四日目
おそらく、うつらうつらとしていたのだと思う。強烈な浮遊感で目覚める。
バランスを崩して木から落ちようとしていたのだ。慌てて枝にしがみついて態勢を整える。朝から嫌な汗をかいた。
空は明るくなっていた。鳥の声がする。首のあたりがくすぐったいと思ったら、蟻に似た小さな虫がくっついていた。捕まえて放り投げる。
何気なく時計を見やれば、短針が七を指していた。陽光は斜めに差し、空気が張り詰めていることから、現在が朝であることは間違いない。以降、時計をおおよそ信頼してもいいだろうと判断する。
落ちかけたくせに、昨日抱え込んだままだった缶詰と懐中電灯は、枝を跨いだ足の間に大人しく置いてあった。
呆けながら缶詰を手に取り、口にする。
味気ない、というよりは味を感じない。感覚が麻痺しているらしい。味よりも、木々を揺らして飛んでいく鳥の群れの方が鮮明に覚えているくらいだ。
そんな調子でいたからだろう。足の間に置いていた懐中電灯が転がり落ちた。青くなる。あれは夜の生命線だ。
慌てて懐中電灯の行方を追う。
そこで見たものを、なんと形容するべきだろう。
懐中電灯を追って見た先にあったもの。昨晩の獣の争いのためか、すっかり荒らされた焚火跡、その横に置かれたリュックがうごめいていた。……いや、よくよく見れば、リュックの中に何かが入り込んでいるのだと気づく。
それは、巨大なナメクジとでも言うのだろうか。水気を帯びた外皮に、どことなく透き通った体を持つそれは、半分をリュックの中に沈め、上半分を外に晒しているようだった。
大きさはリュックの口から溢れるほど(バスケットボールくらい?)。時々左右に大きく揺れるたび、柔らかそうな体が波打つ。目を細めて見てみれば、どことなく青みがかったその体に鈍い銀色をした別の何かが混ざっていた。
透明な体の中に浮いているその「何か」は、少しずつ小さくなり、色合いを変えながら消えていく。消えると再び体を小刻みに揺らし、また体内に「何か」が取り込まれる。それを何度も続ける。
あれが食事風景であるということと、あの鈍い銀色が私の缶詰であるということに気が付いたのは、ほとんど同時だったと思う。
一斉に血の気の引くような、頭にカッと血が昇るような、矛盾した感覚を私は覚えた。
それからどうして枝を飛び降りたのかは、今でも理解しがたい。寝不足と恐怖で、正常な判断ができなかったと言わざるを得ないだろう。
飛び降りた私はしたたか足を痛めつけた。落ちたところにちょうど折れた木の枝があり、それを掴んで立ち上がる。そして無謀にも、その生き物に近づいて行った。
枝の先でそれを突く。突くたび、何ともうっとうしそうにその生き物は体を揺らす。それでもリュックの中身を取り込む動作はやめない。青いラベルの缶詰を一つ体内に浮かべて、じわりじわりと溶かす様子がつぶさに見られた。
私は泣きながら「どけよ、どけよ」と口に出していたが、もちろん相手に伝わるはずはない。リュックから出ようとしないそれに、次第に枝に込める力が強くなる。最終的には、ほとんど突き刺すような勢いだった。
何度か突くうちに、ついに相手の方が耐え切れなかったらしい。もぞもぞと揺れながらリュックからそれが這い出てくる。半透明の体は予想した通り、ほとんどナメクジだった。ただしナメクジよりはやや体が円くて、角がない。
それは姿を現すと同時に、枝に向けて体を伸ばした。と思うと、つるりとした体表を割り、口のように開いて枝先を包み込む。
取り込まれた枝が透けて見えた時は、心底ぞっとした。引っ張ってもびくともしなかった。そして私の目の前で、取り込まれた枝が溶けていく。
そいつは体内で枝を溶かしながら、ゆっくりとたどってきた。枝が短くなる。私に這い寄ってくる。
私は悲鳴を上げたと思う。枝から手を放したはずだ。足元に落ちた石や泥の塊を掴んで投げた覚えがある。無我夢中であったことだけは確かだ。
結果から言えば、その生き物は死んだ。おそらくは私が殺した。
大きめの石に押し潰され、外皮が破れてどろりとした粘性の体液が流れ出ている。重たげに地面に広がるそれは微かに緑を含む透明な色をしていて、ゼリーかなにかのように見えた。だけど、ひどく生臭い。
いつ殺したのか、いつ死んだのか定かではない。動かなくなっていると気が付いたときには息が詰まる心地がした。今でも気持ちが悪い。ろくろく記憶もないくせに、潰した感覚が手に残っている気がして、手帳に記す文字が震えている。
死んだと気づいて真っ先にしたのは、しかしどれほど冷静さを失っていても、荷物の確認だった。
無防備にリュックに掴みかかると、あの生き物の分泌したものだろう、粘っこい液体が手に絡みつく。半泣きになりながら、それでも触らないわけにもいかずにリュックの口を開いて中を調べた。
そのままの形で残っていたのは、小さな缶詰が二つほど。封の開いていない真空パックの乾パンが一袋と、飴の袋。鉄も溶かす癖に、ビニールが苦手なのだろうか。ならば封を開けなければ良かった。後悔しても遅い。
残りは大体が、半分溶解したような姿でリュックの底に散らばっていた。あの生き物の食べかすなのだろうと思うと、中身が半分ほど溶けた缶詰に手を出す気にはなれない。リュックを引っくり返し、食べかすをすべて破棄する。
その後、無事である残り少ない食料を抱え、私は再び木の上にいた。落とした懐中電灯も拾っておいた。
枝の一つに引っかけておいた寝袋の袋に、それらすべてを詰め込み、安堵にもならない息を吐いたところで、今この手帳に書き込んでいる。
百年でもたったかのような疲労だが、これでまだ四日目なのだと思うと絶望する。辛い。
そうだ、食料がなくなったことについても考えなくてはいけない。ここに来てから食欲を失っているが、食べなければもちろん死ぬ。今日明日で助けが来る見込みもない。ならばどこかから調達するべきだろう。
果実でも生っていないかと周囲の木々を見回すが、そんな都合のいいことはない。私を取り巻く広葉樹らしい木々には、青々とした葉が茂るばかりだ。どうしよう。どうすればいいのだろう。泣けてくる。泣けてくるという文字を書くことで、しみじみと泣いてしまう。辛い。いつまで待てばいいのだろう。いっそ早いうちに死んでしまった方が楽なのかもしれない。
今日はもう、書くことはやめよう。少し気持ちを落ち着かせたい。
少し、追記する。大したことではないが、やはり書き残しておかないと落ち着かない。
まず、あのあとしばらくして、昼食をとった。ぼんやりと過ごしていたら五時を回っていたので、昼食というべきか、夕食というべきかわからない。
缶詰をこじ開けて、ほぐした魚の身を食べていると、鳥が近くの枝に止まっていることに気づいた。こちらへ来て以来何度か見かけた鳥と同じ種だ。じっとこちらを見ているので、何気なく缶詰を差し出す。
馬鹿なことをしているとはわかっている。食料が足りないというのに、どうして鳥に分け与えようと思ったのだろう。たぶん、投げやりになっていたというのが正解だろう。
手を伸ばして缶詰の中身を鳥に向けると、鳥の方も恐れずに近寄ってきた。缶詰のふちに足をかけ、鳥は一度中身をついばんだが、それだけだった。すぐに飛び去ってしまう。
その姿を見ながら、あの鳥は食べられないだろうかと考える。人を恐れないのならば、捕まえるのもそう難しくないだろう。
それから、夜になる。また木の下で獣の気配がしたので、これもやはり馬鹿だとは思いつつ、懐中電灯の明かりを向ける。
どうやら焚火の傍に、何匹か集まっているようだった。あの山猫のような獣とは違う。サイズが一回り以上小さい。体が長く平らで太い尾もあり、一見して爬虫類のように見えるが、鱗ではなく毛に覆われているあたり違うのかもしれない。もっとも、爬虫類でも哺乳類でも、私にとってはそう大差ない。
しばらく眺めているうちに、彼らが何か食べていることに気が付いた。数匹が一か所に顔を向け、ひたすら口を動かしている。
焚火の近くということで、まさか今度は空のリュックが狙われたのかと肝を冷やす。慌ててリュックを探して明かりをさまよわせる。
リュックは彼らの輪の外にあった。邪魔そうに尻尾で払われているあたり、さすがに食用として見られてはいないらしい。では、何を食べているのか。
もう一度確かめて、さらに私は青くなった。
あの巨大なナメクジみたいな生き物の死骸だ。あれの体を舐めているのだ。気色悪さに吐き気がする。潰れたばかりの、外皮の破裂した死体。そこから重たく流れ出る体液を思い出し、また腕が震えはじめた。
だが頭の片隅で、あれも食料になるのかと考える私もいる。発想のおぞましさに総毛立つ。
どうしてこんなに詳細に記してしまうのか。泣きながら書きながら、ふと考える。
おそらく一人でいるということが大きいのだろう。現状の不安を誰かに話したいが、相手がいない。だからこうして書き記し、明日に読み返すであろう私に語りかけているのだ。
不安を分かち合える相手は私しかいない。どうしようもなく辛い。
(追記)
読み返すであろう自分、という文字を書いたあたりで、思い立って今日の手記を読み返してみた。
いっそ早いうちに死んでしまった方が楽なのかもしれない。
この一文が目に留まる。
書いた記憶がない。しかし紛れもなく私の字である。おそらくは無意識に記してしまったのだろう。
楽になりたいと思い始めている自分自身に気が付く。
どうか明日の私は強く気を持ってほしい。