みにくい竜の子、拾われ子。
どうしても書きたかった勘違いものです。
「リーシャ、」
いつものように甘い甘い声で呼ばれて、わたしはぼんやりと視線を上げて、上げて、上げて、さらに上げた。
なにせこの世界のもの1つ1つがわたしには大きすぎて、わたしがなにかを視界に入れるにはいつでも顔を上げていなければならない。この甘い声の主は「大きいもの」の代名詞みたいなひとで、わたしが彼と目を合わせて会話するには彼がかがんでくれるか、わたしが目いっぱい顔を上に向けるかしかないのだ。
「バル」
「おはようございます、リーシャ」
「おはよ、ございます、バル」
ゆっくりと聞き取りやすいように発音された挨拶にわたしはまだ目覚めきらない目をこすりながら同じように返す。
今日も今日とて、甘い微笑みを大安売りなバルは麗しい。寝起きだというのに一分の隙もない。この世界の時計はまだ読めないからわからないけど、太陽の昇り具合からするにたぶんまだ早朝と呼ぶにふさわしい時間帯のはずだ。この人は一体何時に起きて準備をすませているんだろう。それとも、イケメンは準備などしなくても朝から完璧イケメンなのか。なにそれずるい。
寝起きの頭でよくわからないことを考えながら、もぞもぞと布団から抜け出す。
「よく眠れましたか。ほら、リーシャ。髪がはねています」
髪質のせいなのか寝起きは好き勝手にはねまくるわたしの髪を丁寧に撫でてくれるから、再び眠気が襲ってくるけどここで負けるわけにはいかない。バルはとことん甘いから眠いといえばいつまでだって眠らせてくれるだろうけど、朝ごはんは絶対にバルと食べると決めているのだ。
ぷるぷると頭を振って眠気を追い払うと、「おはようございます」ともう一度バルが挨拶をしてくれた。うん、おはよう。
「朝食ができています。リーシャ、クロワッサンはお好きですか」
「くろわさ……?」
なんだその聞き慣れないものは。胡乱な目で見上げれば、バルは端正な顔に笑みを乗せてわたしを抱き上げた。
男の人に抱き上げられることに恥ずかしさを感じない程度に馴染んでしまったここでの生活に更に虚ろな目になりながら、わたしは初めてこの世界に落ちてきた《・・・・・》日のことに思いをはせた。
わたし、加藤梨佐は今年17になる現役女子高生である。……いや、あったというべきか。ある日突然、下校途中に道が抜けたと思ったら森の中に落っこちていたのだ。何事だ、マンホールにでも落ちたのかと辺りを見回していたら、わけがわからないほどデカい野生生物に食べられそうになった。今思えば、たぶんこの世界では中型動物くらいなんだろうけどそれはもうクマが二本足で立った程度には大きかった。これは死んだわ、と諦めたところをバル(本名はもっと長いんだけど、わたしには発音できなかった)に拾われ、今現在にいたる……というのが大まかな流れだ。
どうやらここが異世界であるらしいことには早々に気付いた。なにせ道行く人が大きいこと、大きいこと。ここは巨人の住まう町かと思うほどには大きかった。テーブルも椅子も、お皿もスプーンもすべてが大きくてわたしは食事をするのもやっとの状態なのだ。
それから決定的だったのは、どうやら魔法があるらしいことだ。現代社会で電気で動かしていたものが、ここでは全て魔法の力によって動いているらしい。ひとりでに動くほうきを見たときはちょっと興奮した。
ここが異世界である、というのはそうやって周囲の様子から感じとることができたので、わりと混乱もなく受け入れられた。元の世界に帰れるのかとか、わたしはどうしてこんなところに来てしまったのかとか疑問はつきないけれど、考えてわかることでもない。くよくよ悩まないのがわたしの唯一にして最大の長所なのだ。だがしかし、異世界転移という一大事よりわたしを混乱させたのは、言葉がほとんどわからないことだった。まったくわからない、わけではないだけマシだったのか。
たぶんフランス語、だと思われる、明らかに日本語ではない言語。英語ならまだどうにかなったかもしれないのによりにもよってフランス語。聞き慣れないながらも、たぶん地球にも存在する言語であろうことはわかった、けど、ぼんじゅーるくらいしか会話に使える単語を知らないわたしにはここでの生活は困難を極めた。
そんなわたしを助けてくれているどころか、養ってくれているのがバルだ。野生動物の大群に襲われかけたわたしをなんでもないようにサラッと助け出し、言葉が分からず途方に暮れるわたしに住む家をくれたとても優しい人。
それだけでも素敵なのに、これがもう、とんでもない美形なのである。自然光の下でも天使のわっかのできるさらっさらの黒髪に、優しげに細められる黒い瞳。よく、君の瞳は宝石よりも美しいなんて嘘っぽい褒め言葉があるけれど、バルの瞳は本当に宝石よりも綺麗なのだ。きらっきらのぴかっぴか。そのうえすらりとした長身で耳に心地よいバリトンボイスまでもっている。お仕事は不明だけど、いつもスーツらしきかっちりした服を着て決まった時間に出かけていくから、働く社会人であることはたしかだ。それもまだ20代後半くらいだろうにお偉いさんだと思われる。
なにせ居候させてもらっているこのお屋敷はとにかく広いし、メイドさんはいるし、執事だっている。つまりお金持ちなのだ。奥さんはいないみたいだけど、彼女は不明。でもいるんじゃないかな、と思っている。だって、バルときたら作り物みたいなものすごい美形なのだ。1人と言わず、2、3人はいたって驚かない。三股はどうかとは思うけど。
「リーシャ? 考え事ですか?」
わたしの斜め向かいに座り、上品にカフェオレの入ったカップを傾けるバルに何でもないよと首を振る。
どうやらさっきの聞き取れなかった単語はクロワッサンだったらしい。サクサクしたクロワッサンをもきゅもきゅ食べるわたしにバルが甘く微笑んだ。ほら、この笑みで彼女いないとか絶対ありえない。
「くろわさ、おいしい」
「クロワッサン、ですよ」
「くろわさ?」
「クロワッサン」
「くろわっさん」
「そうです。よくできました」
にっこり笑って頭を撫でてくれるバルにわたしもにっこり笑い返す。ここに来て早1か月。そろそろこの子ども扱いにも慣れてきた。
ここの人たちはみんな大きいから、小さなわたしが子どもに見えるらしい。そりゃまあ、17歳が立派な大人ってわけじゃないけど、この扱いはどう考えても幼児に対するそれと同じだ。ただ、文句を言えるほどの単語力はない上に美形に頭をなでられて悪い気もしないのでそのままにしている。
「リーシャ、今日は少し遅くなるかもしれません。お留守番、できますか?」
「あい」
身振り手振りで梨佐と名乗ったわたしの発音が悪かったのか、はたまた梨佐という発音がしづらいのか、ここに来てからのわたしの名前は「リーシャ」である。梨佐に似ているから呼ばれても返事ができるし、あまり気にしていない。わたしもバルのことをちゃんと呼べていないわけだし、お互いさまってやつだ。
「お風呂に入るときは段差に気を付けること、寝る時はベッドの隅で寝ないこと、それから、」
「あい、だいじょうぶ」
心配性のバルは小さくて非力なわたしをこれでもかというくらい心配してくれる。あまりに心配されるから、わたしはこの世界に来て『~~してはいけません』の文章を一番最初に覚えたくらいだ。
お風呂に入るときに思ったより大きかった段差に足をとられて転び頭を打って大騒ぎになったのはここに来てから2日目のことだったし、大きなベッドで落ち着かなくて隅っこで小さくなっていたら床にどすんと落っこちたのはほんの1週間ほど前のことだ。……あれ、わたし結構いろいろやらかしてるな。ま、まあ大丈夫。わたしだって馬鹿じゃない。同じ過ちは起こさない……はず。
「いい子で待っていてください。明日は休みがとれそうですから、一緒に買い物に行きましょう?」
「あい」
お留守番頼んだよと明日は休みまでは聞き取れたけど、後半がよくわからなかった。ただバルがニコニコしているからきっといいことなのだろうと判断して、わたしはぴしっと手を挙げてよい子の返事をしたのだった。