三十六日目―三十七日目
三十六日目
晴天。風がある。筋肉痛に代わり、今度は手や足の末端が痺れる。
震える手でボトルを開け、水を飲む。血の味がする。どうやら歯茎から出血しているようだった。指で奥歯に触れてみると、抜ける気配こそまだないが、グラグラと危うげに揺れる。
歯槽膿漏?
思えばひと月以上歯を磨いていない。口の中も随分と荒れていて、口内炎がそこかしこにあるのが感じられた。恐らくは口臭もひどいのだろう。しかしもう、自分ではわからなくなっている。不衛生を気にするような相手も特にいるわけではない。思えばこの世界に来てから、服すらろくに洗っていないのだ。
だが、歯が痛むのは歓迎しない。物が噛めなくなることはこの世界では致命的だ。
歯ブラシの代用品でも見つけるべきだろう。昔の人は竹で歯を磨いたというが、この世界にそんなものはあるだろうか?
用足し、戻ってくると寝ていたはずの猫がいない。また狩りに行ったのだろう。猫の生活サイクルは、狩り、食う、寝るの繰り返しだ。野生動物ならそんなものだろうか。
薪を火にくべ、横で博士のスケッチを訳す。
どうにもぼんやりとしがちなため、博士の日記を閉じて気晴らしに散策に出る。
元の世界にいたころは、半日くらいモニターとにらめっこをしていたのに、随分と集中力がなくなってしまったものだ。
種を植えた場所と川原を見回り、様子を確かめる。
とはいえ、昨日も見て回った場所だ。特に異常はない。ボトルの水を畑に注いで、帰り際に川原で水を汲む。今までは川原に火を焚いていたが、ライターのオイルが目に見えて減っていることに気がついたため、この先は火も節約しようと考えたのだ。
水は寝床に戻ってから、燃え続ける焚火で煮沸する。ボトルを水汲み用と飲用に分け、煮沸した水は飲用ボトルに間違いなく注ぐ。水汲み用のボトルは生水専用、飲用には絶対に生水を入れない。水あたりを警戒してのことだ。
水あたりと言えば、腹の具合は未だ変わらずゆるい。さらに言うと、かなり臭いがきつい。肉食動物の排泄物は臭うと聞くが、猫と同じ食生活を続けているせいだろうか。
出ないよりはましだろうか。慰めにはならない。
夜半過ぎ、猫が戻ってくる。どうやら無収穫だったらしい。
申し訳なさそうに猫はふにゃふにゃと鳴く。猫自身が空腹ならさておき、私自身は養われている身分であり、特に気を使う必要はない。それに腹も減っていないから大丈夫。食欲不振で、空腹自体あまり感じないのだ。
という旨を、起きてきた鳥に通訳してもらう。
猫は慰めに応じず、どことなく気落ちした様子で寝床に潜っていった。
三十七日目
歯ブラシ代わりに、指で歯を磨く。歯槽のう漏を警戒してのことだ。
水で口をゆすぐと、やはり赤い。歯茎には痛みがなく、どちらかと言えば口内炎の方が痛い。
長引く体調不良の影響は、そこかしこに出ていた。
熱や下痢はもちろんのこと、肌の荒れも酷い。草や木の枝で作った傷の類は治りが遅く、いつまでも血が滲む。
この細かな傷については鳥も治療はしてくれない。負担になるというのももちろんだが、どうやら小さな傷を治すこと自体、不得手らしいのだ。
だが、以前は火傷の治療をしてくれたような?
まあいい。考えるのはやめにしよう。考え悩むことに最近少し疲れてきた。
鳥だって治療したいときとしたくないときがあるだろう。傷なんて、本来は自然に直すものなのだ。そういうものだ。
理解できないことを、無理に説明つけることもない。頭が痛くなるだけだ。あまりはまり込んで考えすぎると、いずれ私も博士のように
いや。
やめよう。
そうだ、体の様子を見ているうちに、猫が起きてきた。
起き抜けにまずは火に拝礼し、それから私ににゃあと鳴きかける。おはよう、と返す。
猫が火への礼拝を続けていたとは知らなかった。一緒に生活している割に、どちらの生活リズムも不規則で、食事以外で行動を共にすることが少ないせいだろう。
猫はすぐに狩りに出た。私は昨日同様、畑と水汲みをする。
水汲みのときに、失敗して川に落ちる。
ぼうっとしていたせいだろう。しゃがんでボトルに水を入れていた時、前のめりになりすぎていたのだ。幸い、水は飲まずにすんだ。
川は予想よりも浅い。川岸近くなら深くても三十センチくらいだろうか。この程度の水深でも魚がよく泳いでいる。
捕まえようと手を伸ばすと、さっと岩陰に隠れてしまう。さすがに素手で捕まえるのは難しそうだ。諦めて川から上がる。
濡れた服を脱ぎ、ついでに軽く洗って川原に広げたのち、一旦寝床へと戻る。すっきりした。思えばこの世界に来てから、下痢した後もおう吐の後も、結局ジーンズや下着を洗えず仕舞いだったのだ。そのうち体も洗いたいが、それだけの消毒した水を、どうやって集められるだろう?
他に特筆するべきことは。
そうだ、濡れた服を脱いだときに大腿部の違和感に気づいた。
太股の裏側から膝にかけて、斑点上の大きな紫斑があったのだ。一見して痣のようにも見えるが、どこかにぶつけた記憶はない。触っても痛くはないが、少し張っているようだ。
体調不良から来る……皮下出血? そんなものあるのか?
これでも、もとは風邪知らずで、アレルギーも虫歯もほとんどないような健康体だったのだ。それが今、この有様だ。有り余るほどの体の不都合に、自己認識がなかなか追いついてこない。
頭の方もいつもよりも働きが悪いようだ。言い訳のつもりではないが、スケッチの簡単な英文が少しも訳せない。話すのは苦手でも、読むことにはかなり自信があったはずなのに。
川から戻った時には猫はすでに出かけていて、日が暮れはじめる少し前、服を取りに川に行って帰ってくると、今度は猫がいた。
軽く傷を負ったらしい。彼は赤く染まった腕を、毛繕いと同じ仕草で舐めていた。どうやら凶暴な大型獣に鉢合わせてしまったらしい。
猫でも対処できない獣がいるのか。驚きつつ問うと、猫は神妙な顔で唸る。
「冬眠前だから凶暴になっているんだよ。普段ならこの子たちに怯えて逃げるはずなんだけどね」
冬眠。
ここから、これから来る冬と、越冬について話をすることになった。
これから冬が来る。
鳥の話では、あと二度の満月を過ぎたころ、最も寒い時期が訪れるそうだ。月の公転周期が元の世界と同じとすると、おそらく今は十一月あたりだろう。
猫たちは本来、この時期は食料集めに走っているらしい。雌雄問わず狩りに出て、子供たちは火を焚くための枯れ木や枯葉を集める。それを少しずつ消費しながら、洞窟に閉じこもって冬をやり過ごすのだという。
どうやら、彼らは冬眠しない種族のようだ。私としては助かった。冬場に一人取り残され、無事で済むとは思えなかった。あれほど悩みぬいたものの、やはり死ぬのは怖いのだ。
さらに聞くと、秋の蓄えが少ないとき、彼らは洞窟を出て山を下るそうだ。そして下ったきり、帰らない猫もいる。雪が降るからには、気温は少なくとも氷点下になるわけだ。寒さに弱い猫には大敵と言えるだろう。
南に移動するべきではないだろうか。
と提案するが、猫は珍しく、頑なに拒否した。蹂りんされた自分たちの洞窟を置いて、この精霊の森から出ていくわけにはいかない。尻尾を丸めて逃げるのは、戦士のすることではないのだと言う。私との遠征は特例だったらしい。あれははじめから、短期間で戻るという予定だったのだ。
鳥は自分の森を離れない。南下するなら構わないが、一人で行ってくれと言われる。一人で南下したって凍死しないだけで、待っているのは死だけのように思われる。残る他にない。
冬籠りをここでする他にないのだ。
こうなった以上、本格的に寒くなる前に冬支度をしなければなるまい。
冬を乗り越えるための十分な食料と、寒さをしのぐための家?
できるのか?
いや、できなければ死ぬのか。ぐずぐずと悩んでいる時間なんて、この先ないのだろう。生きたいのであれば。
(猫について・雑感)
水と寒さに弱い猫が山に住むことに疑問。
彼らの本来の生息域は、もっと温帯か、砂漠地帯ではないだろうか?
もともとは乾燥地域に住んでいて、生存競争に負けたか何かして、山の方に追いやられて来たのではないだろうか。
不適な環境下で生き残るために、猫は洞窟に住み、火を使うようになったのかもしれない。往々にして生物の変化とは、そうやって起こるものなのだろう。