一日目(後半)
また筆をとっている。
いつのまにか日は暮れきっているが、到底眠れそうにない。
あの女のせいだ。日暮れ前に来た、この分隊の隊長だという女。彼女との会話が、ずっと頭から離れない。考えまい、気にするまいと思っても、何度も何度も頭の中で繰り返される。
私はきっと、彼女に腹を立てているのだ。ひどく感情が昂ぶっていた。日が暮れたことにも、長らく気づかないほどに。
筆を持つ手が震えている。指先は冷たく、手の感覚を失わせる。いったい私はどれほど酷い字を書いているのだろう。明かりのない檻の中では、それすらもわからない。
心臓が不安定なほどに早く、全身には鳥肌が立っている。この寒さの中で、汗がじわりと滲む。平静ではない。それだけは否定のしようもない。
腹を立てているんだ。あの女、そもそもこの檻に入れられたのも、彼女に反発したせいだった。癪に障る。あの酷薄そうな顔つきで、自分たちの行動だけに価値があるとでもいうような物言いが。猫の住処を奪っておいて、わずかたりとも悔いず、それが当たり前のような態度が。猫をそこらの獣と同じように見なすことが。
檻に入れる前、あの女に言われた言葉を覚えている。思い返すに腹立たしい。「我々が生きるためだ」「けだもののために我々が身を引けと?」「お前はその山猫のために、我々に山中で死ねと言っているのだ」「そのことを理解しているのか」なんて
まるで私がおかしいみたいに
まるで
まるで
筆を取り落とす。半分に割れてしまった。筆と言ってもボールペンや鉛筆のようなものではなく、単なる細長い木炭であるせいだろう。危険なものは隊の規則で渡せないのだそうだ。刃向われても困るし、自殺されても困るかららしい。
半分になると、文字がなおさら書きにくい。丁寧に扱わなくては。落ち着こう。
落ち着いて、まずはそう、順に書いていこう。日の暮れる前のことを、順に。
日暮れる前、この檻に二人の人間が訪れた。
最初は足を引きずった男だった。人好きのする東洋的な顔立ちで、一見すると日本人にも思えた。実際には中国人だそうだ。彼は私と猫に対し、食事と、火は渡せないからその代わりにと、毛布を与えてくれた。火も危険物扱いなのだろう。
それから男と、いくらか会話をした。話をしたい気分ではなかったが、あちらから話しかけてきたのだ。生まれは欧州のどこそこで、戸籍もそこにあるだとか。だから漢字がそれほど得意ではない、みたいなことを言っていた気がする。
あとは、足のことについても触れていた。この世界でしくじって、傷はきれいに治ったが、どうも神経をやられてしまったらしいとか。元の世界で治療しなおせばまともに歩けるようになるかもしれないが、戦線に戻るのは難しいだとか。その話から、私の怪我についてや、暮らしぶり。この世界へ来た経緯などを軽く尋ねられた。
ほとんどが雑談にも思えたが、今にして思えば、私から情報を引き出そうとしていたのだろう。彼の話し方が上手かったのと、東洋人の顔立ちに親しみを覚えたのも相まって、私も割合よく喋ってしまったように思う。もっとも、彼らの望むような情報を、もとより持ってはいなかったのだが。
彼とはどれほど話をしていただろう。ほとんど聞き、こちらがぽつぽつと返す程度だったが、けっこうな時間がたっていた気がする。それでもまだ、岩の隙間から光が差し、人の顔を判別できる程度の明るさはあった。
だから、あの女が来たこともすぐに分かった。
日暮れ前。暗い洞窟の明かりが目立ち始めるころ。洞窟の奥からこちらへ向かってくる人影に、最初に気がついたのはおそらく猫だろう。男と話している最中、丸くうずくまったままの猫の耳が、ふと神経質に動くのを視界の端に見た。
どうしたのだろうかと、男から視線を外したとき、私は洞窟の奥からこちらに向かってくる人の姿に気がついたのだ。檻に向かってまっすぐに歩いてくる、大柄な中年の西洋女に。
冷たい灰色の髪を一つにまとめ、無機質な表情を崩さないあの女は、たしか最初にこう言ったはずだ。
「もういい」
その声に、男が顔をしかめて檻の前から少し下がった。猫が彼女の来訪に頭を上げ、低くうなり声をあげていたことを覚えている。空気が途端に張りつめた気がして、私は少し、後ずさった。
「お前に聞きたいことがある」と、檻の前で彼女はそう言った。そうして聞かれたのだ。
「リヒテンベルグ博士を知っているな?」と。
このときの私は、どうして博士の名前が出たのか瞬時に理解できなかった。彼女はどの博士のことを尋ねているのだろう? 天才工学博士である彼と、気の狂った老博士である彼と?
ああ、本当はすぐに日記のことに思い当たるべきだったのだろう。彼らにしてみれば、私はどこの誰とも知れない敵国の人間だ。素性を知るために荷物を確かめるのは当然で、日記だって読むだろう。
なのに私はどうしてか、自分を彼らの客人のように思っていたのだ。こんな場所に放り込まれても。
戸惑う私に、女はさらに尋ねた。「この世界で博士に会ったのだろう」「居場所はどこだ」「博士について知っていることをすべて話せ」そんな意味のことだ。
尋ねるというよりは、ほとんど尋問だったようにも思う。女は終始冷徹に私を見おろし、私は彼女の前で震えあがっていた。中国人の男は一歩引いた位置に立ち、無言でやりとりを監視していた。猫は威嚇を続け、苛立たしげに揺れる尾が、何度も私の足に当たった。鳥はこのとき、どこに行っていただろう。この檻の中にはいなかったはずだ。
彼女は博士に会いたがっていた。理由を多くは語らなかったが、おそらく転移装置がらみであるだろうことは想像がつく。
博士の持つ転移装置が狙いか、それとも博士の持つ理論が欲しいのか。博士の気が狂っていたとしても、彼の元には転移装置に関わるたくさんの本がある。元の世界に戻る手立てが見つかるはずだ。そう考えているのだろう。
だけど、彼女は私の日記から、博士の居場所を知ることはできなかったのだ。
ああそうだ、だって、あの日記は欠けている。
日記の前半分は、博士の家に落としてきてしまったから。
だから私の元へ来たのだ。博士へ会いに行く方法。日記には書いていない道のりを聞き出したかったから。
彼女への反発心もあり、実際に道のりを思い出せないこともあり、私は問いかけに応えなかった。
無言のままの私に、彼女は交渉が必要だと考えたのだろう。少しだけ表情を変え、彼女はまず猫を見た。
「随分と絆されたみたいだな」そう言った。「その山猫たちは、たしかに賢い生き物らしい」とも。
「この場所を追い出してからも、しばらくは何匹か報復に戻って来た。白い猫が数匹。種類の違う、白猫より少し大きなまだらの猫が数匹。殺さずに逃がしてしまったものもいる」
日が陰り始めていただろうか。女の顔に深い影が差していた。彼女はゆっくりと、まるで深読みを促すようにゆっくりと続けた。
「雪の降る前。つい二か月くらい前にも来た。白猫とともに、以前と模様の違う猫も」
私の反応を伺うように、彼女はここで一つ息を入れた。私はどんな気持ちで彼女の言葉を聞いていただろう? 白い猫と聞いて、思わず猫に触れたことだけは覚えている。ずっと威嚇を続ける猫、彼がこの話を聞き取れたなら、どう思っただろうか。
ここへ報復に来るという白い猫のこと。きっと、もともとここに住んで居た猫。
「あの猫たちは、いったいどこから沸き出しているのだろうな?」
……たぶんあの女は、猫の仲間が生き残り、どこかにまとまって暮らしていることを示唆したのだ。そのことは、私にもわかった。
そして「わかった」ということを、彼女にも悟られたのだろう。「害獣はすぐに処分するものだが」そう前置きをしてから、こう言った。
「博士の居場所を教えれば、その猫を外に放してやる」
精霊である鳥さえも居場所の知れない、猫の仲間たち。
その猫たちが生きている? どこかに暮らしている? 「沸き出す」と言わせるほどの数が。
それを知ったら、きっと猫は喜ぶだろう。
そう思ったのは間違いない。仲間に会えたら嬉しいだろう。もう一度会いたいだろう。当たり前だ。
だって、私だって会いたい。帰りたい。
だけど、そう、このときだ。
ここで鳥が戻ってきたのだ。
嘘だ! そう叫びながら。
「そいつは嘘をついている。この子を助ける気なんてない。閉じ込めて調べまわる気なんだ。いったいどこまで話せるのか、いったいどれくらい賢いのか。実験動物みたいに」
鳥の声が檻の中に響き渡る。
あの女は無表情のままだったように思う。代わりに一歩引いていた中国人が前に出て、鳥を指さした。
「隊長、あいつが例の声だ」
それで。
私は鳥の声を聞いて、彼女の嘘を知った。
ああ、それで。それなのに、彼女は嘘を認めようとはしなかった。鳥を手にとまらせ、彼女の誘いを断る私に
こう言ったんだ
「お前はそれをなんだと思っている?」
鳥だ。精霊だ。そう答えると、彼女は口の端をゆがめた。笑みにも似た、はじめて見せる表情だった。
きっと嘲笑だったのだろう。あんな女でも笑うのかと、あのときの私は思った。
「精霊なんてものが実在すると思っているのか?」
彼女はそう言っていた。
思うもなにも、だって目の前にいる。喋る鳥が。傷を癒す不思議な鳥が。それは彼女にだって、聞こえているはずだ。
しかし彼女は首を横に振った。
それから今度は、憐みの深い目で私を見た。
これも、はじめて見る表情だった。視線を伏せ、静かで重い声で、言う。
「私には聞こえない」
女の灰色の瞳を、私はよく覚えている。彼女はずっと、私から目を離さなかった。耐え難いくらいのまっすぐな視線。そこに、私は嘘の色を探していた。
聞こえないはずはない。だってこの話をしているときも、ずっと私の手の中でわめいていた。彼女が嘘をついていること。卑怯な侵略者であること。仲間たちを殺された恨み。憎しみ。悲しみ。ずっと。
なのに
なのに聞こえないなんて嘘だ。
こんなに鮮明な声が響いている。なのに
「少しも疑わなかったのか?」
彼女はそう言っていた。また、いつもの冷徹な表情に戻っていた。憐れまれるよりは、幾分かましな表情だ。
疑っていなかったわけではない。だけど実際に聞こえてくる。本人も精霊だと言っている。これが精霊でないならなんなのか。
それともまさか、私が狂っているとでも言うのか。
そうとは言っていない、と彼女は無機質に答えた。
それなら、ではなんだというのだ。幻聴か。妄想か。精神疾患? そう言いたいのか。
私は震える声で、そう口走っていた。すがるような、、違う、私は怒っていたのだ。聞こえていないはずはない。あの女は嘘つきだ。鳥の言うとおり。私をだまそうとしている。混乱させようとしているのだ、
だけどあの女は、それすらも否定する。首を横に振り、嘘も偽りも見えない目で
「お前は疑うことを忘れたのだな」と言って。
違う。
私は疑った。考えた。何度も。
だけど。
だけどもう、限界だったんだ。疑い続けられない。だって鳥は精霊なんだ。幻聴じゃない。発狂だってしない。私は狂ってなんてない。
精霊だ。あれは精霊なのだ。人間の知識を越えた存在なのだ。
そのはずなんだ。
それで、女はどうしたのだったか。
私の様子を見て、少しの間沈黙していたような気がする。その間に手から鳥が逃げて、猫の背にとまったはずだ。私が強く握りすぎてしまったからだろうか。覚えていない。
「お前は学生だったな」
そうだ、しばらくして、彼女はそんなことを言ってきた。
「考え、学ぶことを選んできたのだろう。戦争にも行かず、悩み続けることを選んだのだろう」
これは、なにを言いたいのかよくわからなかった。ただ、女の声は低く重く、些末なことも頭に残りやすい。それで覚えている。
「精霊だと言うから、目の前にあるから、それをそのまま受け入れるのか? 悩みもせず、考えもせず、疑いもせず。雨が降るのを受け入れるように、だったか」
雨が降るのを。
書きながら思い出す。これは私が日記に書いた一文だ。彼女はそれを引用していたのだ。
私に、、言い聞かせるために? まさか。
「雨が降るには理由がある。人間が長年、不毛に考え導き出してきたことだ。ありのまま受け入れるだけなら、猿でも変わらない。すべてのものを疑い、考えるから人なのだ」
言いながら、彼女は一歩だけ檻に近づいた。私は彼女が近づいた分だけ下がった。彼女の存在が怖い
違う。怖いんじゃない。不快だったからだ。
「目の前のものを疑い、自分で考えろ、学生。答えの見えない問いに悩み続けろ。死ぬまで解けない問題に苦しみ続けろ」
私にまた、悩めと言うのか。自分がなにかもわからなくなって、人間であることにすがっていたころのように?
猫も鳥も拒んで、誰もいない、孤独で、生きることが辛かった、あのときのように?
「悩め。それが、神が与えてくれた唯一の人間らしさだ」
彼女はそう言うと、博士のことも聞かずに檻の前から去っていった。
私はどんな顔をしていただろう。残っていた中国人が、とりなすように私に声をかけてきたことは記憶にある。だが正直、どんなことを言われたのかあまり印象に残っていない。
あの人はいつもあんな調子だとか、インテリだから学生に喝を入れたくなるんだとか、そんな感じのことを言っていた気がする。
いつの間にか中国人がいなくなり、猫がまた丸くなったあとも、私はずっとあの女の言うことばかり考えていた。
心臓が握り絞められているように苦しかった。汗をかいていたが、体は冷え切っていた。落ち着かない。平静ではいられなかった。
私は狂っているのか?
鳥の声は本当に聞こえないのか?
私は、鳥に利用されていたのだと思っていた。
だけど利用されていたという考えさえも、私の妄想に過ぎなかったのか?
不毛な考えがずっとめぐりめぐる。もうやめようと思っていたのに。
もう
違う。
悩まない。違う、私は惑わされない。
私は狂ってなんていない。それを理解している。
鳥の声は紛れもなく聞こえてきている。
私は不安になっていない。鳥は精霊だ。傷だって何度も治してもらった。
だって彼は精霊で、言葉を話せるんだ。それを、ありのまま受け入れてどうしていけない。
あの女は、私を困惑させようとしているのだ。きっと、鳥と猫と引き離そうとしているんだ。猫が言葉を得て、自分たちの脅威にならないように。
そう、きっとそのはずだ。
そうでなくてはいけない。
私は、だから怒っているんだ。嘘つきで卑怯な人間に。
あんな女の言うことなんて信じない。不安になる必要だってない。惑わされない。
震えるのは怯えているからじゃない。
怒っているからだ。
私は狂ってなんていない。
鳥の声は聞こえる。だって彼は精霊なんだ。
私は猫と鳥を信じている。
私はおかしくなんてない。
私はおかしくなんてない。
私はおかしくなんてない