六日目
晴天。しかし外は凍るように寒い。雪が降らないだけ、感謝するべきなのかもしれない。
こういう書き出しも久しぶりだ。こうしていると、まるで前の生活に戻ったような気がしてくる。
湯を沸かしながらぼんやりしていると、無意識に手帳を取り出していた。いつの間にか筆を握っていることに、自分自身で少し驚く。なぜ書くのか。私にもいずれは、手帳を置く日が来るのだろうか。
無意味な言葉を書き連ねつつ、頭は自然と昨日のことを考えている。
昨日、洞窟を出て後のことだ。
たしか、洞窟を出たのは、まだ朝の早い時間だった。
天気は良かった。その分、空気は刺すように冷たい。肌が凍るような思いだった。
出て行く私たちを最後まで見送ったのは、奇妙なことにあの女だった。
いや、見送ったというよりは、猫を輸送した、という方が近いかもしれない。暴れられては困るからと、猫を拘束したまま運んだのだ。もちろん、彼女自身が、ではない。実際に運んだのは彼女の部下の軍人たちだ。彼女自身は、猫とは別の大荷物を持っていた。顔色一つ変えず、重たげな荷を背負う彼女もまた、やはり軍人なのだと思わせた。
私はその後ろを、冷たい雪を踏みぬきながら歩いていた。寒いのに、息は上がっていた。ときどき彼らから遅れ、彼女が停止の号令をかけることも少なくなかった。見捨てられずに済んだことが、奇跡のように思われる。
だが、実際に歩いている時は、そんなこと想像もしなかった。必死に雪を分け、大股で進みながら、頭ではこの先のことと、猫のことでいっぱいだった。
これからどうしようか。死にかけた猫と私。雪の山。荷物はせいぜいライターと懐中電灯。役に立たない無線機くらいだ。書きかけの日記と、飴がいくつか。これでどうやって生きられる? こうして雪の山道を歩いていられるのだって、軍人たちが私に、服と靴を貸してくれたおかげだった。
だけど死ぬわけにはいかない。私は、死ぬために外に出たわけではない。
そんなことを思っていた。
彼らが猫を下したのは、少し山道を下った先の、雪の薄い場所だった。山の割には木々もまばらで、雪が陽光を反していた。そうだ。まだ、この時は日が高かったのだ。目に痛いほどに白い雪を、よく覚えている。
立ち止まったまま白い息を吐き、どれほどたったころだろうか。呼吸を整える私に、あの女が声をかけてきたのだ。「なかなか英語が上手い」だとか。彼女が雑談をしてくるなんて、思いもよらなかった。褒めてくれていたのだろうか。続けて、こんな意味のことも言っていた。
「言語が得意なのか? 他にできる言葉はあるか」
西側の言語は、私は英語以外あまり知らない。英語がそれなりにできるのは、言語に興味があったわけではない。ただ単純に、博士の論文が読みたかったからだ。日本語訳された彼の論文は、あまりに少なかったから。ああ、博士は本当に、私の憧れの人だったのだ。
そんなことを答えると、彼女は私の顔を無表情に見つめ、「原文で読むべきだったな」と言った。
それから。少し沈黙があった。思い返すも、不思議な間だった。
彼女は私から視線を外さず、私も動けなかった。竦むような威圧の中に、彼女の軍人らしからぬ深い知性を見た気がする。
「この世のもっとも不可思議なことは、理解できないことがないということだ。疑い、悩み続けろ。考えることを止めるな、学生」
それが鳥の、精霊のことを指して言ったのか。それとも、もっと別の意味があったのかはわからない。
ただ、その言葉に私は聞き覚えがあった。たしか昔の、大昔の偉大な学者の
アインシュタインの言葉だ。
そう言うと、彼女はほんの一瞬。幻のようなほんの一瞬だけ、微笑んだように見えた。
「生きて、学び続けろ。学生。お前はきっと、学者に向いている」
少しして、彼女は自分の抱えていた荷物を私に押し付け、部下を引き連れて帰っていった。彼らの姿が消え、雪の山の中に取り残されたところで、私は猫の拘束を解いた。
猫は小さく呻き、身動ぎをした。それだけ確かめ、私はまた、彼らの消えた雪山を振り返る。雪に残る足跡は森に消え、見えなくなっていた。洞窟の方向も、もうわからない。
これでもう、戻れない。誰にも頼れない。人間と会うことも、もうないのかもしれない。
本気で思った。
今も、思っている。
筆を動かしながら、ふと気づく。
もしかしたら私は、感傷に浸っているのかもしれない。
あの女が押し付けた荷物には、雪山の装備が詰まっていた。テントとストーブと、小さな鍋。シャベルとピッケル?のようなもの。種々の暖具と、使い道が今ひとつわからない数点の他、残りはほとんどが食料だ。
猫に上着を被せると、私は雪の中、一人でテントを張った。不慣れなもので、テントを張り終わる頃には空は真っ暗になっていた。それだけ時間をかけたのに、天井はたわみ、いびつに傾いでいる。風が吹いたら倒れてしまいそうだ。今日が穏やかな日で、本当に良かった。
それから、猫をテントの中に運び込んだ。テントの中でストーブに火をつけ、暖かくなりだしたあたりから、ぽつぽつと日記をつけている。
猫は眠りこけている。私はあいかわらず、猫の背を頻繁に撫でる。猫の体温を感じるたび、呼気に上下する背に気づくたび、ほっとしている。彼が生きているということに安心する。
大丈夫。以前とは違う。テントは石組みの家よりも、ずっと熱を遮断してくれる。暖防具もある。食料もある。水も、そこら中の雪を溶かせばいい。
荷物は以前よりも重くなった。その分、楽になった。
それなのに、ストーブの火が燃えているのを見ると、なぜだか泣けてくる。テントの中は暖かく、人の心地がする。それが私を苦しませる。
ああ、そうだ。
彼らは親切だったのだ。あの女ですら、そうだ。
今だから思えるのかもしれない。
捕虜だなんだと言っていたが、実際のところは、ほとんど客人の待遇だったと思う。私たちはなにも求められないまま、食事だけを与えられていた。猫も私も、大人しくさえしていれば、いずれは牢を出してもらえたのだろう。
そもそも。私を助け出した時点では、彼らは博士の存在を知らなかったはずなのだ。それなのに、猫の求めに応じて私を探し出し、助けてくれた。
それなのに、私はここにいる。
私は、猫と鳥を選んだのだ。彼らと対立するのだとわかっていて。
このまま猫が、彼らの仲間と合流してからのことを想像する。
猫が力を取り戻したら、彼らに復讐しに行くだろうか。私が教えた言葉を使うのだろうか? 人間と戦うために。
私と同じ人間を、殺すために。
猫を助けたいと思ったことを、後悔するわけじゃない。
どんな状況でも、私は猫を見殺しにできなかったはずだ。
だけど私は、人間の敵になることを、後悔しないでいられるのだろうか?
湯が沸いた。食事にしよう。
外に出てから、猫は少しものを食べてくれるようになった。それだけは嬉しい。