五十八日目―五十九日目
五十八日目
今日も上天気だった。雨よりも晴天の割合の方が多いのは助かる。
一方、寒さは日増しに厳しくなる。猫がくしゃみをしたので心配だ。大丈夫かと尋ねると「ダイジョブ」と答える。
意味が分かって使っているのか、おうむ返ししただけなのか判断に困る。このとき、鳥はまだ寝ていたため、「ダイジョブ」の意味は判別せず。
昨夜も狩りで成功したからか、猫はいつもに増してのんびりしていた。一昨日狩った小さな熊みたいな獲物の肉が余っていて、昨夜の獲物である、アライグマ?に似た獣もまるのままあるせいだろう。たしかに、数日狩りをしなくてももつくらいはある。食料だけとはいえ、余裕らしい余裕ができたのは、思えば今日がはじめてのような気がする。
猫は獲物を野晒しにせず、枯れ葉や土の下にかくしていた。これは臭いを消すためだろうか? 衛生的にあまりいい気はしない。が、どうせ火を通すわけだし、そもそもこんな環境で、今さら気にするようなことでもないのかもしれない。
まあ、衛生うんぬんはいい。このときの私は食料ではなく、獣の皮のほうに興味があった。
猫の狩りの獲物の中でも、珍しく大きな生物の皮。
あれ、なめせないだろうか?
今まで無関心だった毛皮の活用について考え出したのは、レンガの乾燥を待つ間、当座のするべきことがなかったためかもしれない。ややもすれば、私もじかんに余裕を感じていたのだろう。寝床をもう少し快適にする方法だとか、真冬の寒さをしのぐ手段だとか、そういったことに頭がいっていた。
そんなことで、猫とともに半日かけ、熊?とアライグマ?の毛皮を処理する。
作業を始めたのは、午前九時になる少し前くらいだっただろうか。
たき火そばであくびをする猫を誘い、毛皮なめしに付き合わせる。私一人では毛皮のなめしかたなどもちろん知らないので、猫に声をかける他になかったのだ。ふだんから肉体労働をさせている猫を休ませたいという気持ちもあったが、暇なら手伝ってくれと思わなくもなかった。
猫はめんどうくさそうにふにふにと鳴いたが、それきり文句も言わずに付き合ってくれた。彼は実にいいやつだ。感謝とともに褒めると、私が口にした単語を繰り返し、単純に喜ぶ。
うん? いいやつ、とは少し違うかな。どちらかと言えば恐ろしく素直で、無邪気な子供のような性質のかもしれない。
なににせよ、皮なめしだ。
まずは獣から皮をはぐ。これは猫がやってくれた。ナイフを貸して横から見ていたが、彼の技術には感嘆する。手のひらに毛が生えていないだけのほとんど獣じみた手で、不器用そうにナイフを持ちながら、迷いなく獣の体に切れ込みを入れ、その切れ込みの端からテープのようにはがしていく。力を入れている様子はあまりなく、もとから肉と皮が別物であるかのようだった。
はがれていくさまが見事で、自分もやってみたいと猫に頼んで役割を代わってもらうが、彼のようにはさっぱりいかなかった。血と脂で手はすべるし、いくらひっぱってもはがれないし、はがれたとしても皮に肉がついてくる。結局見かねて、猫がすぐに元の役に戻る。
熊?の大きめの毛皮と、アライグマ?の小さめの毛皮ができあがったのは、それから一時間後くらいだっただろうか。
熊の方は、なめしを想定していなかったために傷や穴が多いが、一メートル四方くらいの大きさがある。アライグマの方はその半分。よりも少し小さいくらいだろう。どちらも頭と手足の先は切り落とし、扁平な一枚の皮になっている。
はがした毛皮はさらに一時間くらいかけて、裏側に残った肉片や油をそぎ落としていく。ナイフが一本しかないばかりに、厄介な作業だった。猫と交代交代進める。そぎ落とした肉は、猫が暇を見てつまみ食いしていた。私に見つかると、多少ばつの悪そうな顔をする。
一通り肉を削ぎ落すと、川で血や汚れを洗い流し、毛皮をきれいにする。
それから猫は小さい方の毛皮を手に取り、端から噛み始めた。
やや強めに噛みつき、しばらく口の中でもぐもぐとしたあと、ゆっくりと噛む場所を移動する。順繰りに少しずつ噛み進め、端から端へ噛み終えたら、今度はその下を噛む。毛皮を痛ませないためか、毛の生えている部分を内側にして折りこみ、もっぱら噛むのは肉との接着部だ。
猫が言うには、こうして順繰り噛んでいって毛皮をやわらかくするらしい。防腐のようなことはせず、噛み終わった毛皮は日当たりのよい場所で、ピンと張って干すだけだ。天気がよければ数日で乾く。
こうしてできた毛皮は、冬は日持ちがいいが夏はすぐに悪くなるそうだ。だけど毛皮の需要が高まるのは冬の時期であるし、夏でも毛皮を使うのは、洞窟内でも特に寒い場所か、せいぜい祭壇にお供え程度なものだ。強いて防腐をする必要はなかったのだろう。特に狩猟民族である猫たちは、毛皮などいくらでも手に入るのだ。
猫の下ごしらえした毛皮は、森の日当たりのよい枝に引っかけられた。だらりと垂れさがった毛皮の下部は、また別の枝に引っかけられた。
別々の枝はそれぞれ別方向へしなり、両枝に引っ張られた毛皮はたしかにピンと張る。これは知恵である。感心した。
一つ毛皮を処理すると、昼を大幅に過ぎていた。このあたりで猫は狩りに向かい、私が一人でもう一枚の毛皮に対処することになる。
そうそう、このときにあらためて、処理された毛皮を検分した。
猫に噛まれることにより、手で取りきれなかった肉が落ち、油脂が馴染んでいるようだった。それに繊維が噛み切られたのか、毛皮が少し柔らかくなったような気がする。
私が考えていた皮なめしと違っていたが、思えばなめしとはもともと、皮を柔らかくすることが目的だった気がする。漢字にも、皮に柔らかい、みたいな字があてられていたはずだ。
漢字で書くと、皮柔?
なんか字が違う気がする。
なんにせよ、柔らかくすることが本分なのだ。複雑な防腐処理の手間がないのは、むしろ感謝しよう。一冬もてばいいのだ。
噛んでいるだけで、結局もう一日が終わる。今は、まだ噛みながら手帳を開いている。
大きな毛皮はかなりしんどい。思った以上に皮はかたく、繊維を断ち切ることができずにいる。毛皮には血が滲む。歯茎からの出血がまだ続いているのだ。強く噛むと、歯が持って行かれそうになる。ひやりとするような痛みがなんどかあった。
一度、ナイフで代用しようかと思い、ためしても見た。これは毛皮自体を傷つけるだけだった。ナイフだと切れすぎてしまうのだ。自分の歯で、感覚をたよりに繊維を潰していくのが、結局一番良い方法に思われる。
案外、今日の内に猫に毛皮処理を持ちかけておいて正解だったのかもしれない。噛むのに丸一日、毛皮の乾燥までにもさらに日を要するだろう。これ以降、余暇がどれほどあるかもわからない。時間のかかることは、こういうときでもなければできないのだ。
時間のかかるものというのなら、この毛皮の元の持ち主たちも処理しておくべきだろう。
肉を天日に干して、保存食にしなければならない。内臓は抜いておくべきだろうか。猫は内臓を好んで食べるから、彼にあげてしまおう。
あとは、そうだ、冬場のビタミン補給についても悩みどころだ。
先日見つけた草はしばらく食べ続け、問題ないと判断した。しかし量がそれほど生えているわけでもないし、なにしろ冬が近いせいか、端から枯れ始めているのだ。
あの草だけではない。木々も近ごろは落葉が顕ちょで、裸の枝も増えてきた。下草も色あせて乾燥し、森に吹く風は一層強くなる。虫の姿は激減した。きっと冬はさみしくなることだろう。
そこらの野草すらなくなれば、毒だの毒でないだの言っていられなくなる。なんとかして、草のたぐいを冬場までたくわえる手段はないだろうか。
やはり、肉るいと同様に、乾燥させるべきだろうか。お茶のように煎じて飲めれば、まだなんとかなるかもしれない。それとも漬物、にはできないか。漬け込むための容器もないし、だいたい、
そう、そうだ、塩がない。
これまでの食事でも、思えば長らく塩分がなかった。
動物の血液にはたいがい塩分が含まれているし、血抜きもせずに食べているため、塩分をまったくとっていないわけではない。多少の不足はあったとしても、命に大きくかかわるようなことはないはずだ。
だが、塩の場合は体のために摂取する、以外の役割も大きい。
漬物もそうだ。乾物だって本当は、塩をまいて干せればなおよかった。塩分の濃さが雑菌の繁殖を抑え、食べ物の長期保存を可能にすると聞く。今は気温もだいぶ下がってきていて、天日で干しても腐る前に乾くだろうと目測しているが、これで冬が明けたらどうだろう? 夏になったら? いつまでも食べ物の蓄えができないまま?
それになにより、味がないのだ。肉は血なまぐさい肉の味しかしないし、魚は泥くさい魚の味しかしない。草は苦味があるだけ。下手をしたら、中では虫が一番ましかもしれない。塩みのある、体液の味がする。
塩。ぜいたくを言う気はないが、一度気づくと欲しくてしかたがなくなる。海が近くにあるのなら塩の精製もむずかしくないが、山ならどこで手に入れられるだろう。岩塩? そんなものどこで見つけられる?
冬支度も終えられないまま、探し回るわけにもいくまい。結局この冬が終わるまでは、私にはなにもできないのだ。当座、すぐに必要なもの以外はすべて犠牲にする他にない。
まだ噛み終わらないうちに猫が帰ってきた。筆を置く。
結局夜までかかって、毛皮を一つ噛み終えた。
猫と話して、内臓を取り出して肉を保存用に回すことに決める。臓器部分は猫がぺろりと食べてしまった。
焼き色のついた腸を端からかじる猫を見て、元の世界でのあいまいな知識が思い出される。
たしか、野生の肉食獣は草食獣の内臓を優先的に食べるのだとか。それは未消化の草や葉を食べるためで、肉食動物でもまったく植物由来の栄養素が不要なわけではないのだとか。消化能力の低い肉食獣は、草食獣の消化器官内で、体内に吸収しやすく分解された植物を摂取している、だとか。
私は内臓を好まない。それが猫と私との違いだろうか? だから私は栄養失調で、猫は健康なままなのか?
いや、ビタミンは火を通すことにより組成が変わるのだ。やはりなにか、猫と私で根本的に違う部分がある。
肉は明日、日の高いうちに干すことに決める。草の保存のこともあるし、明日は乾物の制作日になるだろう。
五十九日目
晴天。雲一つなく、空気がよく乾いていた。風もない。すでに葉が落ち、裸の枝の合間から、陽光がまぶしく照りつける。乾物日和だった。
天候の割に気温は低い。朝は刺すような冷たさで、猫も私もしばらくたき火の傍を離れられなかった。昼近づき、少し暖かさのでてきたころに猫が狩りにでる。
猫がいなくなってから、私も作業を開始した。アライグマ?の肉を取出し、ナイフで解体する。
魚をさばいたことはあっても、丸のままの肉を扱ったことはなかった。骨まわりの処理に難儀する。
丁寧に肉を削ぎ落していくと、両手いっぱいにのせて少しあふれるくらいの量になる。思った以上に少ない。毛皮を取り、内臓を取り、骨までなくせば生き物はこれほど小さくなってしまうのか。
肉は乾燥で縮むことを考えて、大きめのぶつ切りにする。それから針を取出し、糸を通してから肉を刺す。肉どうしが接着しないように、一度肉に糸を通した後で大きい結び目を作る。少し間があくようにして、また次の肉を通す。そうして数珠つなぎにすると、肉でできたネックレスのように思える。ひもの両端を枝に引っかけると、ますますそれらしい。
日当たりのよい枝の下で、肉は日光を浴びる。この気温なら、腐る心配はないだろう。しかし、なん日くらいで乾燥し、どれだけ乾けば日持ちがするのかわからない。
三日前に同じ方法で干した魚が、肉の隣にぶら下がっている。参考までに一尾引っ張ってきて、検分する。
もともと十センチ程度だった魚は、今は七、八センチくらいにちぢんでいる。表面が固く強張り、ヒレがからからに乾いていた。腹のあたりはまだ弾力が残っている。においをかいでみても、特に悪くなっている様子はない。虫もついていない。順調に日干しが進んでいるようだった。
見た目で言うと、煮干しを少し大きくしたような様子だ。腹部に弾力があるということは、まだ水分が残っているのだろう。日持ちを考えれば、さらに乾燥を進めるべきである。これ以上固くなると、食べる際に歯が立たなくなりそうだが、それはまあ、水で煮立てて柔らかくすればなんとかなるだろうと判断する。
あと三日くらい干してみて、また様子をたしかめよう。この陽気と乾燥の具合からして、三日はやりすぎのようにも思えるが、どうせもとから味や食感を楽しむためではない。栄養が抜けるわけでもなし、乾きすぎてこまることはないのだ。
肉を終えると、次は空地で草をつむ。枯れはじめているものから優先的に、ほかの雑草と間違えないように気を付ける。今度はこれを乾燥させる。
草は、細く長い一本のくきを持つ。そのくきを中心に、ぽつぽつと丸い葉がついているような具合だ。葉は小さく、小指の先くらい。葉のつけ根あたりには、実だかつぼみだかわからない、緑の丸い粒がついている。
地球でいうと、なにに似ているだろう。葉はクローバーみたいに見える。くきの伸び方や葉のつき方は、ハルジオン?だろうか。
なにに似ているか考えて、野菜や果物以外の草の名前がほとんど出てこないことに気づく。植物には明るくない。私が明るいものってなんだろうか? 言語分析とか、パターン解読とか? とうてい役に立ちそうにない。
つんだ草は、思いがけず結構な量になる。ひとまとめにすると十円玉くらいの太さになったので、三つくらいに分けて、根元のあたりでくくる。
これを、肉とおなじ木に干す。寝床から真南、すでに葉の落ち切った背の低い木。この木が一番、日当たりがいいのだ。それに背が低いから、私でも枝に手が届く。
上手く乾燥してくれればいいが。肉や魚はなんとなく要領がわかるが、草は本当にこれでよいのか見当もつかない。たしかドライフラワーがさかさまに吊るとよいと聞いたことがあったので根元をしばったのだが、しかしドライフラワーを食べろと言われて、食べられるだろうか?
今なら食べるだろう。よろこんで食べるな。
それならまあ、いいか。ようは乾燥さえすればいいのだ。
乾燥というと、薪の方も増やしたい。冬場はどれほど薪を作れるかわからない。雪でもつもったら、乾燥どころではなくなるだろう。
川に出て、枝を拾い集めては広げていく。しばらく続けたあたりで暗くなったので、寝床に戻る。