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四十一日目―四十二日目

虫注意

四十一日目


 曇天。時折雲間に、太陽が見え隠れする。

 昨日に比べると、天気の割に空気が暖かい。雲が気温の低下を遮っているのかもしれない。ほのかに湿度がある。雨の気配か。

 昨日、地面を掘る際についた傷がまだふさがらない。砂が入り込んでいるせいか、血が滲み続ける。痛みは薄いが、これは麻痺しているためと思われる。

 以前に魔物に噛まれた腕、博士に噛まれた右指の二本も麻痺が続く。特に指は、関節で曲げることが未だにできずにいる。


 私が目覚めたとき、ちょうど猫が出かけるところだった。「おはよう」と言うと、だんだん慣れてきたようで、「オアオウ」と応える。

 さらに続けて「いってらっしゃい」と言うと、猫が困惑する。少しの間悩むように尻尾を揺らしてから、窺うように「オアオウ」と繰り返した。彼にも少しずつ、いろんな単語を教えていこう。



 猫が出立した後は、いつものように鳥と連れ立って畑に向かった。鳥は私の肩か頭か、そのあたりに陣取って自分では飛ばない。鳥のふわふわとした重みは不快ではなく、私はされるがまま彼の乗り物になる。

 植え替えられた二十日大根は、少し日陰に追いやられたものの、続々と芽吹き始めていた。それほど密集して種を蒔いたつもりはなかったが、これはそのうち間引きが必要かもしれない。

 一方で、すでに双葉にまで育っていたものは、植え替えによる環境の変化に耐えられなかったのか、上手く根付くことができなかったのか、すっかり萎れてしまっていた。伸び始めた新しい芽の中に埋もれて、地面の上に力なく倒れている。すでに色も褪せ、おそらくあとは枯れていくだけだろう。

 罪悪感が募る。ごめんなさい、と呟き、無意識に手を合わせた。

 もっとも、きちんと育ったら躊躇なく食べるつもりだ。そのときに罪悪感は、たぶん抱かないだろう。

 我ながら矛盾したものだと思う。

 なぜ罪悪感を抱くのか。なにが違うのか?

 私はなにに同情しているのか。

 なぜまた、こうも不毛な考えを抱くのか。萎れた双葉の姿が、なぜ胸に突き刺さるのか。


 おそらく、精神的に追い詰められていたのだろう。

 現状の不安と、考えることをやめよう、やめようという自分自身による脅迫観念。

 昨日の平穏な心理状態からの、揺り返しよるものかもしれない。

 この時の私、いや、ここ数日の私は、恐ろしく不安定であった。

 これを書いている今は、そのことがわかるくらいには落ち着いている。



 続きを書こう。

 次に私は川に向かい、そこで乾燥させておいた薪を拾い集めた。雨の恐れがあるため、生乾きのものも構わずすべて回収する。と言っても、片腕で抱える程度の量だ。

 最近は薪を乾燥させたあと、寝床の近くに組み上げて置いておくようにしている。こうしてわかりやすくしておくと、猫が薪を利用してくれるのだ。やはり落ち葉よりは薪の方が火の持ちも燃え方も安定しているため、猫もこっちを使いたがるらしい。

 飲用水を作るために水を汲むとき、川の様子も見る。

 魚の姿が少なく、心なし水かさが増しているように思えた。上流ではもう雨が降っているのかもしれない。

 空を見ると、雲が増して陽光を遮っていた。朝に比べてやや寒さが増している。



 川から寝床に戻る途中。やたらでかい虫を踏む。

 一見すると大きな丸い石のようなものだった。

 よくよく見ると、バレーボールサイズの丸まらないダンゴ虫のようなやつだった。節ごとに層になった殻を持ち、二本の触角と無数の足が生えている。殻は艶めいた灰色で、固さの中にしなやかな、生物めいた柔らかさも感じられた。

 意志でないということは、踏んだ瞬間に悟った。

 壊れかけた靴越しに、何かが蠢く気配が伝わってきたのだ。見やれば私の足の下で、楕円の虫が足を広げ、潰れかけている姿が目に入る。苦しげに足をばたつかせ、触覚を必死に動かしていた。

 ぞっとする。

 この感覚は、不意にゴキブリに出くわした時と似ている。理由のない嫌悪感だ。ばたつく足が、節のある甲殻が、そして私が潰したという事実が、得も言われぬ不快感を抱かせる。

 しばらく動けずに固まっていると、足元の虫がなにやら不器用そうに体を反らした。無数の足が蠢く腹を見せ、反り返ったまま私の足を噛む。ぎょっとして振り払おうとして、

 蹴り上げてしまった。


 痛みやら嫌悪よりも、もっと反射的な行動だった。

 私の蹴りには手加減も遠慮もなく、致命的な感触が足に残る。甲殻を壊し、虫の柔らかい部分に触れてしまったというあの感覚。私の足が虫に触れると同時に、もう取り返しがつかなくなってしまったことを確信した。

 蹴られた虫は逆さ向きにひっくり返ると、しばらく無数の足を震わせていた。

 が、じきに動かなくなってしまった。


 罪悪感があった。


 抱えた薪を取り落とし、困惑と喪失感を同時に得た。

 虫に対する嫌悪。生きているものを殺したという事実。虫の巨大さが気色悪さとともに、「生物である」ということも強く訴えかけてくる。

 なぜ虫ごときに、とも思う。今までだって散々、虫を殺してきた。猫のダニを潰したり、体を這う蟻を払ったり、知らない間に踏み殺していたこともあるだろう。だいたい、猫の狩るねずみや兎を平気で食べて、どうして虫にこれほど心揺さぶられなければならないのか?

 何が違うというのか。なぜ罪悪感を抱くのか。生きるものと死んでいるものの違いなのか。なぜ。

 再び不毛な思考に陥ろうとしたときだ。同道していた鳥が、「ああ、かわいそうに」と言い放ち、虫の死骸を食べ始めたのは。

 あまりにも自然に私の頭から飛び立って、あまりにも自然に虫の腹をつつき出した。

 このときの衝撃を言葉にするのは難しい。鳥の言葉は嘘がないはずで、虫に心から同情し、なおかつ食べることに躊躇がない。


 目の前でまざまざと矛盾を見せつけられる。


 いや。

 違う。

 同情と食べることは矛盾しない。矛盾していると思い込んでいただけなのだ。

 そのことを見せつけられた。目の前の出来事が、すとんと腑に落ちる。


 そういうものなのだ。


 私は随分と、狭い思考の穴にはまっていたみたいだ。

 食べていいではないか。

 同情してもいいではないか。

 そういうものなのだ。


 何も不思議なことはない。

 鳥は虫を食べるもの。憐れんだとしたって、それは変わらない。疑問を抱いたとしても、その生き方を変えることはできないのだ。


 たとえば雨が降るように。

 雨の降ることを止められないように。


 そう、このあたりで実際に雨が降り出した。

 鳥と連れ立って、急いで寝床まで駆け戻る。



 寝床に戻ると、雨がますます強くなってきた。

 木々が雨をおおよそ遮ってくれるものの、やはり滴の落ちてくるのは免れない。焚火をできるだけ雨の当たりにくい場所に移し、早めに飲み水を沸かしておく。雨で火が消えたら、しばらく飲めるものがない。いや、雨水を汲めばいいのか? 何にせよ、沸かして置いて損はないと判断した。


 夜になる前に、猫が慌てた様子で駆け戻ってくる。

 すでに彼の体はびしょ濡れで、哀れなくらい震えていた。

 未だ燃え続ける火に安堵した様子で近づいて行き、焼けるくらいの距離でうずくまったまま動かない。「おかえり」と声をかけても、弱々しく「にゃあにゃあ」と鳴くだけだった。



 その後、雨の勢いは変わらないまま今に至る。

 これ以上雨脚が強まるようなら考えなければならないが、変わらずにいてくれるならなんとかなりそうだ。木の下ならば火が消えるほどの雨はそそがない。地面が濡れることだけに気を配れば大丈夫だろう。

 地面か。

 今までは直接、土の上に焚火を作っていたが、そろそろ改めた方がいいようだ。石でも組んで、地面の湿気が薪や火に直接当たらないようにすればどうだろう?

 燃えにくい生木を地面に組んで、その上に薪を置くようにしてもいいかもしれない。


 もっとも、今は猫が火を陣取っているため下手なことをできない。

 早く雨が止むように祈る。




四十二日目


 雨だ。

 雨が降り続けている。


 私は今、目の覚めるような気持でいる。



 昨日から、もっとずっと前からはまり続けていた思考の穴。

 不毛にめぐり続ける私の頭に、雨が降り注いだ。これは恵みの雨だ。

 神様。

 信じていないけれども、神様、思わずそうつぶやきたくなる。


 雨が降ること。

 それを私は当たり前のように受け入れられる。

 それと同じなのだ。

 降り続く雨が、そのことを私に気づかせてくれた。



 この世界を受け入れる。

 生きていることを受け入れる。

 鳥がいて、猫のような原人がいて、この世界で生きている。

 同じように私がいて、生きている。

 精霊がいること、魔物がいること、地球とは進化を違えた生き物がいること。私の目には奇妙に映る、それらすべてのこと。

 生き苦しいこと、人間のいないこと、博士の発狂、孤独、元の世界へと帰る手段がないこと。それでも死ねずに、生きていくこと。

 なにもかも、ありのまま受け入れる。

 雨が降るのを甘受するように。

 雨が降り、風が吹き、季節が移り変わることに、誰も疑問を抱かないように。



 私は考えることを止めることができた。

 不毛な世界から、やっと抜け出せた。

 もう疑問は抱かない。無為なことに思考を費やさない。

 生きていく。そのことだけを考えていける。

 それが生き物として、当たり前の行動なのだ。


 今はとても気分がいい。

 私にまとわりついていた、すべての苦しみとしがらみを捨てたような心地だ。

 生きるのが、息をすることが、これほど楽だと思ったことはない。



 あとは、そう。雨が長引いて、次第に木から零れ落ちる滴が増してきた。

 火を守るため、弱る猫を雨から守るため、簡易な屋根を作った。

 難しいものではない。長めの枝を三本探してきて、地面に倒れないように突き立てる。その三本を支柱にして、上にシートを被せるだけだ。支柱には傾斜をつけて、雨水を受け流すこともできるようにした。

 ああ、シートはないから、寝袋を破って作った。伸縮性があって水を弾くいい素材だ。もったいないかとも少し考えたが、別に大切に取っておく意味もないし、いいんじゃないかと思う。

 前に雨が降った時も、こうすればよかったのに。あのときは手持ちの荷物を失うことを恐れすぎたのだ。

 今は、まあ、別にいい。あまりこだわりはない。


 これから、雨が少しだけ楽になるだろう。

 震える猫の傍で支柱を支えつつ、すきを作るために木を削る。今日はもう、これくらいしかすることがない。

 だけど満足している。

 今日は素晴らしい日だ。

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