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八日目(前半)

 目が覚めると、丸一日経過していたことを鳥から聞かされる。鳥の声に、昨日の出来事は現実であったと認識する。

 猫人間はいなかった。やや木がまばらなためか、日差しが明るく降り注ぐ。快晴である。


 起き抜けにまずはリュックを探り、水を一口飲んだ。一昨日残しておいた乾パンの半分を取り出したが、情けないことに歯が立たない。

 思い立って救急セットのふたを外し、引っくり返して水を張る。そこに乾パンを浸すと、柔らかくて食べやすくなった。消化にもいいだろう。代わりにおそろしく不味い。半分を食べきったあたりで気持ち悪くなり、それ以上の食欲をなくす。

 猫人間は狩りに出かけたと聞かされたため、今のうちに手帳を開く。書き連ねずにいられないのは、これはもう病気のようなものだ。





 なにしてるの、と鳥が尋ねてきた。調度一昨日の鳥と会って以降の出来事を、思い出しながら手帳に書いているときだ。

 一文、きりのいいところまで書いて筆を置き、鳥を見やる。

 枯れ葉の寝床の上。猫のにおいがする。鳥が私の頭にとまって手帳を覗き込んでいた。

「日誌だ」と私は応えた。一日の行動を記録しておくものだ。今の私の場合は、気持ちを落ちつかせ、出来事を整理する目的で書いている。

「ふうん」と鳥は良くわからなそうに頷く。言葉という概念がないなら、文字という概念もないのかもしれない。


 そう、一昨日の出来事を記している際に、決めたことがある。

 この一連の不可思議について、とりあえずはすべて受け入れるということだ。


 まず、この鳥は喋る。そして私と会話ができ、あの猫人間とも意思疎通ができる。自称精霊であり、生態系を超越した存在であり、さらには他人の傷を治すことさえできる。

 正気の沙汰とは思えないが、ありのまま認めてしまう。現実か妄想かという疑惑は、どれほど考えても答えが出ない。ゆえに考えることは無意味だ。

 現実ならそれでよし。妄想であるのならもはや手遅れである。おそらく二度と正気には戻れないと思われるため、それはそれで追及をする必要性がない。


 私は精霊を名乗る鳥に助けられ、猫のような人間(おそらくは原人だろう)とともにここで過ごすことになった。この世界には文明がなく、猫原人の支配する野性的な地である。

 一応身の安全は保障されているらしい。代わりに、言葉を教えるようにという鳥の依頼がある。長く森で暮らすことになるかもしれない。

 これが手帳に記すことによって整理された、現在の私のすべてだ。



 ぬるい風が吹き、私の髪を揺らした。思い立って立ち上がると、一瞬立ちくらみがする。体が重く感じられたが、それでも頭は幾分かすっきりしていた。思った以上によく眠れたらしい。

 丸一日も眠れば当たり前かと納得する。私の警戒心なんて紙切れに等しい。

 それから、私は改めて自分の姿を眺めた。首をかがめると、頭にとまっていた鳥がバランスを崩して羽ばたいた。文句を言ってくるが特に聞かない。


 予想通りひどい有様だった。服は泥だらけであり、木に登って降りてを繰り返したせいか、シャツがほつれて破れかけている。ジーンズはさすがの頑丈さだが、靴の底ははがれかけていた。

 右手に巻いた包帯は片寄って、手首のあたりで輪を作っている。傷口はむき出しだ。火傷はそれほど良くなっているとは思えない。見るからに痛々しい有様であり、実際に痛い。

 左手も同様。すでに皮膚に覆われた傷口がじくじくと痛む。手のひらを握ってみると違和感がひどい。見ると目で痛さを感じてしまうので、できるだけ指には目を向けないようにした。

 体は汗でべとついている。少し自分の体を嗅いでみて、すぐに後悔した。やはり私は清潔な世界に生きていたのだ。運動もろくにしないから、汗臭さとさえ無縁だった。風呂か、せめて水でもいいから体を拭いたい。

 そんな欲求がわくあたり、少し心に余裕が出てきているらしい。


 ため息をついていると、私の右手を見る鳥の視線に気づいた。いつのまにか肩にとまり、小首を傾げてじっと見つめている。

 昨晩の不思議を思い出し、「治してほしい」という旨をちらりと伝えると、鳥は羽で私の頬を叩いた。

「それが人に物を頼む態度か」

 実に居丈高な鳥である。

 いや、思えば発言自体はもっともだ。相手は特に親しくもない一昨日会ったばかりの鳥。おまけに命の恩鳥であるのに、思えば初めから敬語もない。

 無礼で馴れ馴れしかったのは間違いない。鳥の口ぶりと見た目から、どう接するべきか態度を決めかねていたのがいけなかったのだろう。

 精霊というからには敬うべきなのか。しかしそれにしては人間味がありすぎる。無意識に砕けた接し方になってしまうのは、日本語への親しさか、それとも鳥の人間性(鳥性?)によるものか。

「軽く言ってくれるけど、簡単に傷を癒すことなんてできないんだよ。条件だっていろいろあるんだ。人の都合も考えてほしいよ」

「ごめんなさい」と言って、私は素直に頭を下げた。神ほど万能でないらしい精霊には、それなりの制約があるようだ。しかし、鳥に叱られるのは生まれて初めての体験だった。

「だいたい、要求には対価が必要だよ。精霊はそこんところシビアなんだ。君が出すもの出すって言うなら聞いてやってもいい、ギブアンドテイクだ」

「出すもの?」

「この前のあれだよ、あれ。ほら、あの甘いやつ」

 鳥が半目になって私を見やる。どうにもこの鳥とは仲良くできなさそうだという予感に襲われながら、私は足元のリュックを開いた。


 中から取り出したのは、飴だ。個包装された飴を一つ取出し、以前と同じく無線機の角で砕いて欠片を差し出す。手のひらに乗せると鳥が飛びつき、喜び勇んでついばんだ。

「精霊のくせに物を食べる?」

「精霊だって食事をするさ。この体自体は生身だからね」

 生態系を超越していて、生身であるらしい。なかなか理解しがたい。思わず羽を触ってみると、鳥が驚いて飛びのいた。「なにをする!」とぎゃんぎゃん文句を言う。手には、確かに羽の薄くやわらかな触感があった。

「……精霊はみんな鳥なの?」

 いぶかしみつつ尋ねる私に、鳥は恐る恐る近づいてきた。自分から寄ってくるくせに、触られるのは嫌いらしい。

「そりゃあ精霊それぞれだよ。僕だって今はこの姿なだけだ。その前はもっと別の生き物だったこともある。鳥は飛べるけど、捕食されるからあんまり気に入ってないね」

「捕食されるの? 精霊なのに?」

「……君は質問が多いなあ」

 私の問いに対して、鳥はうっとうしそうにそう言った。

「精霊だっていろいろだよ。体がないとこうして君たちとも接触できないし、肉体を保つためには食べないとだめなんだ。……ほら、約束だから手を治してあげたよ」

 言われて気が付く。包帯からのぞく右手の火傷が消えている。痛みと火傷の跡は残っているものの、水膨れもただれた皮膚もない。薄い新しい皮が、ぴんと張って手のひらを覆っていた。

 すごい、と思わずつぶやいていた。どういう原理なのだろうか?

 湧き上がる疑問を口にする前に、しかし邪魔が入った。猫人間が帰ってきたのだ。


 疑問は即座に吹き飛んだ。

 森の茂みから姿を現し、まっすぐにこちらに向かってくる猫人間から、私はすぐに目を逸らした。逸らしながら、しかし好奇心に敵わず目を向ける。そして見たことを後悔する。

 猫人間は血まみれだった。そして肩に、猫人間以上に血まみれの生き物を担いでいた。

 見たところは鹿のような四足動物だ。喉元が抉られて、担がれている今も血をたらしている。虚ろな目をしているのに、時々体が痙攣しているのか、手足が震えていた。大きさ自体は大型犬くらいだろうか。鹿に比べたらかなり小さいが、それでも圧倒的な迫力があった。


 腰が抜けた。腰も随分と抜かし慣れたものだ。枯葉の上に手をつき、おびえる私の前にやってくると、猫人間はその生き物を地面に下した。

 私を一瞥し、猫人間はにゃあにゃあと鳴く。それを受けて、頭にいた鳥が飛び出てくる。

「好きに食え、だってさ」

 生肉じゃないですか。

 おののく私に対して、猫人間はもうすでに噛みついている。鋭い牙で肉を裂いて、咀嚼する音が響く。血まみれだからか生の肉だからか、水音がやけに生々しい。

 生々しいのも当然で、それこそが生肉なわけである。

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