四十三日目
雨が上がった。
猫は相変わらず火の傍を離れない。毛並が水分を含んだまま膨らんでいる。触れてみると、熱があるらしいと気付いた。
あわてて屋根にしていた寝袋を敷き、その上に猫を横たえる。寝床は水浸しで、とても寝かせられるような状態ではなかったのだ。雨上がりの地面はぬかるみ、直接寝かせるにも冷たすぎた。
されるがままの猫に水を飲ませて、持っていた解熱剤を無理やり口の中に押し込む。猫は抵抗することもなく、時折ふにゃふにゃと鳴き声を上げるだけだった。
これは何かの病気なのか、あるいは疲労で熱が出たのか、それともただの風邪なのか?
効果的な治療方法がわからない。とにかく休ませて、栄養を取らせなければ。
栄養と考え、一昨日から何も食べていないことを思い出す。私も同様だが、相変わらず食欲はさっぱり訪れない。それでも動けるのだから問題ない。
今は、とにかく猫の方だ。獣を狩ることはできないし、魔物と出くわすような偶然も期待できない。
少し考え、川に向かう。
川原は増水の跡がありありと見え、そこかしこに水の溜まりができていた。
水たまりを覗いてみると、増水後に移動できなくなった魚がうろうろと泳いでいる。大きな魚はいないが、ハゼくらいのサイズはちらほらいるようだ。以前に増水した時と同じだ。ここらの魚は、増水のたびに水たまりに閉じ込められているのか。
手で捕まえようとすると、意外にすばしっこく逃げ回る。が、そこらの石を投げいれて水たまりを埋めていくと、逃げ場を失った魚を簡単に捕まえることができた。
逃げ場を埋めていく? この方法、川に応用できないだろうか。
石で川を埋めて魚を誘導して、上手く追い込むことができるならば。これなら、川から魚を捕まえることができる気がする。川幅を狭くして、下流に網でも仕掛けておくのはどうだろう?
網はどうする?
編む? どうやって?
やはり現実的ではないか。
猫に話を戻す。
寝床に戻ったときも、猫は丸くなったままだった。火の傍に軽く吐いた跡がある。
消化にいいようにと考え、魚を刻んで柔らかく煮詰めてから猫に与える。スプーンに乗せて顔に近づけると、しばらくふんふんと鼻を鳴らしてから舌を伸ばしてきた。
舐めるように食べる姿に安堵する。食べる気力があるなら大丈夫だろう。
食後。畑の様子を確かめようと立ち上がると、抵抗がある。
見れば私の服の裾を猫が噛んでいる。どうしたのかと猫に手を伸ばすと、今度はその手を甘噛みしてきた。噛みながら、にいにいと子猫のように甲高い声で鳴く。寝ているのか起きていているのか、目は閉じられたままだった。
鳥の通訳を介すまでもなかった。
振りほどくわけにもいかず、猫の隣に腰を下ろす。その気配を感じたのかは知らないが、猫は耳をぴくぴくと動かした後、鳴き声を上げるのを止めた。
それ以降、ずっと大人しく寝息を立てている。そのくせ尻尾は私の足に巻き付いてきて、さっきから立ち上がることも許してくれない。
まあいいか。仕方がない。諦めとともに、猫の頭を撫でる。
こうして見ると、ただ大きいだけの普通の猫みたいだ。
動けないので、その場でできる作業をする。
とりあえずは作りかけだったすきを、一応それらしく完成させた。先端は扁平に尖り、持ち手は細く握りやすくなっている。これを固い地面に突き刺して、体重をかけて掘り起こすというイメージだ。実際に使えるかどうかは、これから試してみる必要がある。
それから焚火だ。地面がぬれて火勢が弱く、猫の体が温まらない。むしろ、あの雨の中よくぞ消えずに残ってくれたというべきか。火は不安定に燻り、黒い煙を上げている。
薪の方も、地面近くに組んでいたやつは水がしみて、すっかりだめになっている。一番上もだ。こちらは直接雨が当たったせいだろう。
ぬれて使えない薪を地面に直接置き、少し高さが出るまで井桁に組む。それから組んだ枝の上に並列に使えそうな薪を並べ、消えかけの焚火から火を移す。これで地面に薪が触れないはずだ。
しばらくすると、新しく組んだ薪に火が燃え移り、炎を上げ始めた。薪の上下に空洞があるため、空気の通りが良いせいだろうか。よく燃えるが燃え尽きるのも早い。燃え切る前に地面に落ちてしまうこともあり、薪の消費が著しい。
しかし、これで暖を取ることができるだろう。
あとは、特にすることが思い浮かばなかった。
博士のスケッチでも眺めようか。可食の植物の特徴を覚えておけば、森を歩くついでになにか見つけられるかもしれない。そんな風に思って、博士の日記を手に取った時だ。
一枚の紙が日記から落ちる。
以前に読んだ手紙や名刺とは違う。飾り気のない薄い紙だ。
見ると、博士とは違う筆致でなにか書かれている。英語、のようにも見えるが、ところどころに独語らしい単語も混ざっている。一見したところは砕けた、親しい人に宛てた文面に感じられる。さらに、紙の端に走り書きがあるようだが、こちらは完全に独語のようだ。読めない。
紙の端である走り書き周辺は、何がこびりついているのか、黒く変色していた。触れると糊のように固く強張っている。この糊が日記のページに接着していて、挟まっていることに気づかなかったのだろう。
これはなんだろうか。訳してみようと思うが、文字列を見ると頭痛がする。スケッチの短い文面もろくろく訳せないのに、独語交じりの文章を読めるものか。
紙が挟まっていたのは、日記の空白部分だった。博士に宛てた手紙ではないようだが、どうしてこんなところに挟まっているのだろう。
博士が挟んだのか?
あるいは他の誰かが?
もう一度紙に書かれた文面を眺めてみる。
これ、読み取れないこともない。前後の文脈から独語が推察できる。
なんだろう、ラブレター? とも少し違うような。
訝しんでいると、隣で猫が動く気配がした。
そこで気がつく。すでに空が暗くなっている。時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。訝しんでいるだけのつもりだったのに、いつの間に時間がたっていたのか。最近は呆けたまま、意識が飛んでいることが多すぎる。
それでも、火だけは無意識に絶やさずにいたらしい。炎に照らされ、猫が私に頭を摺り寄せているのがわかった。珍しいこともあるものだ。こんな子供のような彼の姿を、私は初めて見た。
「にゃあ」と猫が鳴く。どこか夢見がちな声だった。寝ぼけているのかもしれない。薄く開いたとび色の瞳が、私を曖昧に見つめる。
そしてまた口を開ける。「ア」と一言。か細い声で、震えるように発声する。
ア。
「ア、リ、ガ、ト、ウ」
猫はまた寝入った。炎のはぜる音だけが森に響く。耳鳴りがしそうなほど静かだ。
幻聴だったのかもしれない。