三十五日目
晴天。空気は冷たいが、木漏れ日が暖かい。
目覚めてすぐ、移動しないでも良いという事実に、少し落ち着かない気持ちになる。ここしばらく、眠っているとき以外は歩きづめだったせいだろう。
しばらくして体を起こす。節々の痛みはやや引いたが、結構な熱が出ている。食欲もあまりない。この世界へ来てから相当痩せたように思う。
猫はまだ寝ているようだった。彼の生活はかなり不規則だ。ずいぶんと一緒に暮らしてきたが、かろうじてわかるのは、夜行性ではないということくらいか。
鳥もよく寝ている。食事の時以外は目を覚ましていないようだ。疲れているのだろう。おそらくは、私の傷を治したことにも原因がある。
この文章を書きながら、感覚のない二本の指を撫でてみる。相変わらず指先には痛みすらない。
続きを書こう。
起き抜け、私は一人で川へ向かった。
川辺にて火を焚き、水を沸かす傍らで木の枝を集め、日干しにする。川原いっぱいに枝を敷き詰めたあたりで、ボトルの水もいっぱいになり、引き上げる。
戻ってくると、猫の姿はなかった。また狩りに出たのだろう。朝食らしいものも取らず、本当に不規則な生活だ。
疲れてはいないのだろうか。空腹ではないだろうか。随分と私に付き合わせてしまったが、無理をしていないだろうか。
尋ねてみたいが、鳥が起きないために会話ができない。言葉が通じないのは不便なことだ。
言葉か。
言葉と言えば、もともと私は、猫に言葉を教えるようにと求められ、ここにいる。今までそんなことを考える余裕もなかったが、もう少し生活が落ち着いたら考えるべきだろうか。
それにしても、なぜ彼らに言葉が必要なのだろう?
鳥の通訳では満足できなかったのだろうか?
面白いものを見つけた。
猫も帰らず、特に書き記しておくこともなく、手持無沙汰であった午後。何気なくめくってみた博士の日記の余白に、簡単なスケッチが描いてあることに気付いたのだ。
単純な線で特徴だけ描かれたその絵は、どうやらこの世界の植物らしい。横には英語の短い文が書き添えられ、特徴を説明しているらしい。花、実、香り、毒の有無に、食用の可否まである。
日記の厚さに比例して、スケッチも結構な量があった。これは、是が非でも読み込んでおくべきだろう。どうせ体力不足で、半日近く寝床に転がっている身だ。読む時間はいくらでもある。
それから、日記に挟まれていたいくつかの紙切れと封の切られていない手紙。そこに混じって、小さな袋に入れられた植物の種らしいものを見つける。種は小粒でかなりの量があり、袋の表面には雑な字で、「radish(二十日大根)」の走り書きがされていた。日記の最新部分に挟まっていたあたり、おそらくは栞代わりにでも使われたのだろう。
思いがけない拾いものだ。不幸中の幸いとでも言うのだろうか。これで少しは、食生活が安定するかもしれない。猫の狩りにばかり頼るのは心許ないと思っていたのだ。
二人分の食糧を探し回ることは、猫にとって負担になっていることだろう。実際、あの猫は活動量に対して食事量が少なすぎるようにも思える。
現状では、猫が倒れたら手詰まりなのだ。今までは猫の好意に甘え続けていたが、そろそろ私自身でも生きる手段を身に着けるべきだろう。
どうせもう、この世界で生きる他にないのだから。
種を見つけた後について。
私は日記を置いて、種だけを手に取ると、すぐさま日当たりのいい場所を探しに行った。
寝床近くは多少木漏れ日が差す程度で、植物を育てるには適さなかったのだ。寝床が目視できる範囲で、しばらく森をうろうろと歩く。
辿り着いたのは、以前に薪を作ろうと試みた場所だった。やや若い木に囲まれ、陽光が暖かい。
数日前、私の手によって並べられた枝はそのままの様子で、すっかり乾いてくれていた。この枝は拾い集めておく。
代わりに素手で土を掘り返す。固い土は手に痛く、道具が欲しくなる。私の持ち物で、代用できそうなものはあっただろうか?
この時は道具を使うという考えに至らず、指で地面を削り取った。夢中だったのだ。
狭い範囲を掘り返して土を柔らかくすると、等間隔に数粒ずつ種を蒔いた。全部蒔こうかとも思ったが、土が合わず育たなかったときのことを考え、少量残しておく。(今から考えれば、これは全くの杞憂であったと言える。博士の家の庭には、元の世界の植物が植わっていたのだ。少なくともこの近辺の土地は、元の世界の植物を育ててくれるはずである。それよりも心配なのは、ますます厳しくなる冬の寒さだろう。寒さで枯れる可能性がある)
一通り種を蒔くと、目印として拾ったばかりの薪を突き立てておく。種の周囲を囲うように四本突き立てると、四角い畑のようにも見えた。芽が出てくれることを祈りつつ、寝床へと戻る。
寝床へ戻った後は、焚火に薪を放り込み、乾燥の具合を確かめる。数日置いただけあって、火持ちはいいらしい。
薪をくべる傍ら、博士のスケッチを翻訳する。日が落ちるまで読みふけり、日が落ちてからは懐中電灯を取り出して読む。またしても夢中になりすぎ、猫の帰宅も気付ず。
猫の帰宅後は、鳥を起こして食事とした。彼が狩ってきたのは、一見すると丸い毛玉のようだったが、よく確かめると羽の退化した鳥類だった。鳥が鳥を食べるものかと思ったが、羽をむしって焼いてやると、抵抗もなくつつき始める。人間と猿で考えたら、そういうものなのかもしれない。あの鳥は割合雑食だ。
食後、猫は相変わらず体を舐めて毛づくろいする。のち、櫛で梳いてダニを取る。律儀にあの不格好な櫛を使い続けてくれているらしい。しかしよく見ると、櫛に毛が絡み、随分と歯が欠けている。これでは用を足さない。いずれ新しいものを作らなければならないだろう。
火に薪を足し、就寝。時刻はまだ八時過ぎだ。活動量が多い分、眠る時間も多いのだろうか?
丸くなる猫に寄りかかり、眠気が来るまで日記を書いていたが、まだ眠れそうにない。
呆けていると不毛なことばかり考えてしまうため、博士の日記帳を取り出して、間に挟まっていた紙切れでも眺めることにする。
英文を読んでいれば、どうせすぐにでも眠くなるだろう。