後
4月24日
軟禁されそうになり、あわてて逃げかえる。やつらめ、別次元の風土病でも恐れているのか、さすがにここまでは追ってこない。まったく、この世界だけが私の安住の地というわけだ。
どうやらあちらは状況が悪いらしい。まともなやつは死んだのか。軍部の連中もずいぶんと質が悪くなった。あれでは長く持たないだろう。どちらかが勝つのではなく、どちらも負ける未来が見える。
それで私に、いったい何の救いを求めていることやら。私に人を殺す研究をしろなどと、傲慢はなはだしい。私にくだらない研究をさせるつもりか。
私は、くだらない研究を強要させられるほどの凡人なのか。
この世界に戻り、空を見上げれば、少し気がまぎれる。
世界を作り出す自然という名の神。それを前にすれば、どれほどの天才であろうと、凡人であろうと、ただの矮小な存在にすぎないと感じられる。
いつか私も、この愚にもつかない自尊心を捨てられれば、自然に溶け込むこともできるだろうか。
それともこの圧倒的な世界に押され、私は真の天才になれるだろうか。
5月19日
およそひと月。あいつから調査の結果が帰ってきた。例の緑の液体の答えだ。
あれは細胞――死を知らない、無限増殖を続ける細胞なのだ。
我々の知る中では、癌細胞というものが一番近い。寿命による死が存在せず、自殺因子が発動しない。細胞は未分化のまま増殖し続け、栄養だけを無限に作り出す存在でしかない。緑の色素は葉緑素に近い物質が紛れ込んでいるためだ。おかげで昼となく、夜となく、体に栄養を蓄え続けるのだという。
いったい元はどんな生き物なのかと、やたらと聞いてきた。薄膜に覆われた、スライムのような生物という以外に、答えられる言葉はない。
あの生き物がなにであるか? それは私が一番知りたい。あれはいったいどんな生き物なのだろうか。
あれもまた、他の獣と同じように、自然の作りだした生物と思うと奇妙である。
神の御業は人知を超えている。
私の心は今、感動に打ち震えている……。
5月28日
再びあいつから連絡が来る。どうやらあの生き物の研究に、やつも熱を上げているようだ。生物兵器の開発ばかりでは、気も滅入るというものだろう。気を紛らわす役に立っているのかもしれない。
あいつが言うには、あの細胞の染色体には「何か一つ欠けている」らしい。
細胞の分化を決定づける何かの要素。自殺因子のコントローラーたる、存在するべき「何か」がない。もとは存在していた痕跡が見えるのに、まるですべての染色体から、一斉に抜け出てしまったかのように、ない。
生命としての調律を促す因子が失われ、生物は形を保つことができなかった。だからこそ、あのようなゲル状の、不定型の生き物になったのだろう。思考らしき思考はなく、増殖も排泄もしない。ただただ食べ続ける。肥大化し続ける。その体を、維持できなくなるまで。――あいつはそんなことを言っていた。おそらく、もとはまったく別の姿をしていたはずだ、とも。
何かが原因で、染色体に異常をきたしたはずだ。それが外的な要因か、内的な要因かはわからない。
内的な要因であるのならば、どうしてあれほど不自然な変化を遂げるようになったのか。外的な要因であるのなら、生物一つをつくりかえるような異常を、どうやって引き起こせたのか?
新たなサンプルが見つかったら送るように、と最後にあいつは念を押した。言われなくともそのつもりだ。好奇心を刺激される。
実に興味深い。実に奇妙である。
神のもたらすありのままの自然とは、我ら人間の想像を、あまりにも簡単に越えていく。
6月19日
熊を見た。
いや、熊に似た別の生き物なのであろうが、大きさ、毛並、獰猛な鳴き声。どれをとっても熊だった。
ジャッカルや山猫のような生き物は何度か見たが、熊は初めてだ。森の奥から、様子を窺うようにこちらを見据えていた。遠目から判別できないが、あの黒い瞳に奇妙な知性の片鱗が見えたような気がする。
私を狙っているのだろうか。ぞっとしない話である。
6月30日
熊は頻繁に姿を見せる。
大きな体で愚鈍そうに歩くが、銃を構えて狙いをつけると跳ねるように逃げていく。猟銃の恐ろしさを知っているようだ。厄介だ。
対策を練るために、一度あちらに戻るべきだろうか。そう思ったところに、ハワードから手紙が来ていた。読む気にもならん。日記にでもはさみ込んでおく。どうせ内容なんて、戻って来いだのそう言ったものに決まっている。
いい年して、一回りも年下の女と結婚するとか言い出したころから予感していたものだが、あいつもずいぶんと退屈になってしまった。もう少し、できる男だと思っていたのだがな。
7月1日
ハワードから通信が入る。手紙を読んでいないことはさすがに予想していたらしい。このあたりは長い付き合いなだけある。
内容はあいかわらず懇願だ。帰ってこい。世界はもう滅びる他にない。戦争は酷く激化し、妻とも連絡がつかなくなってしまった。地表は次々に滅ぼされ、それでもまだ戦争は終わらない。倫理もなにもない。意地だけが人を動かし、人を殺し続けている。助けてくれ。帰って来てくれ。
聞いていてうんざりする。意地が人を殺すなど! 人間とはどこまで狂った生物なのだろうか!
窓の外を見れば、相変わらず黒々とした熊がいる。私は猟銃を握りしめ、熊に向かって数発撃った。
素早く逃げる熊の背に、散弾が命中したように思えた。
7月19日
熊はまだ、うろうろとさまよっている。いつか、弾を命中させて以来、あの熊は逆に銃を恐れなくなってしまった。
早々に仕留めなければなるまい。猟銃を持って外に出る。
熊の腹部を吹き飛ばし、地面に倒れたのを確認したところで一度家に戻る。
あれを解体するか、放っておくべきか。近場に大きな死骸があるのも気に入らないので、のこぎりで切り分けて森に捨てておこう。
のこぎりを探して自室を漁っていると、通信が入っていることに気づく。
ハワードではない。軍部から直接連絡が来ているらしい。聞く気はなくとも、勝手に音声を流してくる。天才よ、我々を導いてくれ、だと?
かつての偉大な人間たちが、残らずそうしたように。世界を救ってくれ。このままでは人間の手で、世界が滅びてしまう。青い星が失われてしまう。自然を愛する貴君なら、きっとこのことに耐えられないはずだ。
不快になって音声を切る。通信機から目を逸らせば、壁に妙に大きなトカゲがいるのが目についた。こちらをじっと見据えている。どことなく、知性を感じさせる黒い瞳で……。
解体のためにのこぎりを持って外に出ると、熊の死体はなくなっていた。死にぞこなったのか。血が点々と森の奥まで続いている。
あの傷では長くはもつまい。追わずに放っておく。
8月2日
ひっきりなしの通信に苛立ち、無線を叩き割る。実に不快だ。私を天才と持ち上げれば、よろこんで貴様らに協力するとでも思ったのか。
私が天才でないことなど、私自身がよく知っている。私は人も世界も変えられない。凡人にすぎない。数百年にわたって名を残せるような偉人ではない。
天才はそう安いものではない。私も、お前たちも、今の世の誰も彼も、みんな凡人だ。くそっくらえ!
窓の外を見れば熊がいる。……どういうことだ? 熊がいる。
死んでいなかったのか? あの傷で?
猟銃を構え、家の周りをうろつく熊を窺う。腹部には紛れもなく傷の跡があった。だが、傷は塞がっているようだ。そこだけ毛皮が破れ、不格好に膨らんだ皮膚が張り付いている。まるでこぶのようだ。
腹に狙いを定め、同じ場所を撃つ。散弾が飛び、熊の腹を裂く。血と体液が飛び散り、熊はまたどこかへ逃げて行った。
ふと、視線を感じて部屋を見渡すと、あのトカゲがいた。こちらをじっと見据えている。
猟銃を向けると、跳ねるように柱の影へと逃げて行った。
8月10日
あの熊はなんだ?
次第に家に近づいてくる。近づくたびに撃つが、あれは何度でも現れる。
不死身なのか? 傷跡は不格好に塞がり続け、まるで熊の面影が無いように思えた。もげた腕から半透明のこぶがつきだし、半壊した顔は壊れたまま皮膚だけで覆われている。皮下には血の溜まる様子が見え、赤く、これもこぶのように膨らんでいる。
まるで増殖を続ける癌細胞だ。猟銃を構えながら考える。
寿命の存在しない細胞。もとは存在したはずの自殺因子。なにかが変異した形跡。次第に形を保てなくなり、薄膜を持つ半透明の物質に成り果てる。養分だけを求め、さまよい続けるなにものかに。
あれは一体なんだ?
……わからない。私は天才ではない。
私は凡人だ。世界の奇妙さに圧倒されるばかりの。
だけど、どんな天才を連れてきたって、あの生き物がなにかわかりはしないだろう。
私は凡人だ。それは紛れもない。しかし、神の愛する世界の前にはすべて凡人にすぎない。
世界は人間の手に寄らない。
人が世界を滅ぼすなんておこがましい。そうだろう?
日付なし
私は興奮していた。この奇妙な存在に触れることで。
私は感動していた。この奇妙な現実を前にして。
やはり世界は計り知れない。
人の身で理解することなどできはしないのだ。
天才も、凡人も、神の前では等しく矮小である。神の愛した世界とは、これほどまでに複雑で、神秘的で、圧倒的だ。
この世界は、なんと美しい。