四十九日目―五十一日目
※虫食注意
四十九日目
昨日の夜から猫が熱を出した。
私が倒れて以降、狩りの代わりに川に入って魚を取って、冷たさにやられたらしい。狩りに行けばよかったのに、私のことが心配ではなれられなかったのだという。
私が倒れて猫が倒れて、また私が倒れて猫が倒れて。ずっとこんなことの繰り返しなのか。
放っておいてくれればよかったのに。放っておいてくれてよかったのに。
昨日の今日で一人、落ち込んでいることも私には許されない。
いや。わかっている。
わかってはいるのだ。
猫は悪い奴じゃない。彼の行動は純粋な善意に基づいていて、いつだって私に親切だ。
わかっている。落ち込んでへこんで恨むことが筋違いだ。
恨む相手はどこにもいない。青虫だって悪くない。食われた二十日大根も悪くない。熱で倒れるのも悪くない。誰もなにも悪くない。
当たり前のように行動して、当たり前のように結末があった。
だから私だって当たり前のように受け入れなくてはならない。恨んで熱はひかない。世界が変わるわけじゃない。
泣かない。ちくしょう。泣かない。
悩まない。考えない。他の生き物は恨まない。私だってできるはずだ。
食べるものがないから、飴を水に溶かして猫に飲ませる。解熱剤も飲ませて寝床で休ませる。解熱剤ももう残り少ない。数えたら三錠しかない。あとで、他の薬の残量も調べないと。
あとは、鳥を連れて森を回って、植物を探した。博士のスケッチをなん度も眺めたからか、草の形はおぼろげに覚えている。
森の道は鳥が知っている。ときどき猫の様子を見に戻りつつ、川沿いを中心に歩けるだけ歩いて探してみた。
しかし日暮れまで探してなにも見つからず。やはり冬が近いからだろうか。そろそろ寒さも増してきた。もしかしたらもう冬なのかもしれない。
あと月が一回りしたら冬だったか? そう鳥から聞いたあと、どれくらいたったっけ?
月を見ないと。今までどうして、月齢を確認しなかったのだろう。
ああくそ。悔やみたいわけじゃない。とりあえず今日のことについて続きを書く。
猫の具合は悪そうだった。熱をだし、鼻をぐすぐすと鳴らしている。
なにか悪い病気ではないだろうか。まさかまたダニでもいるのか?
鳥にたずねるが、彼にもわからないらしい。ただの風邪かもしれないし、そうでないかもしれない。これから寒くなる季節、さまざまな病気が飛び交っている。らしい。治らない病気や死病もあるのだと聞いて青くなる。考えてみれば当たり前だ。むしろこの文明レベルなら、治る病気の方が少ないだろう。
いや、猫がどんな病気にせよ、とにかくまずは栄養をつけさせ、安静にさせるのが第一だ。健康であるのなら、たいていの病気は自分の力で治すことができる、はず。
だけど、その栄養がないのだ。
食べるものがない。なにも。
動物たちは猫の縄張りには入ってこないし、ときどき迷い込んでくるものも、気配を察するとすぐに逃げてしまう。魚も捕れない。草もない。日が暮れて、猫は寒さに震えている。昨日の夜からだ。
寝床に戻るたび、うなされたような鳴き声もなん度も聞いた。私はせいぜい、火を大きめに焚き、水を飲ませ、気休めに寝袋を被せてやるくらいしかできない。猫は寝袋をつかんでくるまり、丸くなって眠る。
どうしようもない。
本当にどうしようもない。
迷いに迷って、日が暮れたあとで少し寝床をはなれる。懐中電灯を手に、もう少しだけ鳥と森に出た。
元の畑近くで、青虫を捕まえられるだけ捕まえる。小指よりも小さくて細い虫だ。鮮やかな黄緑で毒はなく、冬を蛹で過ごすそうだ。春一番に蝶になるのだと、鳥が教えてくれた。
その虫を、捕まえた先から救急セットのケースの中に押し込める。這い出そうとするから、上から押さえつけるように蓋をする。それでもなん匹か逃げられた気もするし、潰れて落ちた気もする。
見つかる分だけ捕まえたあとは、またかなり迷って、結局持ち帰る。
寝床に戻って、虫入りのケースごと焼く。
火が入ると虫が丸くなり、金属製の容器にべたりと焼き付いてしまう。茹でた方が良かったかと思いつつ、火が通ったのを見てスプーンで虫を潰す。はじめは少し手が震える。原型がなくなったあたりから慣れてくる。
潰してペースト状にしたあとは、うなされる猫に食べさせる。
思いの外猫からの抵抗はなく、あっさりと食べてくれて安心する。与えられるままに食べ続け、そのうち食べながら眠ってしまった。
鳥に聞いてみれば、食料がないときは猫も虫を食べることがあるらしい。
もちろん、猫の主食が肉であることは間違いない。普段は狩りで食料が足りないことはあまりないし、猫の住処近くは雪が深く、食料が不足する季節は虫すらもない。
だから虫を食べるということが習慣としては存在しない。が、特別な忌避感もないそうだ。
ああ、うん、頭ではわかる。
虫は滋養があるのだろう。捕まえることも簡単だし、食べることはなにもおかしくない。
それに人間だって虫を食べる地域はある。節足動物ならエビやカニと見た目はそう変わらないし、芋虫だって、なにがおかしいわけじゃない。タコやナマコに比べたら、よほど親しみやすい姿をしている。それに柔らかくて食べやすそうだし、消化によさそうな気もする。
虫のペーストが少し残っていた。
私もなにか食べなければならない。今日一日でだいぶ疲れている。空腹は感じないが、それは単に麻痺しているだけなのだ。
昨日の夜はなにも食べていない。その前、意識をなくしていた間はなにをどれくらい食べたのか? それ以前は?
なんでもいいから食べなくてはならない。頭ではわかっている。食べなくてはならない。
他のものを食べるのと、なにも変わらないはずだ。レバーとか、タンとか、想像すれば虫より気色の悪いものだって、散々食べているはずだ。
人間はもともと、食虫目に分類される生き物から進化した。だからこれは、自然の行為なのだ。
一口食べて、しばらく我慢したが耐え切れず嘔吐する。腹になにもないからか、胃液ばかり出てきた。そのうち胃液さえなくなり、酸味のある呼気だけが吐き出される。
美味い不味いとか、毒とか、そういうのではない。単純な嫌悪感がたまらなかった。潰したのが悪かったのかと考えても見たが、形を保っていても感覚は変わらなかっただろう。
落ち着くまで吐いたあと、飴を割って鳥とわけ合って舐める。鳥が心配そうに私を見る。また体調が悪化しているのだろうか。
甘さが身に染みる。
明日こそ、なにか食べられるものを見つけなくては。
五十日目
猫の熱が落ち着いてきた。
昨日の虫ペーストの残りを食べさせて、薬を飲ませたあとはもう少し寝かせておく。
私もサプリメントを飲み、そのごは水を汲んで煮沸する。虫ペーストを入れていたのがいつも水を沸かす器だったので、煮沸の前に念入りに洗っておく。
あとは、朝のうちに二十日大根の種を植え直しておいた。まだ青虫の対策はできていない。見つけ次第捕まえて潰すほかにないだろう。今度こそ収穫できるよう、気をつけて育てなくては。
日が高くなってからは、また草を探して歩き回る。前は川沿いだったので、今度は森の奥の方だ。
猫の様子を見に戻りつつなのであまり遠くには行けないが、今日も歩けるだけ歩いてみた。昨日今日と、よくも歩けたものだ。体力はとっくに底をついていたし、あとはもう、意思の力か本能か。立ったまま死んでいても、最近はあまり不思議に思わなくなってきた。
話を戻そう。博士のスケッチをもとに、野草を探しているところだったか。
あれから結局、日暮れまで探してなにも見つからなかった。この日もやむなく、青虫を捕まえて帰る。
寝床に戻り、昨日よりやや抵抗感少なく芋虫をペーストにする。猫に食べさせ、寝かせる。猫の毛並は以前よりも荒れていて、真っ白な毛もやや黄ばんでいるように思えた。
互いに看病看病で、休まるひまがない。なにか劇的な変化が欲しいが、そんなものあるはずもない。
元気にならなくては。死にたくない。
猫の残した虫のペーストを飲み込む。体液じみた舌触りがひたすらに気持ち悪く、水で流し込む。それでも口の中に、ざらついた粘液のような感触が残っている。
だけど今日は吐かなかった。
五十一日目
熱は下がったが、相変わらず猫は鼻をぐすぐす言わせている。体調は快方に向かっているようだ。悪い病気でなくて良かった。
それにしてもこのひと月半で、猫と私合わせて、どれだけ寝込んだことだろう。私よりもずっと体力があるように見えて、猫も意外と寝込むことがある。
この生活に弱っているのは、猫も同様なのだ。洞窟暮らしの猫にとって、現状はやはり不自然な暮らしのはず。せめて、雨と風さえ防ぐことができれば。
家を建てなければ。
いや、でも食べ物が。
くそっ
少し考えを変えてみる。
このまま博士のスケッチを頼りに歩き回っていては、収穫もないままに体力だけが失われていく。だから、一度スケッチは脇に置き、近場で探せるものを考えてみた。
とりあえずあの空き地に行って、青虫がいたあたりの草を探してみる。虫食いのある草があれば、それを摘み取る。虫が食べられる草なら、人間にも食べられるのではないかと思ったのだ。
もちろん、虫のなかに毒草を好んで食べるたぐいのものがいるとは知っている。だけどあの青虫は、二十日大根の芽を食べ尽くしたのだ。少なくとも、優先的に毒草を食べるタイプではないはず。
あとは、単純に賭けだ。まずは一種類。少量食べてみて、異変がなければ少しずつ量を増やしてみる。それで無事だったらしばらく食べ続けてみよう。しばらく食べても平気そうなら、さらに別の種類。
時間もかかるし不確実だが、もうこうするしかない。
空地で草を摘んだ。
あの青虫は、どうやら柔らかい葉を好むらしい。虫食いがあるのはどれもそんな感じのものばかりだった。
とりあえず一種類、親指くらいの丸い葉のついた草を抜いてくる。一時間くらい前に一枚食べたが、今のところ特に異常はない。
あとは、そう
あとは、あの猫が倒れた由来を見る。
空地について真っ先に気がついたのがそれだった。
家を作るつもりで掘っていた穴。それが覗き込むほど深くなっている。三畳程度の幅で、深さは私の腰くらいまで。傍に大量のかき出した土と、ぼろぼろになったすきがある。
私はどれほど意識をなくしていたのだろう?
その間、あの猫は穴を掘っていたのか?
川に飛び込んで穴を掘って。看病して?
馬鹿じゃなかろうか。
犬だってこんな律儀じゃない。本当にこの世界で一番の文明人なのか?
馬鹿だなあ、あの猫。穴を掘る理由もろくにわからないくせに。私が死んだらどうする気だったんだ。
あの猫、人間より律儀じゃないか。
馬鹿だなあ。
家建てないとなあ。
死にたくないし、死なせたくないなあ。