一日目(前半)
かじかむ手で筆をとる。
どこから書くべきだろうか。彼らから与えられたノートに向かい、もう数時間はたったように思う。頭に浮かぶ文字はとりとめがなく、ひどく混乱しているのだと私自身でも理解できる。
安心しているのか、驚いているのか、腹を立てているのか、怯えているのか。それは私自身にもわからない。
だからこそこうして文字を書くのだろう。私の思考を整理するためにも。
今、私は洞穴の突き当りらしい場所にいる。狭くなった岩間に小さな亀裂が入り、外の光をわずかに示していた。息をすると、喉が冷たさに痛む。地面は湿っていて、足の裏から凍るような冷たさが伝わってくる。
仄暗い洞穴の出口は、あまり立派ではない木の檻で閉ざされている。どうやら手製らしく、それほど頑丈には見えないが、今の私にはそれを破るだけの体力などとても見いだせない。
檻の間から先を覗けば、迷宮のように入り組んだ細い道がある。いくつも開いた横穴には光が灯り、煤けた炎のにおいがした。どうやらこのあたりの洞穴は、すべて大きな洞窟の一部らしい。時折、人の足音がこだましては消えていく。
私と同じ檻の中に、あの猫もいる。彼はわずかに日の差す場所に丸くなり、ほとんど動かない。彼が動いたのは、私がこの場所に放り込まれた時だけだ。一度だけ私の体に頭をすり寄せ、か細く鳴いたきり。不安になって、さきほどから何度も彼の背中に触れ、体温と呼吸を確認してしまう。
鳥は亀裂から出入りできるらしく、この場所を行ったり来たりしている。今は猫の背にとまり、ずっと黙っている。口を開けないのだろう。彼の口は、真実以外の言葉を吐くことができないからだ。
それに今回は、以前のようにひとつの真実を別の真実で隠すこともできない。
この世界に、私以外の人間がいるという事実を、博士の存在で隠すことはできないのだ。
思えば、もっと早くに気がつくべきだったのかもしれない。
気の狂った博士から、どうして鳥は言葉の存在を知ることができたのか。他の人間がいるかと尋ねた時に、なぜ即答できなかったのか。電波の不協和による無線機のノイズは、なぜ出たのか。
博士の無線機は、壊れていたというのに?
私が目覚めたのは、ここと似た岩肌を持つ、狭い病室だった。あまり清潔ではないベッドの上、薬品のにおいと炎の明かりの中。私は少し揉めてこの檻に入るまで、私を救ってくれた「彼ら」と会話をした。この世界に生きる、博士以外の人間と。
だから、もうほとんどわかっているつもりだ。鳥が隠したかったこと。今もこうして、口をつぐんだままでいること。檻の中には、考える時間だけは十分にあるのだから。
「彼ら」は、私同様に次元転移装置を使ってやってきた一団だった。
欧州中央軍の第一師団と言えば、私も聞いたことがある。前線を駆ける西軍の英雄で、私たちにとっては死神だ。兵士一人一人の練度もさることながら、恐るべきはその統率。何人死のうが乱れず、何人殺しても怯まない。そんな話だ。
彼らはエリートの分隊だった。戦線を退く際、衛生兵と軍医を交え、およそ二十名。次元転移を行い、この世界に来たのだそうだ。
なぜ元の世界に戻らなかったのかは教えてもらえなかったが、おそらく救援が来ないか、あるいは自前の転移装置があるのなら、それを直すことができずにいるのだろう。
そのまま一年。一年はこの世界にいると聞いた。そうして、この寒々しい洞窟を住処に暮らしているのだ。
この、川をさかのぼった山の中腹にある、かつて猫たちの暮らしていた洞窟に。
……猫も鳥も住処を奪った存在を恨んでいた。取り戻したいと言っていた。
だが恐れてもいた。敵わないと知っていたのだろう。人の持つ武器と、、、おそらくは、言葉による連携を見たために。
鳥たちはあの言葉を欲しいと思ったのだ。咄嗟の連携を可能にする指揮、声による意思の統率。鳥一人の意思の疎通のみでは、まとめきれないもの。
言葉。
精霊がいることで、得ることのできなかった言葉を、求めていた。
だから私を助けた。
猫も鳥も、そのために私を守ってくれていたのだ。
争い合うため。私に、私と同じ人間を殺すための武器を要求したのだ。
指先が冷たい。ノートの文字も震えている。体の具合も良いとは言えない。肌の痒みはましになったが、体は重く、冷え冷えとしている。それでもまだ、あそこで暮らしていた時よりはましだろうか。食事を与えてもらえるだけでも。
そう思いながら猫の背を撫でると、温かさが沁みてくる。
猫に手を当てていると、後ろめたそうに私の顔を見上げる鳥に気づいた。彼の羽も撫でてやると、こちらはひやりとして冷たかった。指の先に、慣れた柔らかい感触がある。鳥は瞬きを繰り返し、その黒い瞳に私を映す。
私は安心しているのか、驚いているのか、腹を立てているのか、怯えているのか。
わからない。
ただ、猫と鳥がまだここに生きていて、良かったと思っている。
猫が私を助けるために、言葉を使ってくれたことを嬉しく思う。