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二日目

 今朝になって、猫がなにも口にしていないことに気づく。食事は与えられている。口をつけた形跡がないのだ。口元に持って言っても、目を向けようともしない。

 猫にとって、食べられないものではないはずだ。毒も入っていない。むしろ、私と暮らしていたときよりも、ずっと立派な食事だろう。

 いつから食べていない? ここへ来たときからずっと?

 なぜ? 敵からの施しは受けられないというのだろうか?

 それなら、どうしてここに助けを求めた。

 こうなることくらい、猫にだってわかっていただろうに。


 猫の背に触れると、ごわついた毛並ごしに、肉の落ちた彼の体を感じる。呼吸に上下する感覚に、今日も安堵する。生きている。

 だけど、いつまでもつだろうか。

 私はこの檻の中で、猫を看取ることになるのだろうか。


 檻の中は冷たい。猫に毛布を掛け、私は彼の横で筆を持つ。鳥は昨日からずっと、猫の傍につきっきりだ。不安そうに彼を眺め、ときおり私に目を向ける。

 昨日、あれから鳥と、一度だけ言葉を交わした。私が口にした言葉は、ほんのたわいもないことだった。猫が心配だとか、この寒さが不安だとか、そういうことだ。

 だが、鳥にはそうは聞こえなかったらしい。私の声に、黒い瞳を曇らせ、一言だけ応えた。

「君は僕を疑っているんだね」

 それだけだ。



 ああ、頭が痛い。

 もうなにも考えたくない。

 疲れた。すごく疲れた。

 今はあの女への怒りも、鳥への疑惑も、不安や心配も、なにもない。ひどく空虚だ。

 ぼんやりと猫の背を撫でながら、唯一考えていたのは、この猫が死んだら、私はどうすればいいのだろうということだけだ。

 元の世界に戻りたいとか、誰か人間に会いたいとか、ただ死にたくないとか、いろんなことを考えて必死になって生きてきたけど。

 もう、わかんなくなっちゃった。


 私は本当に、おかしくなったのかなあ






 鳥に額をつつかれて、我に返る。朝に日記を書いてから、どれくらい呆けていたのだろう。意識がほとんどなかった。

 私をつついたときの鳥は、怒っているようだった。薄情者だとか、そんなことを言われた。

「この子は君を助けるために死にかけているのに、君は見ているだけなのか」

 だが、見ている以外になにができる? 私は内心でそう思っていた。口は開かなかった。そんな気力もなかったのかもしれない。

「助けたいとは思わないのか? この子を見てなんの心も痛まないの?」

 うるさい。私は耳を押さえていた。聞きたくない。だけど鳥の声は、手の間をすり抜けて聞こえてくる。

「なんだ、君もやっぱり人間なんだな。ここの連中と同じなんだ」

 うるさいうるさいうるさい。責任転嫁だ。随分身勝手な言いぐさじゃないか? 私が悪いんじゃない。私だって猫を哀れには思っている。助けられるなら助けてやりたい。だけど無理なものは無理なんだ。

 だいたい、猫を助けたいなら鳥が自分でなんとかすればいい。私よりもずっと、できることは多いはずだ。

「僕はこの子を助けるためなら、なんでもする。君とは違う。君みたいな薄情な人間じゃない。だけどできないんだ。僕じゃあこの子を助けられない。人間たちは、ぼくの言葉を聞かないんだ」

 うるさい。妄想のくせに、実在しないくせに だからなにもできないんだろう? 私にしか聞こえない声だから

 この世界に来てからの日々なんて、全部全部、嘘っぱちだ 妄想が勝手なことを言うな 自分じゃなにもできないくせに うるさい 偉そうに うるさい

 うるさいうるさいうるさい

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい うるさい


 、、、どこまで声に出していたのかは、私自身もわからない。全て叫んでいたかもしれないし、ほんの小さなうめき声だけだったのかもしれない。だけど、鳥はどんな些細な音からも、私の心を読み取ってしまうのだ。

「君がそう思うのなら、僕が妄想だとしても構わない」

 うつむきながら、彼は言った。

「でも、この子は妄想じゃない。この子と暮らしていた日々は現実にあったんだ。僕は、君を助けたいと思うこの子のことを知っている。君がこの子のために、一生懸命になってくれたことも知っている」

 それから、鳥は消え入りそうな声で

「この子が死ぬのを見たくない。でも僕は、君がこの子を見殺しにする姿も、見たくないんだ」

 そう言ったんだ。



 …

 …………

 わかってるよ。

 私だって猫を助けたい。

 でもどうすればいい?

 私にできることなんてなにもない。現実と妄想の区別すらもついていないのに、なにができると?

 彼女が知りたがっていた、博士の住処を教えればいいのか?

 だけどあれだって、鳥の道案内があってこそだ。妄想の中の鳥の。実在しない鳥の声を頼りに、どうやって博士に会えばいい?

 それとももしかして、あの博士すらも私の妄想の中の人物だったのか。博士に会ったと、そう思い込んでいたのか。あまりの人恋しさに。

 ああそうだ。考えてみれば博士がこんな世界にいるはずがない。私と同じ世界に居合わせるなんて、そんな奇跡みたいな偶然があるはずがない。

 その上あんな理性的な人が、狂ってしまうはずだってないのだ。まるで獣のように噛みついて、「世界は素晴らしい」「精霊は素晴らしい」なんて、繰り返すような

 、、、、ような?

 待て、なんか今

 あれ、精霊って

 なんで博士は噛みついて

 いや、あの女はどうして博士が実在すると

 妄想じゃないとわかって

 手が追いつかない

 待って、待て、







 疑問が減ったようで、増えた気もする。

 考えたことを書き出そうかとも思ったが、ここの人間たちに読まれることは避けたい。書かないと落ち着かないが、こればかりは仕方ないだろう。

 ただ、そうだ。これでもしかしたら、猫を助けられるよう彼女と交渉できるかもしれない。そう思うと、空虚な体に力が戻ってくる。


 私は少しだけ力を込めて、猫の背を撫でた。

 猫を生かしたい。

 そのために、同じ人間たちから離れようとするなんて、私は間違いなくおかしいのだろう。狂っているのかもしれない。冷静に考えれば、ここで大人しく捕虜になっていた方が、よほど人間らしい暮らしができるはずなのだ。

 それでも私は、私を助けてくれた猫を死なせたくない。それだけは疑いようもない。

 この感情もきっと、人間らしさなのだ。そう、私は信じたい。

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