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ハート型の君の愛

作者: 白熊猫犬

 今日は火曜日。そして決戦の日。

 火曜日なのが問題ではない。今日が雪が降りそうな曇天なのも、朝から風が強くて皆背中を丸めて歩いているのも、電車の中に押し込まれて溜め息ばかり聞こえてくるのも、決戦の日であることと何ら関係はない。

 大事なことは、今日の日付だ。

 二月十四日。バレンタインデー。

 一体どうしてこんな風習が残っているのか。元々はお菓子業界の陰謀だとか聞いたことはあるけれども、何故踊らされているとわかっていて我々は未だに踊り続けているのか。決まっている。他の皆が踊っているからだ。一人でこの騒ぎを止めることなんて、出来やしないのだ。輪から弾かれて、疎外感を味わうだけなのだ。だから我々は、今年も陽気に、そして時には陰気に踊らなければならない。

 兎も角、今日はバレンタインデーで、休日ではない。そして僕の通う高校は共学であり、しかも男子と女子の比率はおおよそ半々である。

 だから決戦になる。

 チョコレートという甘い嗜好品は今日に限って言えば凶器に等しい。それは男の心を弄び、男を歓喜の渦にも嫉妬の嵐にも陥れる厄介な代物である。

 というようなことをつらつらと考えている僕なのだから、やはりあまり女子からの人気はない。女子の知り合いが皆無ということではないし、話し掛けてあからさまに嫌な顔をされることもないし、馬鹿な話をして盛り上がることだってある。

 しかし、ではバレンタインデーにチョコレートを渡す対象として見られているか、誰にあげようかな、ううん、と考えたときに僕の名前が選択肢に含まれるかと言えば、それはないのだろう。

 何故なら、これまで同年代からチョコレートを貰ったことがないからだ。ただの一つも、掌に収まるくらいの小さなチョコレートの一つすら。

 世の中には、義理チョコだとかいう、誰彼構わず配り倒すような、年賀状や御中元のようなシステムがあるというのに、それすら戴いた経験はない。

 当然のように、顔を赤らめて、放課後にちょっと呼び出されて、校舎裏、あるいは人のいなくなった教室、学校近くの公園で、恥ずかしそうに可愛らしい包装の箱を両手でちょこんと差し出して、とても素敵な告白を聞くという経験なんてない。

 例えば下駄箱に、机に、いつの間にか鞄の中に、差出人不明の、しかしとても素敵な告白の書かれたメッセージカードの封入された箱が置かれていたということもない。

 そうして毎年、心をずたずたにされた僕は孤独に家に帰り、母からの憐れみの言葉と憐れみのが僕を殺すのだ。それはとどめの一撃。敗者はただ死ぬのみ。

 だが今年は違う。今年こそは生還してみせる。僕は駅から高校へ歩きながら心を燃やす。今までとは違う結末を、僕は選ぶべきなのだ。

 これまでの敗因を考えるに、受け身になりすぎていたことが挙げられる。つまりは、誰かチョコレートをくれないかな、どこかに僕宛のチョコレートは置かれていないかなと、一日中そわそわして、しかしそんな欲望をおくびにも出さずに、いかにも平然を装って、しかし目線はぎらぎらと女子を盗み見る、そんな過ごし方をしていたからだと分析した。

 貰う側だからと、何も受け身である必要はない。こちらから、催促をしてやればいいのだ。

 もしかしたら、ああ、良かった、恥ずかしくて毎年渡せなかったけれど、彼からその話題を出してくれたわ、今年こそ勇気を出して渡せるわ、と思う人が、一人くらいはいるかもしれない。

 そうでなくとも、何だ、いつも無関心そうにしてたからあげなかったけれど、それは気を使っていたつもりだったのだけれど、勿論欲しいと言われたら渡すわよ、と言ってくれる人が、いるかもしれない。

 希望は捨ててはいけない。万が一にも満たないとしても、未来はまだ不定なのだから。

 無論、葛藤はあった。なんだ貴様、恥は無いのか、日本男児がへらへらと、プライドをかなぐり捨ててチョコレートを求めて女人に聞いて回るなど、という思いは確かにあった。しかし恥やプライドなんて知らぬ、命あっての物種だ、という最終的な判断が、僕の脳内で下ったのだ。なりふり構っていられるか。

 そうした決意を胸に、僕は校門をくぐる。ここから先は、一日限りの戦場だ。


 先ずは、クラスのマドンナ的存在のオリエにチョコレートを恵んでもらおうと考えた。品行方正、成績優秀、人望も厚く、医者である両親の英才教育の賜物である気品ある佇まいと物腰柔らかな立ち居振舞いを兼ね備え、やや世間知らずなところが逆にチャーミングに受け取られる、生粋のお嬢様だ。

 オリエならば、まあ、と微笑みかけて、僕のような人間にも慈悲の手を差し伸べてくれるに違いない、もし駄目だったとしても、元より高嶺の花なのだから大して傷付かないという打算もあった。

 下駄箱に靴を仕舞うオリエを発見し、僕はオリエに話し掛けた。極めて紳士的に、そして爽やかに。

「おはよう。ところで今日はバレンタインデーなのだけれど、もし良かったら僕にチョコレートをくれませんか。何、貰ったからと言って、僕は変に舞い上がったりはしない。君に迷惑は掛けないつもりだから」

「ええっと、そのう、ごめんなさい。そういった行事には、参加しないことにしているのです。母からの言い付けでして」

 眉をハの字にして、困ったように笑いながら、オリエは丁寧に頭を下げ、そそくさと教室に向かってしまった。

 仕方ない、親から言われたことをきっちり守るなんて、素晴らしいじゃないか。下手に踊るよりも、ずっとオリエらしい、美しい姿ではないか。そう納得した。多少周りの嘲笑が鬱陶しくもあるが、彼等も僕と同様にオリエからチョコレートを貰うことは叶わないのだ、だったら一言話せただけ、僕の方がまだましと言うものだ、と自らに言い聞かせた。

 しかしこれでへこたれている場合ではない。時間は有限である。次に僕は部室に向かった。今の時期は大会も無く、朝の練習は個人の裁量に委ねられている。

 僕は当然、練習をするために向かうのではない。今日の目的はあくまでチョコレートなのだ。

 部室の扉の前には、期待通りマネージャのエミリが立っていた。一年後輩で、短く切り揃えた髪はエミリの活発さをよく表しており、普段は田舎臭いとすら感じるジャージもエミリが着れば一転して健康美の象徴に思える。その底抜けの明るさ、はつらつとした声、どんなときにも欠かさない笑顔はこの部活においても非常に重要な存在である、我々部員のモチベーションを維持する為に。

 そんなエミリであれば、はい、先輩、勿論用意していますよと朗らかに笑って、僕を救済してくれるに違いない。

 僕はエミリのすぐ横に立って、軽く挨拶をし、すぐさま本題に入った。

「ところで今日が何の日か、勿論わかっているとは思うが、僕としては是非ともエミリからチョコレートを頂戴したく思う。それは当然、同じ部活に所属し、共に夢を追う仲間としての意味であるから、深く考えず、あまり意識せずに受け取るつもりだし、そのように渡してくれると嬉しい」

 出来る限り慎ましやかに、特別なことではないと強調して、気軽に渡せる空気づくりを心掛けた。

「先輩、私、彼氏いるんですよ、だから他の人にはあげません。誤解されるかもしれませんし、何より好きな人に対する誠意というものを、きちんと示したいのです。ですから、先輩だけでなく、他の部員の方にも、あげることはしません。さあ、残りの時間は少ないですが、先輩も早く着替えて、練習してください!」

 この寒々しい曇り空の下でも、エミリは向日葵を彷彿とさせるにこやかな笑顔でそう告げた。

 良いことではないか、大切な部活の仲間が、彼氏に対してここまで愛情を持って、相手の気持ちを考慮しているのだから、僕としてはそれを応援する以外に、どんな対応が出来るというのだろう。チョコレートを貰えなかったことは残念だが、エミリの満開の笑顔を見られただけ、まあ十分だろうと納得した僕は、部活に参加することなく、逃げるように部室を離れて教室に向かった。

 さて、オリエは兎も角エミリからは貰えるだろうと考えていた僕は少々逼迫していた。言うなれば最有力候補だったのだ、エミリは。そしてオリエから軽やかに逃げられた僕の噂はすでに教室中に広まっており、友人からは馬鹿な真似をしたなとからかわれ、女子連中は僕を軽蔑した目でひそひそと話をしたりオリエの周りに集まっていたりで、とても他の女子にチョコレートの話題を振る雰囲気ではなかった。

 しかし僕は諦めたりはしない。ぎりぎりだが、まだ心は折れてはいないのだ。それにチャンスが無いわけではない。

 隣のクラスのウサギ。この高校では合同授業という制度があり、隣のクラスと同じ部屋で授業を受ける時間が設けられている。ウサギはその授業で顔を合わせ、その度に仲良く話をする関係にある。幸運にも今日はその合同授業がある。今日が火曜日で良かった、と心底思った。隣のクラスならば僕がオリエに行った、友人曰く蛮行と呼ばれる行為の話は届いていないだろう。

 ウサギは男女区別なく平等に接し、ややもすれば馴れ馴れしいと感じるほどに他人との距離が近く、誰彼構わず出会ったその瞬間から友人の仲間入りを果たす類稀な社交性を持った人間で、更に言えば恋人もおらず、バレンタインデーのような乱痴気騒ぎ的行事には我先にと参加するような、のりの良さを持ち合わせているのだ。

 そんなウサギならば、さも当然の如く僕にチョコレートを渡し、お返しは三倍だからね、と悪戯っぽく笑うだろう。寧ろ僕が何か言う前にそのようなことになってくれるかもしれない。

 合同授業の時間、僕はさっそくウサギの隣に座り、教師の目を盗んで雑談を始めた。いつも通り、昨日聞いたラジオのこと、クラスで起こった些細な出来事、飼っている犬の話などを続け、焦れた僕はそれとなくチョコレートの話題に移した。

「そう言えば今日はバレンタインデーで、まあ世の中の男女は甘酸っぱいやりとりをしているそうだが、僕としてもそういうものを貰えるのならばやぶさかではない。いや寧ろホワイトデーに何を返そうかなと悩める喜びが味わえるわけで、それは僕にとってとても楽しいことなのだ。愛情の有無ではなく、単に友人間でそういうやりとりをするのが、何と言うか素敵に思えるのだが、どうだろう、僕にひとつ、チョコレートを渡してみては」

 義理チョコでも構わないしお返しはきっちり行うと暗に匂わせて、少し冗談っぽく、しかし決してふざけているつもりも、茶化しているつもりもないということが伝わる、絶妙のバランスを維持した口調と態度だと、我ながら感服した。

「ああ、ごめん。女の子同士で渡しあって、それで終わっちゃった。てかさ、君に持ってくるわけないじゃん、好きでもないのに。それに、義理って言ってもね、あげたって事実は変わらないし、それで変な噂が立っても嫌でしょ」

 ウサギのそのつっけんどんにも受け取れる率直さは、僕には却って有り難い、そうとも、変に言い訳をするよりは、こうやって正直な気持ちをぶつけてくれた方が、ずっと納得するものなのだ。そう、納得したかった。納得しようとした。だが、それは困難を極めた。

 まだ授業中でその場を離れることも出来ない僕は実に滑稽に笑って誤魔化していた。授業の終了を告げる鐘を、これほど待ちわびたことはなかった。

 何ということだろう。ウサギにまで断られるとは。なにも手作りの、乙女のいたいけな心がたっぷり含まれたチョコレートを求めているわけではないのに、そんな高望みは、勿論していないと言えば嘘になるが、しかしどんなに小さくとも、ついでであっても、駄菓子屋で数十円で売っている安い物でも、僕は十分満足するのに。ただの一つも貰えない、そんなことがあるだろうか、許されて、いいのだろうか。

 放課後、意気消沈した僕は廊下をとぼとぼと歩いていた。念のために机の中、ロッカーの中を、それと気付かれぬように探したが、可愛らしい色合いの包装の欠片も甘い香りも無く、一縷の望みすら消えた。

 このまま残っていても、どうせ同じだろう、部活動に出ることも、煩わしい。そう考えて、下を向き、敗北を殆ど確信して昇降口に向かった。いっそこのまま家に帰らず、どこか放浪の旅に出ようかという現実逃避を行いながら。

 好機は、そんな時に僕の目の前に現れた。下級生らしき生徒の、元気のいい別れの挨拶が聞こえてつい顔を上げると、そこにはイリス先生が生徒に手を振っている光景が見えた。

 イリス先生は新任の英語教師で、さる有名な国立大学を卒業してこの高校に赴任してきた。まだ不馴れな為か失敗も多く、時々は生徒に間違いを指摘されて赤面する場面もよく見られたが、根が真面目で、幼さと大人の色香を併せ持ち、海外留学の経験を活かしたネイティブな発音が特徴的な、特に男子からの人気が高い教師だった。

 イリス先生は僕の悲愴感溢れる表情に気付き、わざわざ僕のところまで近寄ってきて事情を尋ねてくれた。まるで天使か女神か、そういうものに思えて、低い太陽が窓を通過してイリス先生を照らすのが、とても幻想的かつ神秘的に映った。

 僕はイリス先生に、自分の思いを吐露した。

「先生、今日はバレンタインデーなんです、しかし僕はたった一個のチョコレートも貰えませんでした、だからこんなに悲しいのです。どうか先生、僕をお救い下さい。本当に、たった一つ、チョコレートを戴けたら、今日という日が無駄ではないのだ、ひいては僕自身、全然無駄ではないのだと思えるのです」

 実に惨めに、そう見えるように演出して、自らを人質にして懇願する、卑怯なやり方だと思った。心優しいイリス先生を、騙していると思った。それでも、僕はチョコレートが欲しかった。

「あのね、よく聞きなさい。まず、君の人生は、そんなものに左右されるほど安くはないわ。バレンタインデーにチョコレートを貰えたか、なんて、単なる一つの結果に過ぎないのだし、それは君の価値に何ら影響は無いの。女の子に人気があるか、なんて、それこそ流動的な評価に過ぎないし、今後どんな風に生きるかは、君次第なのだから。それから、もう一つ。学校にお菓子を持ち込んじゃ、いけません。当たり前のことでしょう? 先生が持ってきていると、どうして思ったの? さあ、部活に向かうのか、お家に帰るのか、わかりませんが、いつまでもそんなことで落ち込んでいないの」

 イリス先生の言葉は正しく、そして模範的な回答であった。そうとも、僕はチョコレートが無いと死んでしまう体質ではないし、女の子にもてないのは今に始まったことではない、それに、学校でチョコレートを渡し渡されだなんて、どう考えたっていけないことなのだ、とは、しかしながらちっとも思えなかった。納得なんて、してたまるかという思いだった。

 理屈や真理なんて、どうでもよい、僕はチョコレートを貰いたいのだ、女の子が僕を好いてくれているという証拠を、形にしてほしいのだ、と叫びたい気持ちを必死に抑え、僕はイリス先生に一礼をしてからなるべく元気にさようならと言った。にこやかな、やりきった表情のイリス先生から離れたいと思い、急ぐように昇降口を目指した。


 校門を出て、他の生徒に混じって駅までの道を歩く。遂に、戦場で何の成果も得られなかった。今年も敗者として、母親からのチョコレートに殺される運命にあるのだろう。涙こそ出ないものの、絶望が全身を包み込んでいた。

 いっそ、どこかに寄り道して、チョコレートを購入しようか、それを貰ったものだと偽って、母親に一矢報いようか。いやそれは自害と変わらない、寧ろ死ぬよりもずっと辛いことになる。貰って、もう食べてしまったからここには無いと、嘘をつくのも同じだろう。

 初めから、こういう結果になるのは明白だったのかもしれない。僕は色々と間違えすぎていたのだ。そう、受け身であっただなんて、見当違いもいいところなのだ。

 女子からチョコレートを貰えるような人間は、バレンタインデー当日だけ必死になったりはしない。そういう人種は、毎日きちんと女子に優しく出来たり、身だしなみに気を使ったり、好かれるような行動を欠かさないのだ。日々の積み重ねが、この二月十四日のチョコレートという結果になるという、それだけの話なのだ。僕のように、今日だけを頑張ったりはしない。昨日と、一昨日と、明日と明後日と、ずっと頑張っているのだ。

 それに、そもそもバレンタインを決戦だなんて考えること自体、愚かなことなのだろう。それはつまり、自分の自尊心を守ろうとする、浅はかな考えであって、純粋に人を想うことから、あまりにかけ離れている。認められたい、自慢したい、他人より少しでも優位になりたい、そういった人間にチョコレートを渡さなかった四人は、そして他の全ての女子生徒は、とても正しかったのだろう。

 しかし、いや、それ故に、とても虚しい。そして憂鬱だ。僕は明日から、どんな顔をして学校に通えばいいのだろう。今日一日無様に踊って、きっと女子の評価は地に這いつくばるほど低いものになったろうし、男子からは暫く笑われ続けるだろう。

 嘆きたくなる、泣きたくなる、しかしこれは罰なのだ、自分勝手な欲の為に女子を利用しようとした、僕の罪に対する天罰なのだ。

 と、うだうだ考えていたところに、後ろから声を掛けられた。振り替えるとそこにはアオイが小走りに近付いてきており、僕の横で速度を落とすと何やら複雑そうな顔をしながら呼吸を整えた。

「今帰り? じゃあ、一緒に帰ろうよ、久し振りに」

 アオイは僕の幼馴染みである。幼稚園入園以前より親交があり、小さな頃はよく二人の親と共に公園で仲良く過ごした関係である。しかし、それも今は昔。中学生になった頃から徐々に疎遠になり、高校生になった現在では、例え朝のホームで見掛けても、廊下ですれ違っても挨拶もしない、そんな間柄になっていた。

 僕の、恐らくは情けない表情の顔を一瞥して、アオイはくくく、と笑った。

「どうしたのさ、そんな暗い顔をして。あ、もしかして、バレンタイン?」

 ああ、と肩を落とす。そんなに暗い表情なのだろうか、敗者とは。

 僕はアオイに、簡潔に事情を説明した。ある四人にチョコレートの催促をして、しかし誰もが一様に、さも当然のように首を横に振ったことを。

「何だってそんなこと、したのさ?」

 僕は胸の内を吐き出した、不思議なことに、アオイになら何を知られてもいい、アオイにだったらどんなことでも話せる、そんな感覚だった。昔と何も変わらない態度で接してくれるアオイの隣が、妙に心地よく思えた。

「バレンタインデーにチョコレートを貰えない苦しみが、アオイには理解できないだろうか。僕は毎年この日には、死んでしまったような気がしていた。だから今年こそは、チョコレートを貰いたくて仕方なかったんだ。あんまりにも愚かだとは、わかっているのだけれど、もう我慢の限界だった。そして失敗した。思い付く限りの知り合いに催促をして、見事散ったのだ。僕が愚かだから当然とは言え、しかしその残酷さは、僕には重すぎる。悲しい。惨めだ。やるせない」

 心の内が、素直に口から出た。もやもやが少しだけ解消された。

 アオイを見ると、何だか笑っているような、怒っているような表情で、顔をほんのりと赤らめ、急にそわそわとしだした。

 昔に比べて、髪が伸びたんだな、と関係のないことを考えた。

「そ、そんなにも、欲しいんだ、チョコレート」

 僕は大きく頷いた。世界の常識を問われた気分だった。

「勿論だとも、誰でもいい、どんなに小さくても、何だったら不味くても一向に構わない。チョコレートが、喉から手が出るほど欲しい! 買うのではなく、誰かから手渡されたい! そうでないのならば、知らない間に鞄の中にでも忍ばせておいてほしい!」

 先程までの反省を全部覆して力説した。強く握り締めた拳を振って、壇上で演説をするように。人はそう簡単に変わらない、僕の愚かさは、そう簡単に失われない。

「そっか、うん。あのね、まあ、なんと言いますか、別に何がどうという話でも、ないんですけれども」

 アオイは何故か敬語で、もじもじとしながら鞄に手を突っ込み、何かを探している様子だった。

「一応、こういう日だし、一応、幼馴染みだし、いや、毎年どうしようかなって考えていたんだけれど、そんなに言うのなら、じゃなくて、ええと、その、はい、これ」

 渡されたのは、桃色の包装紙と濃い赤色のリボンで綺麗に飾られた箱だった。許可を得て中身をあらためると、そこにはやや形の歪な、しかし一目でハート型とわかる、いかにも手作りらしいチョコレートが入っていた。

「その、うん、た、多分、美味しいと思うから。じゃ、じゃあ!」

 呆気にとられている僕を置いてアオイはぱたぱたと駆けていき、その姿はすぐに見えなくなった。一緒に帰ろうと言ったのはアオイだったのに、と僕はまた全然関係のないことを考えていた。


 好きな男に贈る本命チョコ、御中元のような義理チョコ、女同士で渡し合う友チョコ、男が女に贈る逆チョコ、昨今では自分用の自チョコなんてものもあるらしい。

 では、このハート型のチョコレートは、何と呼べばいいのだろう。アオイから僕へ、つまり男から男へ渡されたチョコレートの名もわからぬまま、僕は途方に暮れた。

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