六日目(後半)
私はついにあの場所を離れることになった。
その理由はあまりに信じがたく、荒唐無稽な出来事による。落ち着いて手帳を広げている今でも、幻の中にいるような気分だ。
どこから書き記すべきだろうか。少し長い記録になるかもしれないが、順を追って書いていこうと思う。
また、事前に注釈をつけておく。
以下に記す出来事を実際に体験した当時、私の精神は正常とは言い難かった。意識はもうろうとし、記憶はあやふやである。ゆえに多少の脚色と、現在の私による思考の補足が入っていると思われる。
まず、眠りについていた私は日暮れ前に起こされた。顔をなにかに突かれたのだ。
ついに死ぬ時が来たのかと覚悟したことを覚えている。だが、抵抗する気力も体力もなかった。
おそるおそる目を開ければ、そこにいたのは一匹の鳥だった。あの、よく見かける地味な鳥だ。私の顔の上に丸く座り込み、くちばしで耳のあたりをついばんでいる。つつくというよりは、甘噛みに近かった。
起きた私と、つついていた鳥の目が合う。鳥は逃げるそぶりもせず、小首を傾げて見せた。
そして口をあけ、「助けてあげようか」と言った。
この時の私の驚きは、文字にするまでもない。耳を疑い、目を疑う。紛れもない人の声であり、私のよく知る日本語だった。
唖然とする私の頬を陣取りつつ、鳥は覚えている限り、以下のようなことを言った。
「どうにも一人で生きていけないみたいだし、助けてあげようか。いやね、しばらく黙って見ていたんだけど、このままだと普通に君、死んじゃうでしょう。そんな悪いやつじゃなさそうだし、餌をくれた恩も一応あるし、それにまあちょっと頼みたいこともあるし。どう? 僕の頼みを聞いてくれたら、安全な場所に連れて行ってあげるよ」
どう考えても「ぽっぽ」としか鳴けそうにない口から出る言葉だった。驚きのあまり、気力を失っていたことさえも忘れて体を起こす。顔に止まっていた鳥は慌てて飛び立ち、私の正面の地面に再び座り込んだ。
「傷口も塞いであげるよ。どう? 少し話を聞いてみない?」
どうして、や、どうやってという感情よりも先に、幻聴であると私は確信した。鳥が言葉を話すはずがない。
おそらく私は人恋しさのあまり、聞こえない言葉が聞こえてしまっているのだ。ついに頭がおかしくなってしまったのだ。
無意識に笑い出していたらしく、鳥の方が首を傾げる。「どうしたの」と言った鳥の声は、不機嫌そうに聞こえた。それがまたおかしい。私自身がおかしいのか、鳥の口調がおかしいのかは判別しがたい。
「話を聞く気がないならいいよ。僕は行く」
苛立ちながらそう言い、羽を広げた鳥を引き留めたのは私だ。幻聴でもいいから人の声を聞いていたかったからだ。
それに別に、幻聴を追い払って気を強く保ったとしても、この場にいたらどうせ死ぬだけなのだから変わりない。最後くらいはいいじゃないか。とまあ、そんな気分だった。
「頼みとは何か」と問い返す私に、鳥は再び羽を閉じる。
鳥曰く、会ってほしい生き物がいるらしい。人間か、と尋ねれば首を傾げる。どうやら、「君と同じ種ではない」とのこと。
「まあ、とにかくついてきてよ。あの子と一緒なら、他の動物に襲われる心配はあんまりないと思うよ」
鳥の誘いは言葉足らずで、意味の分からないことが多すぎた。いや、この時の私は幻聴だと思っていたのだったか。しかし理解が追い付かなかったのは確かだ。
以降、問答を繰り返すこととなる。
まずは目の前の鳥は何者なのか。
幻覚だろうという私の嘲笑を、鳥は断固として否定した。ならばお前はなんなのか。
言葉を話すということは、それだけの知性があるということだ。
鳥がこの世界の支配種なのか? そもそも、どうして日本語を喋っている? どこから声が出ている。
まずはじめに、「支配種ではないと思う」と鳥は曖昧に答えた。そしておおよそ、こんなことを言った。
「支配種って、君で言うところの生態系の頂点にあるということでしょ? そうじゃない。僕は生態系からは外れている。なんというかな、超越しているというか」
つまり神様だろうか、と尋ねる。半ば本気の質問であった。これが幻覚でなければ、他に考えられるものはない。
「君で言うところの神様とも違う。そんな万能なものじゃない。上手く言えないけど、風とか空気とか、意思のないものの意思というか」
アニマ? 精霊? やおよろず? そんなものを並べ立てると、鳥は納得したらしい。
「そう、精霊。そんな感じ。だいたいそんなニュアンス」
すっきりした様子で、鳥の声が弾む。だが、対する私は納得できずにいた。
精霊など、そんなものいるはずがない。そんなことを言って笑った気がする。神を信じて精霊を否定するのも奇妙な話だが、この時は本気でそう思ったのだ。
神か妄想でなければ、日本語で会話ができるはずがない。ニュアンスなんて言葉が出るはずがない。
私の疑問に、鳥は肩を(羽を?)すくめるようなしぐさをした。これもまた、地球的な動作だ。
「僕は言葉を発しているのではない」
鳥はそう答えた。あくまでも伝えているのは意思だけである。その意思を言葉として受け取っているのが私、だと言う。
隣に別の生き物がいれば、その生き物にはまた別のものとして聞こえているだろうか。たとえば英語圏の人間がいるのなら、英語に聞き取られている可能性もあると?
首をかしげる。どうも私の想像力の範疇を超えている気がした。
おそらくこのあたりで、眼前の鳥の実在を信じ始めたのではないかと思う。もしかしたらと考えがよぎる。
もしかしたら、これは現実なのかもしれない。もしかしたら本当に安全な場所へ連れて行ってくれるかもしれない。もしかしたら、私は助かるのかもしれない。
なにより、人の声を聞いていたいと思った。たとえ相手が鳥であっても、実在しない幻覚であっても。
この言葉を発するものが離れて行ってしまうのが、あの時は一番怖かった。
ただし、あの場を離れることについてだけは、私の頭を悩ませた。
こちらへ渡った時の出現点があの場所なのだ。同じ手段で渡ってくるのならば、救援もまた同じ場所に出現するはず。生を諦めかけてはいたものの、未だに救援を諦めきれていなかったらしい。
それでも十分に悩んだ末、私は離れることを決めた。
救援についても、未だ半信半疑な鳥の実在についても、最終的には「今さら何を」という意識が勝った。幻覚であろうとなかろうと、おそらく私が野垂れ死ぬのは間違いない。
それに死ぬ前の救援を期待するのは、この鳥が幻覚ではないと信じることとそれほど違いないように思われた。
誘いに乗るということを伝えると、鳥は羽ばたき、地面についた私の左手の前に飛んできた。
戸惑う私の見ている前で小首を傾げ、そのまま動かない。しばらくそのまま時間が過ぎた。
「約束だからね」と鳥が言って、我に返った。鳥の見ていた私の左手を持ち上げ、眺める。
傷口がふさがっている。噛みつかれた腕の方も同様だ。きれいに傷跡が消えたというよりは、薄く真新しい皮膚が傷口を覆い隠しているように見える。元の肌に戻るまではしばらくかかりそうだった。
左手の小指は、第二関節のあたりで皮膚に包まれていた。一見するとウィンナーにでも似ているだろうか。間違いなく傷口がふさがっている。いったいどういう原理なのだろうか。あとあと、あの鳥に尋ねてみるべきだろう。
今思えば、目の前で起きたこの現象は心底驚くべきことだった。もっと混乱し、動揺してもおかしくない。しかしこの時は理屈や原理などまったく考えもせず、私は落胆していたのだ。
肉と骨が見えていた時に比べればだいぶましだろうが、ふさがれた傷口は「なくなった」という現実を私に突きつける。指は戻らないのかと尋ねると、鳥は首を振った。
「治すことはできても、戻すことはできない」とのことだ。
間もなく夜になろうという時だった。時計を見ると五時。空が暗くなり始めていた。すぐにでも出かけると鳥が言うので、準備をする。
立ち上がると強い眩暈を覚えたが、思った以上にしっかりと足の感覚があった。細々ながらも食事をしていたのが救いだったのかもしれない。
準備と言っても、持ち物はおおよそ寝袋の袋にまとめて入っている。袋は枝にぶら下がったままなので、鳥に頼んで枝を切って落としてもらった。意外に小器用なやつだ。
それからしばらく使わずに捨て置かれた寝袋と、中身の空になっていたリュックを拾う。リュックの傍には無線機のバッテリーが落ちていたので、これも拾う。
粘ついていたリュックも、数日風雨にさらされていたせいかすっかり乾いている。口を広げると、乾いた糊みたいにぽろぽろと粘液がはがれた。
ためらいつつもリュックの中に、寝袋の袋と、寝袋本体を詰める。懐中電灯は手に持ち、万一に備えて無線機をリュックの側面に下げておいた。
その作業の間、鳥が興味深そうに私の肩に留まって様子を見ていた。「それなに」と無線機を触っているときに聞かれたので、そのまんま「無線機だ」と答える。
「なにそれ」という鳥の返答には少し驚いた。ニュアンスで伝わるのではなかったのだろうか。そんな旨を尋ねると、鳥は首をひねる。
「もともと知らないものは、ニュアンスもわからないよ。それ、この世界にはない概念のものだね」
まったく知らないものは伝わらないらしい。そういうものなのか。
準備を終えた後、少し思い立ってナイフを取り出す。長らく枝に世話になった木の幹にナイフを突き立て、木の皮を抉った。抉ったといっても、実際のところ現在の私は手にほとんど力が入らない。表面を浅く削り取ったと言った方が正しいだろう。
それでも、何度か削ればそこそこ深い傷になった。「なにしてるの?」と鳥が聞いてくるので、「目印を付けた」と答える。もしかして、またここに戻ってこられるように。おまじないみたいなものだ。鳥は頷いた。「それは僕の世界にもある概念だ」
この世界、どんな世界なのだろう?
問答するうちに暗くなっていたので、懐中電灯を灯して森を歩くことになった。
明かりをつけるなんて自分の居場所を知らせているようなものだが、明かりがなければ一歩先も見えない暗闇だ。空の月は地球では考えられないほど明るいが、それでも深い森までは差し込まない。
歩くスピードは、おそらくひどくゆっくりだったはずだ。私の体力がろくになかったため、リュックも背負っての移動はきつかった。息を切らして歩いたことを覚えている。汗はなく、体がからからに乾いたような感覚だった。
今から考えれば、森を歩いて移動するだけの体力があった事の方が驚くべきことだろう。捨て鉢な心が、最後の力を私に与えてくれたのかもしれない。
歩きながら飴を取り出す。もはや空に近い体力を、少しでも保とうと思ったのだ。そうしたらあの鳥がまた「それなに」と聞いてきた。「飴だ」と答えてもわからない。「甘い菓子」→「砂糖のかたまり」→「蜜のかたまり」と回答を変化させていき、やっと最後で納得してもらえる。
食べたいというので、無線機の角で飴を砕いて、手のひらに乗せて差し出した。小さめのひとかけらをついばむと、鳥は明るい声を上げた。
「おいしい」
お気に召したようだ。
生態系の外にいる癖に、思えばなんであいつはよくものを食うのだろう。餌の恩とか言っていたからには、あの缶詰を食べたのもあの鳥だったのか。あの鳥はいったいなんなんだろうか。
歩きながら、たしか今度は私が鳥に質問をされた記憶がある。
「どうしてこの世界に来たの?」だそうだ。私は「どうして別の世界から来たとわかるの?」というようなことを問い返したはずだ。
「そりゃあ、君はこの世界には無い概念だから」
よくわからないと伝えると、鳥はもう少しわかりやすく言った。
「この世界に、君と同じ種類の生き物は本来いないってこと」
当時の私は相槌を打つだけだったが、今思えばなるほど、要するにこの世界に人間はいないのだとわかる。人間以外の種が繁栄しているのだろうか。そもそも文明を持つだけの生き物がまだいない可能性もある。
そのあたりの疑問や推察について、深くここに記すのはやめておく。後日、まとめてメモにでも残しておこう。
鳥の問いには、私は素直に答えた。
隠し立てするようなことでもない。元の世界で戦争が起こったため、別の世界へ移動する装置を使って逃げてきただけだ。次元転移装置|(ディメンショナー?)だとか、そんな名前がついていたと思う。まだ開発途上のもので、私の国では人間が移動した記録はない。
もともとは別世界に資源を求めての開発された機械だった。だが完成より先に資源の方がなくなった。そのため今では避難用のシェルター代わりに、人間の住める世界を探す方が優先されている。この世界ももしかしたら、目星がつけられていたのかもしれない。
まあ、実際はこの世界に来たのは偶然だったのだが。
空襲から逃れるために装置を起動させようとしたとき、運悪く爆撃にあってしまったのだ。おかげで十数人規模での転移だったはずが、私一人だけこの世界にいる。他の人たちがどうなってしまったかはわからない。
装置の履歴を辿れば、私のいる世界もわかるだろうが、そもそも装置自体が無事であるだろうか。たとえ無事であったとしても、救援を呼べるだけの余裕があちらにあるだろうか?
救援を当てにできないと思う理由は、このあたりにある。
あちらでの出来事を話すうちに、私は涙ぐんでいた。汗はないが涙は出るものか。今思うと、水分が惜しい。
返答を聞いた鳥はふんふんと頷いていたが、納得しているかどうかはわからない。
他に話したことは、これから誰に会うのかと、会って何をするのかということだったはずだ。それについては鳥がよく喋ってくれた。
鳥の要望は二つ。「あの子と会ってほしい」そして「あの子に言葉を教えてあげてほしい」だった。
あの子とは、言葉とは。日本語しか教えられないがいいのだろうか。だいたい、言葉とはそう簡単に覚えられるものではないはずだ。
そんなことを尋ねると、鳥は一声大きく鳴いた。思えばあれば、あの鳥の唯一鳥らしい声だった。
「言葉という概念を教えてあげてほしい。大丈夫、あの子は頭がいいよ」
鳥の要望は、いまひとつ私に理解しがたい。それからいくつか質問を重ねたと思われるが、残念ながら記憶に残っているものはない。
その後、声も出せなくなるほどひたすら歩き、いつしか真夜中になった。私の体は抜け殻のようで、足を前に出すだけの機械と化していた。それでも歩いていたのは、誰かに会えるという希望があったからだ。
鳥は何度も立ち止まり、明かりに照らされながら私を待ち、進むことを繰り返す。夜目がきくのだろうか? 鳥なのに?
ついに足を止めた時、時計は十二時手前を示していた。周囲を照らせば、大きな木が一つ目の前に構えている。木々は他に比べると少し疎らだろうか。特別何かある様子ではない。
鳥が私の服を突いて、大樹に近づくよう促した。誘われるままに木に近寄り、「こっちだ」と言われるがままにその根元を照らす。
明かりに照らされたのは、枯葉を地面に敷き詰め、木の根元で丸くなる一匹の大きな獣だった。
懐中電灯の光を受け、その獣はまぶしそうに顔をしかめる。
何度か瞼を痙攣させ、それからゆっくりと目を開けた。半身を起こし、私の真正面に顔を向ける。
猫……と人の中間とでもいうのだろうか。灰色がかった毛並、頭上でピンと立つ二つの耳、光に照らされ、縦に瞳孔が細められた目。鼻をひくつかせるたびに、ひげが上下に揺れている。
イエネコよりはヒョウやチーターに近いだろうか。野性味を帯びた猫の顔。
その下。
首から下に伸びるのは、白く深い毛並に覆われてはいるものの、紛れもなく人間の体だった。
鮮明に覚えているのは、懐中電灯を持つ右腕。そこに巻きつけられた腕時計が、ちょうど十二時を示していたことだ。