルを手にした。
「バカっ、火傷するぞっ!」
「あちっっっ」
声を発した俺らに飛んでくるは、にこやかで恐ろしい笑顔。
「おまえら、彼女起こしたら殺すよ? 殺すは殺すでも、心を亡くすほうの殺す、ね」
声を抑えて言われるとなお怖い……。
しかも、心を亡くすほうの殺すって、忙殺ってことでしょうか……。
命をつなぎとめつつ唯がお茶を淹れる。と、秋斗先輩はそれまでにあったことを話し始めた。




