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異世界遭難日誌  作者: はいあか
#NULL 博士の日記
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 すでにこの日記も二冊目となる。この世界を見つけてから半年近くたったのだと思うと感慨深い。

 初めてこの世界を見つけたときの感動は忘れられない。圧倒的な緑。圧倒的な世界。耳に聞こえてくるのは風の音、鳥の声、草木のざわめきのみ。

 森は私を取り巻き、延々と広がる。人の気配も喧噪もないのに、なぜか騒がしい。生まれて初めて感じる、真の自然というものに私はどれほど驚かされたか。それを言葉にするのは難しい。

 神が作り、神が愛した世界が存在するのならば、きっとこのような世界なのだろう。人の手では作り出すことのできない、飲み込まれるほどの美しさ、荘厳さ。

 この世界を見たときから、私は夢中になっていた。


 それから時間を見つけては、一人でこの世界で過ごすようになった。

 寝袋も持たずやってきて、眠くなれば元の世界へ帰る暮らしをしていたころは、まさかこの場所に家を建てるなんて思いもしなかっただろう。小さな家と、小さな畑。無粋な通信の入らない世界で、草木を愛で、空を眺め、本を書く。

 神に愛されたる美しい森で、精緻に組み合わさった世界の謎を紐解く快感よ。科学とは神学である。科学とは我々小さな人間が、神の存在をうかがい知ることのできる、唯一の学問であると確信する。


 私はおそらく、この世界に骨をうずめることとなるであろう。

 この日記も、人目にさらされることはあるまい。

 だからこそ書き綴ろう。私の満たされた日々と、偽りなき心を。


   ルドルフ・リヒテンベルグ




2月23日


 こうして日付を書くのも、まだ旧世界で染みついた悪しき慣習だろう。

 しかし、旧世界の事物をすべて捨ててしまうことは、まだ私にはできそうにない。さもなければ、こうして字も書くことができない。美しい数式を眺めることもできない。

 何もかも捨てきれない私自身を妬ましく思うと同時に、私をここへ導いた探究心こそ、旧世界で培ってきたものであるという事実も忘れえない。

 研究し、解き明かしたいという思いは神に反逆する行為であろうか?

 知恵の木の実を口にした人間を、神は疎んじているだろうか……。

(もっとも、その神話もまた、人の作りだしたものであるのだが。当然だが私は人の道理によって作られた神など信じてはいない。神というものは、もっと計り知れないところにいるのだ!)


 だいたい、どうして文字にまでケチをつけたかといえば、また手紙が来たからだ。

 ハワードめ。昔からせこせこしたやつだと思っていたが、こんなところでまで悩まされるとは。

 帰って来いだと? ふん、どうせあちらに戻ったところで、つまらん戦争の道具をつくらされるだけだ。その程度、ハワードがいれば十分だろう。あいつは頭が固くて融通は利かないが、研究所の他の連中よりはましな頭をしているからな。

 私は戦争の幇助なんぞしたくはない。美しい世界を私に壊させるつもりか。このままでは人類が滅びるというのなら、滅びておけばいい。神の意にもとる人間のエゴというものは、いずれは自身を滅ぼすと思っていたのだ。




3月16日


 トマトの苗を取りに帰ったところで、軍部の連中に出くわしてしまった。怒鳴りつけて追い返したが、おかげで喉が枯れた。こちらに戻ってきて、ようやく気が落ち着いてきた。それでも怒りは収まらない。帰郷直後の除菌攻めも大概だが、あの連中に比べればまだ我慢が聞くというものだ。

 ふん、私の研究が世界を救うと? 救うのはお前たちの権威だけだろうが。敵を土地ごと滅ぼして、お前たちが世界の支配者になりたいだけだろうが!

 都合のいい言葉ばかり言ってのける。軍人なんて人間のエゴの、醜いところばかりが凝り固まった連中だ!

 私は私の研究が、人類の救いにならないことをよく知っている。人の醜いエゴを増長するだけだと。使いこなせない力を前に、浮かれる子供みたいな連中め。


 私の研究は世界を救わない。人類を救わない。世界を破滅させるだけのものだ。

 私の研究は真理ではない。小手先だけの技術をこねくりまわしただけ。世紀の大発見でもない。誰もがわかることに、少し手を加えただけにすぎない。そのことを、私自身が一番よく知っているのだ。


 …………私の発見は、偉大なものではない。あの連中は気がつかないが、かつて存在してきた偉大な先人たちならすぐにわかるだろう。

 私は彼らのように、人々の進歩を促さない。人間を進化させない。天才だともてはやされても、私はどうしようもなく凡人だ。

 いい気になっていたというのは事実だろう。当たり前のように見つかる事実を指摘すれば、周りが私を褒め称えるのだ。幼いころから天才だと騒がれ続け、私もそうなのだろうと信じていた。

 だが、それこそが凡人の証だった。ここに至るまで、気づかなかったことこそが凡人たるゆえんだった。


 私は偉大な学者ではない。偉大な先人たちの中に名を連ねるには、私はあまりに卑小すぎる。私にできることは、これ以上の失言を防ぐため、口をつぐむことだけだ。

 きっと真なる天才たちはあざ笑っているだろう。お前みたいな愚か者が、我らと同じ天才であると?

 ……私はどうして、天才になれなかったのか。私はどうして愚者であるのか。私はどうして、人々を次の次元へと導くべき、真の天才になれなかったのか。

 私は、私自身が恥ずかしい。




4月4日


 近ごろ、ある獣の姿をよく見かける。狸によく似た獣だ。黒い毛並にまだらの尾を持ち、森の影から私の家の様子を窺っている。

 こちらから近づかなければ逃げる様子もなく、どことなくふてぶてしい。一度猟銃を鳴らしてみると、跳ねるように逃げて行った。

 庭に植えた豆でも狙っているのだろうか?

 私は自然を愛するが、自身の持ち物を奪われることは愛さない。対処しておくべきだろう。


 不快なことは重なるものだ。

 家に戻れば、ハワードからの手紙が置いてあった。人の来た気配はないことから、手紙だけが転送されてきたのだろう。

 あいつめ、こんな技術も身に着けていたのか。世が世ならやつも天才と呼ばれていただろうに、私の影に隠れて凡人に甘んじていられるのだ。幸福なやつめ。

 手紙の内容は変わらず。私に戻ってくるように。軍部に協力して研究するようにとのことだ。今ではあの研究所の費用も、ほとんどが軍からの援助で成り立っている。それですっかり手先に成り下がったのだろう。

 いや、思えばハワードの軍人びいきは昔からか。若いころはもう少しまともなやつだったが、あいつの妻が徴兵されてからは、まるでつまらない人間になってしまった。妻のために、戦争を優位に進めたいのだろう。

 それほど女に夢中になれるものなのか。私にはさっぱりわからない。ヒステリックで感情的なばかりの女を、よくも愛せるものだ。




4月10日


 あの狸が豆を食おうとしていたので、猟銃で腹を打ち抜いてやった。

 捕まえられるなら捕まえてやろうと思ったが、ぎゃんぎゃん鳴きながら森の奥に逃げて行ってしまった。血の跡が点々と残る。豆はすっかり駄目になっていた。引き抜いてそこらに捨てておく。

 また新しく苗を植えるべきか。しかしいちいちあちらの世界に戻るのも面倒だ。またハワードかそこらに掴まって、無粋な説教でも寄こされるのだろう。

 こちらで自給できればなによりだが、それもなかなか簡単にはいかない。それなりに野草の知識はあるつもりだったが(本も数作書いた)、こちらの植生はやはりあちらと大きく異なっているようだ。見知った草に似ていても、どこに毒があるかわからない。毒見にラットを数匹連れてきていたが、あれも早いうちに死んでしまった。

 ……やはり、近々一度戻るべきだろう。致し方ないとはいえ、憂鬱になる。




4月22日


 戻ろう戻ろうと思いつつ、先延ばしにしてきたが、明日こそは戻ろうと思う。

 というのも、私では判断のつかないものを見つけたからだ。

 家の裏の、捨てた豆に群がっていた生き物、とも判別できないもの。半透明で核を持つ、ゼラチン質ななにか。体表を覆う膜を破れば、緑がかった体液があふれ出る。

 いったいこれはなんであろう? まるでゲームにでてくる魔物モンスター――スライムのようだ。

 私は、反射的に殺してしまったそのスライムを瓶に詰めた。瓶の中で、薄い緑の液体はピクリともしない。そういえば核があったようだが、体を破るときに色を変え、ほかの体液に混ざってしまった。

 まったく見当もつかないこの生き物を抱え、私は元の世界へ帰る。生物に詳しい知り合いに見せるつもりだ。あいつも変わったやつだが、その方面ではあれほど詳しい人間を知らない。私一人で考えるよりは、ましな答えを返してくれるだろう。

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