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四十六日目―四十八日目

四十六日目


 傷口を見ているだけで半日が過ぎていた。昨日から血が止まらない。

 頭に血が通っていない感覚がある。気を抜くとすぐに意識が飛んでしまうようだ。筆を持ち、字を書くと少しましになる。読もうとするとだめだ。まったく集中ができない。

 字を書くというより、手を動かすという行為が私を目覚めさせているのだろう。この感覚、強いて言うなら極端に眠いときと似ているかもしれない。

 今日はなにか行動ができるとも思えない。疲労しているのだろうか。大人しく寝るべきか。いや、その前に傷を治さなくては。鳥に治療を頼んでみよう。



 鳥と話しただけで一日が終わっていた。

 血は止まった。傷を塞いでもらった。今は足の指に、小さな赤い跡が残るだけだ。

 猫は寝床で眠っている。狩りに出ていた気がするが、いつ戻ってきたのか覚えていない。

 とりあえず、今日は日記をつけてから眠る。とはいえ、鳥との会話以外になにかした記憶はないので、記すのはそれだけだ。



 たしか時間は二時か三時、斜めに差す日がまぶしいころだったはずだ。

 鳥は焚火近くでうとうとし、焼けそうになっていた。声をかけると驚き飛び跳ねたことを覚えている。

 慌てふためく鳥を手に取り、焚火の前に腰を下ろして足の傷を見せ、治してくれるように頼んだ。鳥は私の傷を一瞥し、最初は断ってきたのだ。

「元気な子の傷は、僕は治さないよ」と、こんなことを言った。「誰の傷でも治すわけじゃない。僕の力は僕自身にリスクがあるんだから」とも。

 鳥自身のリスクというと、これまでの経験から察しが付く。私の傷の治療後、気絶した彼の姿を見ているのだ。おそらく精霊は治癒に際して、精霊自身の体力か、それに類するなにかを削っているのだろう。

 この憶測は、鳥からの肯定をうける。体力、というよりは、空気が薄くなるという感覚らしい。精霊は自らの領域に満ちる空気のようなものであり、治療とは空気を濃縮させ、対象の体に溶かしこむ、というイメージなのだそうだ。空気は時間とともに次第に元の濃度に戻るが、一時的に弱ることには変わりない。

 正直に言って、感覚的に理解しがたい。まあ、精霊の感覚を理解できる方がおかしいのだろう。精霊は私たちのような生き物ではなく、私は精霊ではないのだ。


 それから、ああ、誰の傷なら癒すのかについても、ここで語られた。

 鳥が言うには、生き物の体には元から空気のようななにかが満ちているらしい。「生きる力ってやつだ」と鳥は言った。

「元気な子ほど力が満ちていて、弱っている子はスカスカだ。気力がなかったり、体力がなかったり。そういう子は、自分で傷を治す力がない。だから僕は、そういう子を助けるんだ」

 精霊の治療は、その空気を埋めるところにある。失われた生きる力を代わりに満たしてやる行為だ。相手が元気になったのならば、精霊の空気は少しずつ、相手自身の生きる力に食われていく。らしい。


「元気な子の傷を治すということは、もともとの生きる力を追い出して、僕の空気を押し込むことだ。これはとても不自然で無駄なことだ。不自然なことをするのは、僕自身もすごく疲れる。もともと洞窟にひびがあって、その隙間を埋めること。わざわざ頑丈な洞窟にひびを入れてからものを詰め込むこと。この違い、考えたらわかるでしょう?」

 おおよそだが、こんな感じのことを言った。

 たとえはわかるが理解できるかといえば否定する。精霊の力には制約があることだけを覚えておこう。

 生きる力というのなら、なぜ水あたりの回復はならなかったのか。傷をふさぐことしかできないのか?

 そんな疑問も浮かんだが、どうせ理解の範疇にはない。


 いずれにせよ、鳥は治療をしたくないらしい。そのことは伝わった。

 だから諦めようと、寝床に戻ろうとしたのだ。手のひらに乗せていた鳥を地面におろして立ち上がる。立ちくらみがして、よろめいたときだ。

「待って」と声がかかる。見れば鳥が地面から、じっと私を見上げていた。どことなく怪訝な、おどろいたような顔に見えた。

 そしてためらうような間を置いたあと、「やっぱり治してあげるよ」と、

 そう言ったのだ。


 鳥との会話はここまでである。





四十七日目?


 意識を取り戻したのは夜だった。正直、何日目の夜かは定かではない。

 鳥に聞いたところ、倒れて寝ていたのは丸一日だけらしい。しかし、そもそもいつの間に意識をなくしたのかがはっきりしないのだ。これでも数日は活動していたような、そうではないような。半端に記憶が残っていることも、時間間隔を狂わせている。


 猫と鳥には散々心配をかけたらしい。特に猫は、狩りにもいかずに傍にいてくれていたらしい。悪いことをした。

 私が倒れて猫が倒れて、また猫が倒れて。こんなことの繰り返しでは、いつまでも生活に余裕なんて出てこないだろう。

 すぐにでも元気になりたいところだが、気力でどうにかなるラインを越えていることは、さすがにもうわかっていた。


 現在、体調は最悪。

 これまでと比べて、劇的になにか悪化しているというわけではないが、すべてが悪い方向に向かっていた。

 いや、意識だけは少しましになっているだろうか。今は筆をとらずとも、多少の集中を保っていられる。おかげでひととおり、自分の体の様子を見ることができた。


 いたるところに内出血が見られた。どうやら血管自体が弱っているらしい。口の中にも血の味がする。

 これまでの出血や紫斑も、おそらく血管に原因があったのだろう。簡単に内出血ができるのが証拠だ。少しの衝撃で、体内の血管が破れてしまっているのだ。当初は血液の凝固システムの方に問題があるのかと思っていたが、これは間違っていたらしい。

 血管が弱り、血が止まらない病気。ここまで来ると、私でもある程度病名が予想できる。

 壊血病だ。

 断定はできないが、可能性は少なくない。

 そしてもし今の病状の大部分が壊血病であると仮定するのなら、その原因ももうわかる。


 栄養失調。たぶんこれは、間違いがないと思っている。



 壊血病はビタミンの、いくつだったか。とにかく植物由来の栄養素だったはずだ。これまでの食事生活をかんがみて、肉しか食べてこなかった私には当然の帰結と言えるだろう。


 いや、ビタミンの類は、動物の中にも含まれていないことはないのだ。

 ただ、それはあくまでも生での話である。この手の化合物は、大概が火を通すことによってその組成を変える。たぶんまったくすべてが失われるわけではないだろうが、栄養として摂取できるものは大幅に失われる。そもそも少ない私の食事量から、十分な栄養を得ることは土台無理だったのだ。

 そしておそらくは、壊血病の原因らしいビタミンいくつかの他にも、ろくに栄養が足りていない。他の欠乏症も発症しているのかもしれない。壊血病のようにはっきりとした症状は見えないが。

 ああ、いや、精神不安定もビタミン欠乏症の一つだった気がする。鬱症状が出るのだったか?

 このあたり、兵役につけばもう少し詳しく知れたのだろうが、私は居残りを選んだ身だ。また聞きくらいの知識しかないのが悔やまれる。



 あとは、そう。実のところ、栄養失調については、これまでまったく可能性を考えていなかったわけではない。そもそも食事の摂取量が少なすぎたのだ。冷静に考えて、体を動かすに足るエネルギーを得られるとは思えない。

 ただ、他にも要因がありすぎた。疲労やストレスはもちろん、未知の病気の可能性もある。寄生虫のせいかもしれない、虫の毒が入ったのかもしれない。

 病状は、おそらく一つの原因によるものではない。いくつかの症状が複合的に発現しているだろう。だから栄養失調も、可能性の一つの中に埋もれてしまっていたのだと思う。

 だけど考えてみれば、疲労やストレスは今の状況で、改善の手段がないのだ。病気は治しようがなく、寄生虫や虫の毒も私の力ではどうにもならない。

 結局これらの可能性の中で、私自身にどうにかできるのは食事だけになる。


 あ、

 、、ああ、なるほど。

 栄養失調であることは間違いない、と上述したが、たぶんこれは正しくない。

 私は現在の症状を「栄養失調である」と判断しなくてはならない。そしてこの判断が絶対的に「正しい」必要がある。 

 さもなければ死ぬのだ。だから信じるしかない。栄養失調だと思い込むのだ。

 他の可能性は、すべて自ら解決しようのない、死へつながる道なのだから。



 しかしこれで、どうにか今後の方針を立てられる。

 まずは栄養の確保が最優先だ。サプリメントを飲みつなぎ、草木が枯れる前に食べられる植物を探すべきだろう。博士のスケッチは、多少は解読が進んでいる。

 それから、二十日大根は今以上に大事に育てなければならない。最悪、あれが私の最後の生命線になってくれるはずだ。

 二十日大根の種を博士の家から拾うことができて、本当に良かった。あれは私の、この世界での最大の幸運であったかもしれない。きちんと発芽してくれたし、このまま育ってくれれば、気持ちの面でもだいぶ軽くなる。


 それともまさか、枯れていたりはしないだろうな?

 おそらくは数日? 私の意識のない間畑に出られなかった。おかげで水やりができなかったことだけが気がかりだ。

 、、そうだな。

 明日はまず、畑にいくべきだろう。





(追記:疑問)

 同じ食生活をしていた猫はなぜ無事であるのか?

 肉食獣であるということは理由にならない。彼らの体の維持に必要な栄養素は、雑食や草食と根本的には同じだからだ。

 猫が日常的に生肉を食べているならわかる。だけど、彼だって一度、肉に火を入れているのだ。

 火を入れるのは、うん、えー、

 ああ、寄生虫を殺すためか。寄生虫の存在自体を知らなかったからには、おそらく単純に、「火を通すと腹を壊しにくくなった」みたいな経験則からきているのだろうが。


 なににせよ、猫と私の条件は同じだったのだ。この違いはなんだ?

 まさか、体のつくりが丸ごと違うのではないのではあるまいな。見た目こそ有機物に見えていて、実は炭素が含まれていないとか?

 それならお手上げだ。私の消化器官はこの世界の生物に全く対応できない。それなら、ただ岩を食べるのとそう変わりない行為だ。



 いや。

 地球と似た大気組成で、地球同様に植物が葉緑素を持つ世界だ。そんな極端な可能性があるはずはない。

 きっと特殊な酵素が出ているか、なにか体内に共生生物でもいるのだ。

 それが代わりに、ビタミンの類を出しているのだ。そうに違いない。


 そうでなくてはならない。

 朝一番に畑に出るため、もう寝よう。





四十八日目


 上天気。

 サプリメントは飲んだ。

 畑には行った。


 …

 ……

 気持ちは、今は少し落ち着いている。順を追って書いていこう。



 空が白み始めると同時に起床。昨日手記に書いたように、真っ先に畑へ向かった。私を心配して、猫がついてきてくれていたが、このときはまったく気に留めていなかった。

 畑周辺は水はけが悪いせいか、まだ地面が湿っていた。これなら、枯れてしまうことはないだろうと畑のある場所を見た。

 畑はなくなっていた。



 双葉の生え始めた畑はなかった。間引きしないといけないと思っていた、あの密集した小さな緑は見当たらない。

 同じ場所にあるのは、食い荒らされて枯れかけのしなびた細い茎だけだった。茎すらないものもある。そこかしこに青虫のフン。少し見回して、近くの野草の茎に蛹がついているのを見つける。


 乾物にしようと干しておいた、小さな魚の束も探した。

 木の枝に紐が引っかかっているだけだった。足元に蟻の列ができて、食い散らかされた魚の頭を運んでいた。


 ぼんやりと地面を見ていると、青虫が這っているのを見つけた。

 丸々と太っていた。そう見えた。私は反射的にそれを踏んだ。


 それから長いことうつむいていた。

 黙って下を向く私に対し、猫は心配そうに鳴いていた。それでも私は首を振り、「平気」とだけしか答えられなかった。

 平気だ。大丈夫だから。これを繰り返し答えた。声をかけられると、余計に辛くなるのだ。

 だけどそんなこと、きっと猫にとっては知ったことではない。



 今も後悔している。筆をとりながらも無意識に唇を噛む。

 わかっていた。

 わかっているべきだった。

 青虫がいることを、私はすでに知っていたはずだった。

 冬場の貴重な若葉だ。狙われやすいだろうと、考えればわかるはずだった。


 可愛がって育てていた。

 思いの外。

 全部食い尽くされた。


 私はもう、悔しくて悔しくて、たまらなくて。

 こんなことで泣いてしまいそうなのが情けなくて。

 まるで些末なことに泣く自分が惨めで、そもそもなぜ涙が出そうになるのかさえ理解できなくて。

 息を飲み込み、泣かないようにするだけで精一杯だった。


 あとは、そうだ、一応これも書いておこう。

 涙をこらえていると、「ヘーキ」となんだか妙に不安定な声が聞こえた。あまり興味はなかったが、声の方を見やると、猫が私の周りをうろうろしていた。

 私の顔を覗き込んだり、自身もうなだれたりしながら、「ヘーキ? ヘーキ?」を繰り返し。たまに「ダイジョウブ」


 だけど私にとっては知ったことではない。

 猫がなにを言ったって、悔しさと惨めさがなくなりはしない。

 しゃべった。だからどうした、くそ。くそ。



 ちくしょう。また泣けてきた。

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