対話録570228
『えー、二月二十八日、十二時十七分。捕虜ナンバー三○六の呼び出しに応じる。アラン・リー上等兵、これより隊長とともに、捕虜の収容所に向かいます』
『………』
『………………』
『……お前の要求はわかった。
その「声」を残す代わりに、山猫とお前を逃がせと言うんだな? 道を知っているのは「声」。「声」を聞く人間はこちらにもいる。たしかに、道を知るだけならばお前たちは不要だ。その「声」が、信頼できるのならば。
ああ、わかっている。それは嘘をつかない。理論上、嘘を吐くこと自体が不可能なはずだ。撤回しよう。それの発言は、ある種の信頼に値する。
――――それで?
それで、お前たちを逃がすことで我々はなにを得る? お前の要求を呑まなくとも、情報を聞き出す方法を、我々はいくらでも持っている。
拷問? その「声」が言っているのか。さて。そういう手段もあるというだけだ。
お前と猫に害を為したら、二度と口を利かない?
そうか。ならば言っておく必要があるだろう。
そもそも我々は、お前たちから無理に情報を引き出す必要はない。博士の居場所は、おそらくはこの山の裾野。お前が死にかけていた森から、そう離れた位置にはないだろう。日記に出てきた川沿いを下り、しらみつぶしに探せば、見つけられない場所ではない。雪解けを待ち、春になれば、捜索も容易になるはずだ。
そう、そうだ。お前は今、我々の情けでここにいると知れ。我々にとって、お前たちが外で野垂れ死んだところでなんの痛手にもならない。
お前は交渉できる立場ではない。口をつぐめばつぐむほど、お前たちの待遇が悪くなっていくだけだ。肝に銘じておけ。
………………嘘、と。その「声」が言っているのか。……ふん、こちらの嘘もつけないというのは、少し厄介だな。無論、博士の居場所を見つけるのは、早いに越したことはない。
なんだ、まだ言いたいことがある、だと?
……言ってみろ』
『………………』
『……あなたたちは、今すぐに鳥――彼を連れて、博士の元に行くべきだ。早いに越したこと、ではなく、今すぐに。
ねえ。もしかして博士の気が狂っていると思っている? 発狂した博士自身には用がないから――たぶん、研究資料とか、博士の残した機械あたりにしか用がないから、それなりにしか急いでないんでしょう。だって、物は逃げないからね。
でも、その博士が正気だったら、どうする?
私の日記、読んだんでしょう。それなら、博士の考えていたこともわかるはず。彼は獣のような奇声の中に、同じ考えを込めていた。ずっと……ずっと、「精霊は素晴らしい、世界は素晴らしい」そう言い続けていたんだ。
……おかしいと思わない?
博士はそれ以外のことを、一切考えていなかったんだ。私に噛みつくとき、猫と揉み合っているとき、全部同じ思考だった。
その思考の中に、「行動」に対するものが、なにも含まれていない。獣だって、「敵だ」と思うから噛みつくでしょう? 「死にたくない」と思うから抵抗するでしょう?
ないんだ。なにも。
不自然なくらいに。
……私は、博士がわざとああしていたんじゃないかと思う。声を上げる時だけ、意図的に同じ思考にしていたんだ。精霊がどういうものだか、理解しているから。心の中を、読ませないように。
ああ、うん。これだけ聞いたら、むしろ博士のところには行かない方がいいって思うだろうね。そう、あなたの言うとおり、博士はまるっきり危険な人物だ。
だけど私が言いたいのはそこじゃない。大事なのは、博士が正気だと言うところなんだ。
博士は狂っていない。物を考えられる。字を読める。想像できる。
そしておそらくは、ひどい人間嫌いだ。
だからこそ、急がないといけない。
博士は大人しく、あの場所で待ち続けてはくれない。あなたたちがここにいると、知っているから。
なぜ? なぜ博士が知っているって?
私の日記に書いてあったじゃない。日記の前半分は、博士の元に置いてきた、って。
そこに、あなたたちのことが書いてある。
私の言うことは嘘じゃない。鳥に聞いてみるといいよ。
今言ったこと、訳して……うん、通じているけど。…………うん、ありがとう。ここまででいい。……ごめんね、ここからはちょっとだけ黙って。
…………日記には、この場所のことも、あなたたちのことも書いてあった。あなたたちが軍人で、猫と精霊を追いやったこと。もう長いことこの世界にいるのに、まだ帰還が叶っていないこと。
そう。その通り。私はもうずっと前から、あなたたちがここにいると知っていたんだ。当然でしょう? だって、あなたたちに追われた生き物と、ずっと一緒にいたんだから。
その日記を、今は博士が持っている。日本語だから、読むのに時間がかかるかな? だけど博士は、日本語のスピーチをされたこともあるから。知らない言語じゃない。とっくに読み終わっているはずだ。
博士はあなたたちのことを知って、どう思うだろう? きっとこう思う。――あの死にかけの遭難者は次は軍人たちに助けを求めるだろう、と。
博士の存在は、私の口からあなたたちに伝わる。あなたたちは博士を探しに出る。それを大人しく待つ気なんて、彼にはない。迎え撃つか、それとも、家を焼いて逃げるかもしれない。
だから急いだ方がいい。このあたりは雪が深いけど、川の下流はそこまででもない。ここで春を待つうちに、取り返しのつかないことになる。
……そう。たしかに、私はただ、急かすだけだ。他になにもない。特別な情報を持っているわけでもない。あなたたちの価値になることはない。
だけど、あなたたちに時間がないのも事実だよ。今ここで、私と猫を逃がすか。それとも無駄飯ぐらいを残したまま、元の世界に戻る手段を失くすか。それしかない。
憶測? そうだね。博士はあなたたちをにこやかに歓迎するかもしれない。本当にそう思えるなら、私たちを捨て置けばいい。
選ぶのはあなただ。私たちはただ、外に出たいだけ。博士には会いたくもない。それなのにわざわざ、彼の居場所を教える義理もない。
――痛めつけても、口は割らないよ。もともと私に、割る口なんてないんだ。居場所を知るのは私じゃない。本当はどこへでも自由に逃げられるはずの、あの鳥だ。
そう。そうだよ。これは私を通じた、鳥の譲歩だ。外に出たいと切望するのは私だけ。鳥にとっては、本来どうでもいいことなんだ。
さあ、どうするの。
選択権はあなたの方にある』
『十三時三十二分、録音終わり』